daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

句姿の基本形

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合
>俳句にはたった二つの型しかない。
>一つの素材を詠む一物仕立てと二つの素材を詠む取り合わせである。
>一物仕立ての句は内容の句であり、取り合わせの句は関係の句である

俳句を一括りに説明できたら、初心者にも取っ付きやすいでしょう。
説明できないから読み手が間違って読んでしまうとも言えるのです。
誤りなく・正しく読みたいとの思いから色んな説も生れるといえる。

世間一般に長期に亘って通用している分りやすい言い方も多い。
昼あんどんのようにカビの生えた単語を出されても世間はマゴつく。
それとも、言葉の意味・内容がまったく異なるとでも云うかしら。

「一句一章」を、「一物仕立て」と言い換える必要があるでしょうか。
「二句一章」を、「取り合わせ」と言い換える必要があるでしょうか。
ともあれココでは、長谷川櫂氏の解説にも目を通したいと思います。

一句一章の句に鋭い内容が詠まれていなければ、詰らないでしょう。
二句一章の句も鋭い内容は詠まれるべきですが、それだけではない。
二句一章の特徴は二句の絡み合いから生れる宇宙であると云えます。

*閑さや岩にしみ入る蝉の声

例えば「閑さや」と「岩にしみ入る蝉の声」の二節がつながった時、
二節の個々には存在していなかった新しい空間・宇宙が生まれます。
読み手の心の中に生まれた宇宙に、読み手はそれぞれに遊ぶのです。
ここで詠み手・芭蕉が何を考えたかと悩み遊んでも一向に構わない。

言い方を替えれば、二つのフレーズのハーモニーに生れる宇宙です。
事実と事実から真実が見えるように、新しい宇宙が心に浮ぶのです。
二枚の画像・写真を観て、そこに描かれていない画像が浮ぶのです。

>一物仕立て…一つの素材を詠んでいる…散文に近い形式である。
>一物仕立ての句とは一句の内容にはっとする句である。
>音にたとえれば、一物仕立ての句は単一の音である

*行春を近江の人とおしみける

この「一句一章」の句に詠まれた素材は「行春・近江・人・惜しむ」
四つの素材の一つが欠けても文章になりますけど、趣旨が変化する。
句の素材を入れ替えることで趣旨・内容は変り、別の味わいになる。

一句一章の句には「単一の音」独特の味わいがあると申せましょう。
句に新しい発見を詠んだら、読んだ人はハッとさせられるでしょう。
自然の清清しさを読む事で、読んだ人の心も清清しい気持ちになる。

詠み手と読み手の共通の記憶を句に詠むのもキッと楽しいでしょう。
「近江の人」とは誰なのか…第三者の普通の常識で判るでしょうか?
このような句もまた【OK】なのが芭蕉俳句の世界観なのでしょう。

* やまざとはまんざい遅し梅(うめの)花

>「やまざとはまんざい遅し」と「梅花」という二つの素材でできている。
>二つは…互いに照らし合って一つの世界を醸し出す。
>取り合わせの句は言葉と言葉がはっとする関係で結ばれている句である。
>(音にたとえれば)取り合わせの句は言葉と言葉が奏でる和音。

>取り合わせという手法を獲得したことによって一物仕立ての網で掬いきれない複雑なことや微妙なことも自在に言い表わすことができるようになった。

>万歳…正月に家々を訪れ…山里では初春もやや進んでから訪れる。
>「梅花」が取り合わせられると、山里の初春の景色がぱっと目に浮かぶ。
>(ふたつは)互いに息を吹きこまれて生きた景色に変じている。

それだけではないけれど、櫂氏の趣旨・言い分にも理屈はあります。

>取り合わせとは単一の音で言い尽くせないものを表わす形式なのである。

(正確に言い直すなら) 取り合わせで、文字面に顕れない世界を表現する。

そのことが、俳句のアバウトな世界観を強めたとも云えるようです。
己の心の世界で、人は自由に想像できるけど、他者へ介入できない。
唯、共感する人が多い句は多くの人に受け入れられたと知るのです。
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