小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京バレエ団 20世紀の傑作バレエ

2017-09-13 04:29:40 | バレエ
9/8から9/10まで上野の東京文化会館で行われた東京バレエ団の『20世紀の傑作バレエ』の最終日を観た。キリアン『小さな死』プティ『アルルの女』ベジャール『春の祭典』のトリプル・ビルで、『春の祭典』以外は東京バレエ団初演。初日の一週間前に目黒のスタジオで2演目のリハーサルを見学したが、キリアン作品にもプティ作品も海外からの指導者が招かれていて、白熱の追い込みが行われていた。

キリアンの『小さな死』は、モーツァルトの有名な二曲のピアノ協奏曲の緩徐楽章に合わせて、6人の男性ダンサーと6人の女性ダンサーによって踊られる約20分の作品。冒頭部分で男性たちが剣を足元で円を描くように回す動作が魅惑的だ。夜の闇を思い出させる大きな黒い布がひるがえると、女性ダンサーたちがいつのまにか魔法のように舞台に表れている。至近距離で見た男女の踊りは高度な動きの連続で、シンプルな音楽に乗せて次々と複雑で新しいシルエットを作り出していく。大変な集中力を要する振付で、呼吸が少しでもズレると大怪我しかねない。男性ダンサーの何人かは背中や足に痛々しいテーピングをしていた。
コレオグラファーの思想のためにこんなにも命懸けで取り組まなければならないダンサーは何という職業なのだろうと改めて思った。
長くキリアンのネザーランド・ダンス・シアターで踊ってきたエルケ・シェパースが、何よりもダンサーの安全を第一に考え、全員が献身的にこの振付に取り組んでいることに感謝しながら指導を行っており、低いポジションでのリフトが不完全になっても「大丈夫、ありがとう」と声をかけていた。踊り手であったシェパースには、この作品の難しさがよくわかっているのだ。

その『小さな死』が、本番の照明のもとでは、静謐でファンタジックでひたすら美しいダンスになっていた。6組の男女のパ・ド・ドゥは、フランドル派の絵画に出てくる中世の夫婦のようで、夫と妻が夜の中で行ういたわり合いの儀式が演じられていた。夫は妻を医者のように点検し、お腹をぽんぽんと叩き、夫の手の中で妻は小さな蝶のようにぱたぱたと羽根をはばたかせる。エロティックな暗示が素早くあらわれては去り、慎ましやかな日常の中で保たれている人間の営みが、詩のような優しさで暗示される。稽古であれほど苛酷に見えた振付のすべてが、静寂と永遠の中に溶け込んでいくように見え、キリアンの天才に驚愕せずにはいられなかった。途中で現れる黒いドレスのトルソーは、キリアンによると「手足を切断された」ボディだというが、可動式のトルソーとともに踊る女性ダンサーは少しばかりユーモラスで、トルソーだけが舞台に漂う場面も印象的だった。
メインのカップルの柄本弾さんと川島麻実子さんは、中日にはアルルの女の主役も踊っている。『小さな死』では閃光が飛び散るような、キリアンの魔法を見せてくれた。
この作品を舞台で完成させた12人のダンサー全員が、美のための勇敢な戦士だと思った。

『アルルの女』は生前のプティが理想のバレリーナとして高く評価していた上野水香さんと、プティの主要作品を踊りこんできたロベルト・ボッレがカップルを踊った。プティから直接指導も受けた二人は、このシリアスなバレエの本質を深く理解しており、稽古場でも素晴らしい相性だった。ボッレは明るい性格で、洞察的で、溢れ出るような優しさをもつ人物で、一度一緒に仕事をした人は共演者から裏方まで全員が彼を大好きになってしまうのだろうと想像できた。水香さんもとても心の大きな方で、二人が踊っているとその姿の向こうに無限の世界が広がっていく。「役を演じる」ということは果てしないことなのだ。その可能性をどれほどのものとして測るのかは、踊り手の采配に任されている。
 ビゼーの音楽にはすべてが書き込まれていて、舞台には登場しない「アルルの女」に魅了される善良なフレデリと婚約者のヴィヴェットの葛藤が、次から次へと展開していく音楽的モティーフとともに演じられていく。プティ作品の中でも大変深刻な作品だが、ビゼーに関しては他の振付家が手を出せないほどの強い愛着を見せていて、劇的な表現も卓越している。衝撃的だったのは、フレデリが十字架に張り付けられたような姿勢となり、ヴィヴェットとともに受難者の如く対象的にリフトされる場面で、あれは全幕版でしか見られない貴重なものだった。フレデリはそこにいない幻影の女に魂を抜かれ、胎児のように丸まってすべてを放棄しようとする。その演技にも胸を撃ち抜かれた。ボッレは王子役より魅力的で、内面的な表現を求められる作品に強みを発揮していくダンサーになっていくように思われた。しかし跳躍の力強さはキープされており、肌も大理石のようで40代には見えないのだ。「一日8時間練習し、飲酒は一切しない」ライフスタイルだという。芸術の女神に愛されている人にはこういう生き方が出来る。ギリシア彫刻に譬えられる肉体美も健在だった。

このトリプル・ビルは凄いプログラミングで、貫いているテーマは「愛」と「官能」なのだが、振付家はダンサーの美しい身体を素材にして、人間の限界と「愚かさ」について語りつくしている。限界と愚かさを描くことによって、美が立ち現れるなんて想像もできない。ダンスだけがそれを可能にするのだろう。
肉体は人間の限界そのもので、ここに精神が閉じ込められていることがすべての悲劇の源泉なのだが、同時に身体こそがすべての可能性であり歓喜の源泉なのだった。
美しいこととは「愚かではないこと」だと思っていたが、振付家は愚かさに対して寛大であるだけでなく、愚かさそのものを愛する…。人間の条件を慈しむ巨大な愛が、振付家の知性なのだった。

ベジャールの『春の祭典』では、さらに原始的な男女の官能が描かれる。ベジャールは20世紀を生きた現代人としての責任を負っていた人で、ピエール・アンリからミキス・テオドラキスまで20世紀に書かれた音楽に真摯な共感を抱いており、創作からは迷いのない姿勢がうかがえる。バレエ・リュスのために書かれた『春の祭典』は、前衛の時代を生きたストラヴィンスキーが「何をもって音楽をサバイヴさせるか」を大胆に提示した作品で、ここで作曲家は死にかけた知性に対して「生きよ!」とカンフル剤を突きさしている。
調性音楽が時代遅れとなり、無調や12音音階がモダンの主流をなしていた時代に、ストラヴィンスキーはシェーンベルクのような「英雄的な音楽の自殺」を選ばず、古代の音楽とリズムに救済を求め、骨太な音楽を書いた。ストラヴィンスキー自身が、フィジカルなものを信頼していた人で、作曲の作業が挫けないに特別な体操をして身体を鍛えていたのだ。
つまりベジャールは、そうしたストラヴィンスキーの衝動こそがダンスであり、人間の未来だと認識した。高度に知的な音楽と振付の結婚がベジャール版『春の祭典』なのだ。
個人的に、このバレエを初めて見たのも東京バレエ団だった。生贄はギエムとイレールで、イレールの美しさにショックを受けてしばらくぼうっとしていたのを思い出す。
現在の東京バレエ団は群舞のレベルがますます上がっている印象を受けた。特に前半の男性群舞のワイルドな存在感は、新鮮な気迫だった。あの春祭の男性ダンサーたちは、女性から見て「怖い」と思えるほど獰猛でなければならないのだと思う。原始人のようでありながら、ストラヴィンスキーの奇々怪々なリズムに合わせて正確に踊る。ベジャールの自伝では、エリートであるパリ・オペラ座のダンサーたちでさえ四苦八苦して、袖で「1.2.3・・・」と拍をカウントしていたという。
生贄役の岸本秀雄さんは身体能力が高く、ベジャール特有の蛙のようなジャンプ(!)も美しく、何より強靭な「男の群れ」の中で脆弱性をあらわしてしまう受難の雄というデリケートな存在を絶妙に演じていた。
女性の生贄役は渡辺理恵さんが踊った。渡辺さんを舞台で観るのは久しぶりなような気がする。シルフィードから生贄まで観られるのが東京バレエ団の凄いところだが、巫女的で宇宙的な霊感と結びつき、最後は群れを巨大な熱狂へと駆り立てる役を見事に演じた。
女たちが青白い光の元に表れるあの場面は、いつも海底の生き物を思い出す。エイリアンのようでもあり、ベジャールのイマジネーションの豊かさには驚くばかりだ。
その天才に対して、『春の祭典』の初演では大ブーイングが起こった。ベジャールは血相を変えながら「これが私のやりたいことなのだ」と語ったという。
強烈な「遺伝子」は何代ものダンサーによって無数の再演を繰り返し、生き続けていく。世紀が変わって全く色褪せることがない名作だった。


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