小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『ばらの騎士』(12/6)

2017-12-09 09:51:12 | オペラ
新国で上演中の『ばらの騎士』の12/6の公演を観た。平日マチネだが一階席は結構埋まっており、制服の学生の姿もちらほら見える。今年もホワイエには大きなクリスマス・ツリーが置かれていて、去年ここで観た『ラ・ボエーム』のことなどを思い出していた。
新国の『ばらの騎士』を観るのはこれが3回目。オックス、オクタビアン、ファーニナルが2015年と同じ歌手だが、今回は特に出来映えがよかった。オックスのユルゲン・リンは最初から最後まで絶好調で、Rシュトラウスはこの役のためにオペラを書いたのではないかと思われた(その説もある)。指揮はウルフ・シルマー、オーケストラは東京フィル。

ジョナサン・ミラー演出は衣装とセットが装飾的で美しく、冒頭で元帥夫人とオクタヴィアンが睦み合うシーンから華麗で官能的な雰囲気が漂う。このとき、元帥夫人を演じていたのが7月の『ジークフリート』でブリュンヒルデを演じていたリカルダ・メルベートであることにすぐ気づかなかったが、彼女の姿を見て直観的にワーグナーを連想した。年上女性の愛に溺れている若いオクタヴィアンがタンホイザーに思え、10代の若者を快楽の虜にしている元帥夫人がヴェーヌスに思えたのだ。メルベートが立ち上がって歌うと、アフロディーテ風のヘアスタイルと凛々しい立ち姿もあって、今度はブリュンヒルデに見えた。元帥夫人の突然の拒絶にあって、馬に乗って颯爽と立ち去るときのオクタヴィアンの音楽も「ジークフリート」そっくりなのだ(彼らはともに17歳の少年)。

オックス男爵のユルゲン・リンもワーグナー歌手で、先日の飯守リングでは『ラインの黄金』『ジークフリート』でアルベリヒを歌っている。オックスがアルベリヒなんて出来過ぎのような気もする。大柄な身体を生かし、喜劇的な人物をやや大げさなくらい―面白く演じていた。何とも人間味がある歌手で、『マイスタージンガー』のハンス・ザックスもレパートリーらしいが、なるほどこれぞ理想のハンス・ザックスだと思った。酔っぱらった滑稽な男爵を演じるため頬に真っ赤なチークを入れているが、オペラグラスで見ると結構渋い二枚目なのだ。

オックス男爵が振り撒く「男の愚かさ」は、R・シュトラウスがえんえんとオペラの中で描き続けてきたもので、彼らは古いタイプの権力者であり、女に意志や選択権があるとは思ってもいない。すべてが自分の思い通りになると思っている。その悲しい象徴が『ダナエの愛』の神ユピテルで、R・シュトラウスはしつこくも「なぜ自分のものにならないのか」という議論をユピテルとダナエに歌わせるのだが、オックスもユピテルも究極的には同じだ。
オックスの愚かさの本質は、神であることなのだ。
ファーニナル家のゾフィーとの婚約のことを元帥夫人に報告するとき、オックスは相手の家柄を徹底的に卑下する。「私のように貴族の血が二人分流れている者はこの一族には勿体ない」「所詮は成り上がりの三流貴族」と自分の優位をしつこいくらいに自慢する。このとき、自分がいかに老いていてみっともないか、そして何より「新しい時代に取り残されているか」をオックスは気づいていない。彼は貴族=神として生まれ育ち、それ以外の外の世界を知らないからだ。

オックスという人物は「セクハラ」「パワハラ」が問題になっている今の時代にとてもタイムリーな存在でもある。オペラ界でも神のような大物が槍玉に上げられた。それまで暗黙裡に行われていた慣例や我儘が通用しなくなるというのは、本人にしても寝耳に水なのだろう。オックスは、自分の受けてきた教育しか知らず、貴族としての狭い世界しか知らず、世間のことを知らない。それは大きな悲劇であるはずなのに、『ばらの騎士』では喜劇として描かれる。ユルゲン・リンは自分の身体のすべてをこの滑稽な役に捧げていて、落ち着きのない指や、赤いタイツを履いたひざから下の長い脚、突き出たお腹で皆を笑わせていた。

「ばらの騎士」がワーグナーの世界と符合しているのなら、オックスはヴォータンなのかも知れない…一幕で感じた直観をずっと「いやいや」と否定してきたが、三幕でワイワイ登場するオックスのたくさんの子供たちを見て「やはりそうか」と思った。人間や神との間にたくさんの子供を使ったヴォータンは多産系の神であり、神の世界はやがて黄昏て崩壊していくしかなかったのだ。
そう思うと、オックスのすべてが悲しく見えた。二幕の最後から三幕のはじめにかけて、彼はえんえんと三拍子のワルツに乗って踊っている。ワインのデキャンタやウイスキーをパートナーのようにかかえて、「これから女を抱ける!」と浮かれて踊るのだが、彼を有頂天にさせているのは女中に化けた少年なのだ。男は酩酊の中で夢を見る…「こうもり」のアイゼンシュタインも、ファルスタッフも。酒の悲しさ、男の悲しさ、老いていくことの悲しさ…ミラー演出ではご丁寧にも、オックスにカツラまで取らせて「老いらくの恋」を強調するのだが、ユルゲン・リンがあまりに熱演なので、滑稽でありながらかえって悲哀が溢れた。

オクタビアンのステファニー・アタナソフは急な交代で新国のばら騎士に再登場することになったが、ほっそりとした姿がズボン役にぴったりで、演技もうまく歌唱も上品だった。オクタビアンと恋に落ちるゾフィーは、南アフリカ出身のゴルダ・シュルツで、明るい声でディクションも明晰で、ルックスがとても新鮮。舞台での反応が素晴らしく、鋭い直観を持っていると思った。ファーニナルのクレメンス・ウンターライナーはダンディな二枚目で、父である自分より年上の婿オックスと並ぶと何ともちぐはぐな感じがして、キャスティングの妙を感じた。
元帥夫人のメルベートは明るい声質で、年上女のおどろおどろしさはなく、見た目も若々しく素敵だった。ブリュンヒルデもマルシャリンも歌えるというのは素晴らしい。『ジークフリート』ではブリュンヒルデの出番が少なかっただけに(最後だけ)、今回のほうが印象に残った。
三幕での喪服のようなシックなドレスも似合っていた。来年の『フィデリオ』でもレオノーレ役として登場する。

ウルフ・シルマーは冒頭から攻め攻めで、東フィルは指揮者に最初から最後まで本気でついていっていた。気迫があり上品さもあり、複雑なオーケストレーションが混濁せず、どの場面も演劇的だった。シルマーはかなりリスクをとっていたように見えたが、高度な演奏も舞台で起こる色々な面白いことに影武者のように奉仕していた。客席は大盛り上がりであった。
この公演は新国立劇場の開場20周年記念公演とプログラムには記されているが、そのせいで歌手がよかったのだろうか。ワーグナーの物語を連想したのも、今回の顔ぶれだったからかも知れない。「テノール歌手」役の水口聡さんの振り切れた歌唱など、日本人歌手たちも熱演だった。12/9に最終の上演が行われる。