小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

LFJ2024② ジャン=バティスト・ドゥルセ 小津安二郎の映画に寄せる即興演奏

2024-05-12 09:40:51 | クラシック音楽
2024年のラ・フォル・ジュルネは221席の小ホールでの名演が多かった。1992年生まれのピアニスト/作曲家ジャン=バティスト・ドゥルセによる演奏会も心に残る時間で、こちらは小津安二郎の1929年の二本のサイレント映画に即興演奏が乗せられるという試み。
ドゥルセはロン=ティボー・コンクールで4位(2019年)を得た演奏家。現代の「ピアノの詩人」とも呼ばれているらしいが、何よりこの演奏会のコンセプトが気に入った。フランス人に小津ファンは多いというが、サイレント映画まで愛しているシネフィルのピアニストがいること、選ばれた二つのフィルムが何とも人間味に溢れていることが喜ばしく思えた。

仏語通訳をともなったドゥルセがこの試みについて簡単に説明をする。耳に快い声で、満員の会場の空気もやわらいでいるのを感じた。『突貫小僧』のフィルムはだいぶ痛んでいて、台詞部分の文字の映像も見えづらい。不便なことが多い中、流れるようなピアノの即興演奏が聴き手の心にさまざまな模様を作り出した。子役の小僧(青木富夫)のやんちゃぶり、人さらい(斎藤達雄)の滑稽さ、子供が大人をたじたじにいじめる本末顛倒ぶりが面白い。悪さをたくらんだ大人が逆に子供にコテンパンにされ、おもちゃを買ってもらった小僧が得をして、小僧の仲間たちまでが人さらいに群がる。「おぢちゃん、でんでん虫の顔をしてよ」という小僧にこたえる人さらいの可笑しさ。小津映画の俳優は二枚目で、所作も外見もどこか洋風だ。

帰宅してから同じ映像をyoutubeで見つけて、まったくの無音で見ると何とも物足りないことに愕然とした。ドゥルセの即興は自然で、ラヴェルやドビュッシーの後期作品を主に連想させるもので、サイレントの映画にいたずらっぽい仕掛けを作り出していた。映画のサントラは「最後のいたずらが出来る」と坂本龍一さんが語っていたが、21世紀に活躍する若手ピアニストがこんな「風流」をやってみせることに惚れ惚れしてしまう。毎回即興なのか、ある程度筋書きは決まっているのか、多分両方の要素があるだろうが、まるで演奏が密やかな影であるかのように小津のストーリーがくっきり心に残ったのも驚くべきことだった。

次の『和製喧嘩友達』の前に、再びドゥルセが語り始めた。「今日ここにいられることが幸せです。ここに集まったみなさんを感じながら、即興を弾きます」。漂いつつ、心に杭を打つピアノで、香りも感じられるようで、かけひきのようなものもあった。「フランス人は恋の終わりに、どのように相手の心に爪痕を残すか、それしか考えていないから」と誰かから教えてもらったことを思い出した。

『和製喧嘩友達』も映像は古くて荒い。フランスの小津ファンは本当にマニアックなものを見つけてくる…と思いつつ、サイレント映画の奇妙な饒舌さに目を奪われる。貧しいトラック運転手の留吉(渡辺篤)と芳造(古谷久雄)の暮らしぶりは洋風で、雑然とした食卓にはリキュールやタバスコのような調味料が置いてあり、フォークとナイフを使って何かを食べている。これはアメリカ映画『喧嘩友達』の和製版で、オリジナルが1927年で小津の和製は二年後の1929年に作られている。身寄りのないお美津(浪花友子)を家に連れ込む場面で、何やら妖しい展開を想像してしまったが、女性への悪事はまったく行われず、ヒューマニスティックで泣けるラストが待っている。『突貫小僧』も『和製喧嘩友達』も、当時どちらもヒットしたらしいから、我が国もイノセントだったのだ。

パスカル・アモワイエルのリストの音楽劇と、このジャン=バティスト・ドゥルセの即興で、ピアニストは何をやってもいい時代が来ているんだと実感した。本来ピアニストは聴衆に語り掛ける存在で、「いよいよ本当に語りかけてきた」二つの演奏会を経験し、フランスの自由さが眩しく思えた。こういう新鮮さを教えてくれるのがラ・フォル・ジュルネの醍醐味でもある。演奏家と聴衆の相思相愛を実感し、小津のヒューマニズムを発見した45分間。








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