チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

アルフレッド・コルトー、来日時の会話(1952年)

2016-07-06 21:22:17 | 来日した演奏家

芸術新潮1952年11月号に来日中のコルトーへのインタビュー記事がありました。聞き手はコルトーの弟子、本野照子さん。

-----------------

恩師コルトオが日本に着いてからもう十日以上となる。その間先生に附添って、親しくその生活にふれ、言葉を交すことが出来たのは、後の日までも私の心に残るに違いない。いま、その会話の数々の中から、とくに個人的に亙るものを除いて、いくつかをコルトオを愛する人々のために記しておこうと思う。

↑ 帝国ホテルにて



― やっと日本へお出になられましたね。

CORTOT  文明の国、芸術の国、詩的な国、日本に来られてこんなにうれしい事はありません。旅行は汽車で出来るでしょうね。芸術的な自然美に接するには、汽車か自動車でなければ駄目です。日本へ来ることについて、私の楽しみの一つは景色をよく眺めることですから。

― 今、フランスでは若い人で音楽をやっている人は沢山いますか。日本では、戦後とくに学生で音楽をやっている人、又やらないでも愛好者が非常にふえたように思われるのですが。

CORTOT  非常に多いです。私は七人のリセ(高等学生)の若い人を集めて音楽サークルをはじめましたが、今では、フランス全体で二百万人もいます。皆、戦争の為に荒だった気持や思想を音楽によって癒されているのです。演奏だけではなく一般の音楽的教養を身につけているのです。

― 御希望どおり学生の為の演奏会を催されるそうですがそれには何をお弾きになりますか。

CORTOT 学生達の好きそうな曲を弾きたいと思います。練習曲(エチュード)はどうでしょう。ピアノをやる学生は皆、一度は弾くでしょうから。

― お気に召すか知れませんがお部屋にピアノを入れておきました。

CORTOT それは有難う。ルービンシュタインが昔言っていたように、「一日弾かないと自分が気がつく、二日弾かないと友達が気がつき、三日弾かないと聴衆みながそれに気がつき」ますからね。

― もし大阪で一回しか演奏会が出来なかったとしたら、どのプログラムをお選びになりますか?

CORTOT 大阪は大きな町ですから、プログラムA(前奏曲と練習曲)を選びます。

― 地方でしたら?

CORTOT  皆に知られていて、偉大な作品ばかり入っている、プログラムC(ショパン、シューマン)を選びましょう。この中には、シューマンの謝肉祭、葬送行進曲の入っているショパンのソナタなどがあります。

― ただ一度の演奏会の時、聴衆の希望によりショパンの物、たとえばフランスの近代作曲家の曲をまぜる事は出来ますか?

CORTOT  絶対に出来ません。そんな事をしたら作曲家が泣きますよ。食事の時にスープとデザートをまぜて食べられないように、ロマンチックと近代をまぜることはできません。演奏する時は自分を輝かせることを考えてはいけません。それから聴衆のことを考えるより前に、作曲家のことを考えないといけません。

― お好きな作曲家はやはりショパンとシューマンですか。

CORTOT いいえ、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナーです。無論ショパン、シューマンは好きですが、全然違った意味で好きなのです。あの三人(バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー)は偉大なる音楽家ですからね。バッハの中には、何でも入っています。バッハ以後の作曲家の曲には彼の何かが入っています。たとえば、世界中の楽譜がなくなってバッハの平均律の一、二がどこかの島に残ったとしたら、今までの作曲家達の作品を全部つくりなおすことが出来るに違いありません。シューマンの作品の中にはシューマン自身が入り込んでいます。クレイスレリアーナを作曲したとき、クララに、この曲の中には、君に対しての喜び、悲しみ、淋しさ、怒りのすべてが入っていると言ったそうですね。

― 近代音楽では、誰の作品がお好きですか。やはりドビュッシーですか?

CORTOT 良い曲であれば誰のものでも好きです。別に好き嫌いはありません。ラヴェル、フォーレなど好きですね。ドビュッシーは日本の俳句と同じです。とてもきれいな曲があります。好きな曲では、ドビュッシーのプレリュード、ラヴェルの夜のガスパール、まだ他にもありますが。

― バッハを本当に弾くには宗教がなければいけないのではないでしょうか、教会の中での厳粛な空気にひたらないとバッハの気持が分からないように思われるのですが?

CORTOT バッハはアンテルプレタシオン(解釈)が非常にむずかしいですね。何時も天にむかって上へ上へと行く建物......これが教会の――どの宗教でも同じですが――スタイルです。それと同じようにバッハの音楽は天にむかって弾くものです。神への賛美、神への訴え。バッハでも他の作曲家の曲でもすべて音楽は指で弾くものでなく、魂と心で弾かなければなりません。それを現すために手首のやわらかさが手伝ってくれるのです。西洋の音楽は、すべて感情の現れです。だから、弾く時には当然、自分の感情を、現わさなければなりません。大きな鼻を持っているとか小さな口を持っているというようにその曲に対して持っている感情は各々違うものですからそれを現すのが、アンテルプレタシオンです。

― 今度の演奏会でバッハをお弾きにならないのは非常に残念です。

CORTOT バッハは自分の為にだけ弾くのです

― 小さい時から曲を弾く時にその曲のイメージを描いて弾いていたのですが、同じ曲を弾いても子供の時と今とでは、イメージが全然、違ってしまっています。やはり子供の時は、童話に出てくるようなイメージを描いていたのですね。自分勝手なイメージですから作曲家自身の考えていたのとは違うのかもしれませんが、自分のイメージで弾くと弾きやすいのです。いけないことですか?

CORTOT いいえ、それは非常に良いことです。指を忘れて、曲のイメージを作って弾くものです。アンテルプレタシオンは前にもいったように自分の気持ちの現れですからね。

― 暗譜で弾く時一人の折は良いのですが、人の前では、何となく不安で困ります。どうしたら良いでしょう?

CORTOT 演説家が書いたものを見ないで話す時、話そうとしている内容を前からよく知っていれば、先へ先へと何のこだわりもなく話していくことができます。それと同じように音楽も曲の内容を前もって良く知っていれば、心配なく弾けます。内容とイメージだけで後のことは、忘れて良いのです。楽譜を目の前に置いて弾くのだと、見るということを意識するので、本当のアンテルプレタシオンを現すことはむずかしいのです。

― 「舞踏への勧誘」のナマをうかがうのは今度が初めてです。レコードではよくうかがいました。

CORTOT 可愛い美しい曲でしょう。レコードと今度弾くのとではアンテルプレタシオンが少し変わっていますよ。あれを吹き込んだのは1918年頃だったでしょう。

― たとえばどういう風に....

CORTOT レコードに吹き込んだ頃の私が想像(感じ)していたイメージは、大勢の人が舞っている風景でした。だからブリリアントに弾いていたのですが、今は違います。大勢舞っている中から、一組だけ抜け出した、恋人達の様子が目に浮かびます。そして、踊りながらする恋物語、私はこの曲が大好きです。この曲ではどこでも聴衆が失敗をするのですよ。最後の一寸前で曲が終わったように思われるので拍手をしてしまうのです。そうして実際に終ったときは拍手をしないのですよ。

― 戦後若いピアニストは女と男に区別してどちらが多いのですか。

CORTOT どちらが多いか知りませんが多分女でしょう。女といえば面白いことがあります。女の人が一番良く勉強するのは14、5の時ですよ。年頃になるとお化粧、ダンス、初恋などに忙しくて不勉強になりがちです。音楽の勉強には、必ず努力、根気、(遊ぶことへの)犠牲が必要ですからね。

― 手が小さくて、本当に困る事があります。

CORTOT 手が小さくて良いこともあるのですよ。三度などが美しく弾けるでしょう。私などは三度が美しく弾けなくて困ります。

― ポロネーズなど弾けなくて困っております。

CORTOT 自分の肉体にマッチした作品を選ばねばいけません。そうしないと手にこだわって本当に弾くことは出来ないものです。

― では手の小さな人には何がよいのでしょう?

CORTOT ドビュッシー、モーツァルト、ヴィヴァルディなどがいいでしょう。モーツァルトのファ・ディエーズを含むソナタなどがよい。【←嬰ヘの楽章ありましたっけ?】

― リストのハンガリー狂詩曲をお弾きになってお疲れになったでしょう。

CORTOT 私はピアノを弾いて疲れたことはありません。第一、狂詩曲を弾くのはベートーヴェンのアンダンテを弾くのよりずっと楽です

― ショパンのプレリュードの中ではどれがお好きですか。

CORTOT 2番です。何とすばらしい曲でしょう。

― エチュードの最後の三つはひどく疲れる曲でしょう。お疲れになりません?

CORTOT そう、確かに全身の神経を必要とする曲ですね。

― お能をご覧になったご感想は....

CORTOT 何とすばらしいものでしょう。音楽ではありませんが、魂を圧倒する何かがあります。そして重みのあるもの、クローデルの詩みたいです。

― 文楽はいかがですか。人形をあやつる人は邪魔になりませんでしたか?

CORTOT これもまた違った意味ですてきです。動かない顔が体や手の動きのために、生きた表情に見えるのには感心しました。あやつる人と人形は一つになっていますね。そして、三味線が非常に美しかった。とても上手です。神経質なテンポに変わる所など、音楽家として立派ですね。あの日本の音楽家達に非常に感心したと伝えておいてください。

― 東洋人の音楽は、何となく冷たいような気がするのですが。

CORTOT 我々は日常の生活で喜び悲しみすべて感情を外に現していますが、東洋人は今までの教育で自分の感情に出さないように育っているようですから音楽に現わすのもむずかしいのではないのでしょうか。今までの習慣のために.....

― 日本固有の芸術家に対して何かご意見がありますか。

CORTOT 日本みたいに古い歴史と芸術をもっている国ではそれ自体の美を生かすべきだと思います。音楽にしろ絵にしろ自分の国の個性を出さずに西洋のまねをすることは非常に惜しいことです。もっともっと日本の個性を出してほしいですね。スペインの音楽、ポーランド、ハンガリーの音楽のように祖国の個性を出したものの作曲家を私は聞いてみたいと思います。

― 日本の景色はいかがでしたか?

CORTOT  すばらしい自然の美、まるで手入れを良くしてある庭みたいです。そして清潔な緑の田畑の瑞々しさ、東京から大阪の間、一瞬も窓から目を離すことが出来なかった程美しかった。

― 日本で今まで目にお付きになったことは?

CORTOT  和服の色彩の美しいこと、陶器のしぶさ。それから書の美しさ、あれはまさに絵です。柔らかい感じと固い感じの調和が実に良く筆で現れています。ペンで書かれると美しさが少し落ちるようですね。

― 先生がお好きな楽器は何ですか。

CORTOT  スタインウェイ。昔からです。何と素晴らしいピアノでしょう。ピアニストにとって良い楽器はかけがえのない物ですからね。楽器が本当に良くないと自分の気持を外に現すことが出来ません。自分の気持が聞いている人の心に伝わるのが音楽なのですから楽器の役目は非常に偉大なのです。

― どういうのが本当に良いピアノなのでしょう。

CORTOT  弾き出す時に、まず一寸抵抗があってそれからやわらかくなることと、ペダルが怠け物でないことです。前にいったように、はじめの抵抗だけでかるいパッセージは弾けなければなりません。美しいピアノ(弱い美しい音)を出すのには、色々の研究を必要とします。楽器、そして自分の経験。日本の楽器が非常に良い楽器なのには感心しました。普通新しい楽器ピアノを作る時は自分の家特有なものを作りたがるものです。だから本当に他のピアノを研究して、その良いところを取り上げて作るピアノは珍しいです。

― フランスのプレイエル、ガボ、エラールはどうなりましたか。

CORTOT  戦後は駄目です。エラールは全然終ってしまい、プレイエルもほとんど下り気味で駄目です。昔、あなたも会ったことがあるでしょう。三十年間私についていた調律師、あれが死んでからおちてしまいました。努力をしているピアノ、しかし儚い努力をしているピアノはガボです。その努力には頭が下ります。

― 日本の聴衆をどうお思いになりましたか。

CORTOT  実に真面目で礼儀正しいです。そうして音楽を愛していることが良く判りました。私のピアノ演奏など問題ではありません。作曲家達の気持をよく判ってくれていることが弾いている私に通じて本当にうれしいです。そして、音楽を愛している人達がこれから先の長い若い人々であることはこの年取った私をどんなに喜ばせてくれていることかお分かりになるでしょうか。

― 最後に、若いピアニストへ何かご忠告を頂けませんでしょうか。

CORTOT  ピアノを忘れて音楽にひたること、それだけです。

-----------------

このときのコルトーは目を引くような、刺激的なことは言っていませんが、優しいひとだったんだな〜と思いました。

↑ アンコールにこたえるコルトー


レオポルド・ストコフスキー 来日公演プログラム(1965年)

2016-06-05 00:20:23 | 来日した演奏家

レオポルド・ストコフスキー(Leopold Stokowski, 1882-1977)は1965年に最初で最後の来日を果たし、日本フィルハーモニー交響楽団(及び一度だけ読売日本交響楽団)を指揮しました。

これ↓はそのときのプログラムの表紙です。


当時のサンケイ新聞社社長であり日本フィルの理事長でもあった水野成夫氏(1899-1972)によるとこの来日は「日本フィルの指揮者渡邉(暁雄)君とストコフスキー氏との数年来の尊敬と友情に満ちた交友が機縁となって実現したもの」であるとのことです。


↑1965年7月8日が東京文化会館、7月13日が日本武道館。ストコフスキーは武道館で最初にコンサートを行った外国人音楽家だそうです(ビートルズは翌年)。

 

↑ 武道館のチケット。

 

↑ ストコフスキーから日本のファンへのごあいさつ


東京文化会館での演目↓

 

日本武道館の曲目↓

3曲目、ヘンリー・カウエルの「箏と管弦楽のための協奏曲」が目を引きます。

 


この曲はこのときの独奏者である衛藤公雄氏(1924-2012)に捧げられた、約24分の協奏曲。

衛藤氏によるコメント↓


カウエルが箏のパートをまずピアノで書き、衛藤氏がまとめ上げたようです。ただ、曲の最後が静かに終わる点が衛藤氏には不満だったんですね。

そして第2箏協奏曲を書くことを作曲者は約束していたようですが、カウエルはこの年、1965年の12月に亡くなったので残念ながら実現しなかったと思われます。


この協奏曲、YouTubeにもNMLにもありませんでした。ちょっと聴いてみたいです。(武道館ライブがCD【廃盤】になっていますがこの曲は収録されていません)

↓ 寺西春雄氏(1920-2003)による解説



今後、実際の演奏会の模様などをここに追加していこうと思います。

ストコフスキーのオーケストラ配置↓

↑ この配置だったんでしょうか?

 


ワイセンベルクと噂になった黒柳徹子さん(1982年)

2016-04-30 23:47:01 | 来日した演奏家

きょう(2016年4月30日)、NHKで新ドラマ『トットてれび』がスタートし、その直後にTBSの「世界ふしぎ発見!」にも出演されていた黒柳徹子さんです。



一竹辻が花の和服姿のトットちゃんのとなりを歩くのはピアニストのアレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg, 1929-2012)。

ワイセンベルクは1969年の初来日以来9回目の訪日。黒柳さんは多忙の中、東京文化会館での2回のコンサート、大阪、そして最終日の日立の公演にも姿をみせたそうです。

ワイセンベルクはまた、『徹子の部屋』と徹子さん司会のNHK『音楽の広場』にも出演。仲がよかったんですね。ワイセンベルクも独身だったことから、お二人は結婚するのでは?とも噂されていたようです。

(フォーカス誌1982年5月21日号)

 

 

↑ 「音楽の友」1969年7月号の表紙を飾った初来日時のワイセンベルク(中島正嗣氏撮影)

 

↑ 同6月号より。アメリカから運ばせたスタインウェイ

 

おまけ トマトジュースの広告(1976年発行の雑誌より)。きれいですね。

 


カラヤン二度目の来日~到着時の詳細(1957年)

2016-04-05 23:16:20 | 来日した演奏家

N響機関誌「フィルハーモニー」1957年11月号に、カラヤンの二度目の来日時(ベルリン・フィルとは初めて)の模様が詳細に報道されていました。(漢数字は一部アラビア数字に直しました)

---------
日独文化協定を記念して、外務省・ドイツ大使館の後援のもとにNHKが招へいしたベルリン・フィルの第一陣と、同楽団の常任指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン氏ら47人が、10月31日午後0時45分にSAS機で東京羽田飛行場に無事到着した。

↑ 第一陣、羽田に到着。

ロビーでは、可愛らしい児童コーラスの「さくらさくら」の合唱に始まり、八千草薫雪村いづみなどの女優から歓迎の花束を受け、N響常任指揮者ロイブナー、ドイツ大使、NHK国際局長、外務省の関係人を始め日本楽壇人、新聞報道人多数の出迎を受けたカラヤン一行は、旅の疲れなど知らぬといった元気さでその挨拶に答えた。又、第二陣63人も同夕8時30分SAS機で無事羽田に到着した。

翌日11月1日午前11時首相官邸を訪問、岸総理と会見ののち、NHK会議室で記者会見を行った。カラヤンを筆頭にウィルヘルム・シュヒター(副指揮者)、アンドレ・フォン・マットニー(カラヤン・マネヂャー)、ゲルハルト・フォン・ウェスターマン(楽団マネヂャー)、ミシェル・シュワルベ(コンサート・マスター)、ウェルナー・テヘリン、ハインリッヒ・ユールゲンス氏など主な同楽団員6人及びNHK会長が出席、カラヤンが一行を代表して次のように語った。4年前の来日当時より老けた感じで、その鳶色の髪に白毛が目立ったが、相変わらずの精悍な表情に重厚さが加わったように思える。

↑ ベルリン・フィルの記念すべき初放送(11月3日、旧NHKホール)

「二度も日本に来ることが出来たことを、喜ろこんでいる。この前、来た時よりも東京が完全な形になったことにまず驚いた。日本の良さは一度離れてみるとそのよさが一層よく判る。私が一番嬉しく思っているのは、私自身のオーケストラと一緒に訪問したので私の表現を充分楽しんでもらえることだ。ベルリン・フィルの特色は非常に自由であり、自主的に動くという見事なアンサンブルを持っているオーケストラであることだ。つまり馬に鞭を打たなくとも走って行く馬のようなものだ。ベルリン・フィルは私の本拠なので今更いうことではないが、私の前任者である、フルトヴェングラーがいってくれたことでわかってもらえると思う。また前に指揮をしたN響合同演奏会(11月22日都体育館)をすることになっており全く楽しい」と語り、並んでいる記者団を相手に約40分の会見を終った。なおカラヤン一行は東京公演を振出しに、名古屋、福岡、八幡、広島、大阪、神戸、仙台を廻り、11月22日体育館におけるN響合同演奏会を最後に帰国の予定。また、ベルリン・フィルのメンバーで構成されたベルリン・フィル室内楽団の演奏会(11月18日九段会館)が催されることになっている。


↑ カラヤンの指揮。すでに老けていたのか?
---------

。。。いちばん印象的なのは、おそらく飛行機事故でベルリン・フィルが全滅することを避けるため、半分にわけて別の飛行機で来日したことですね。今でもオーケストラの海外渡航では同じようなことをやっているんでしょうか。あと、どういう分けかたをしてるのかも気になります(調べます)。


伊豆の民宿のジャン=ピエール・ランパル(1983年)

2016-03-31 00:00:46 | 来日した演奏家

フランスの名フルーティスト、ジャン=ピエール・ランパル(Jean-Pierre Rampal, 1922-2000)は大の親日家だったんですね。

日本酒が大好きでアイスクリームにまでかけてしまうし、来日時はひとりで新橋の焼鳥屋に行ってサラリーマンと盛り上がっちゃったりしたそうです。

そんなランパルに心酔した赤星恵一氏ら50名ほどのフルーティストは「ランパル・ファンクラブ」を結成し、1981年の来日時に伊豆への一泊旅行を申し出たところランパルは快諾。伊豆の海はランパルが別荘を持っていたコルシカに似ているということでご満悦だったようです。

画像は1983年来日時(14度目!1964年初来日)における再度の伊豆合宿の模様です。夕食後のフルート教室。Wikipediaによると20世紀の最も偉大なフルート奏者なのにめっちゃフレンドリー!


↑ ゆかたでフルートを構えるとパンツ丸見え(黒のシルク)。

 


↑ 目のやり場に困った女性が「先生、見えてますよ」

 


↑ 前掛けかけましょねー

 


↑ フルート教室は無事終了

(フォーカス誌1983年11月11日号より)

 

【ご参考】 ランパル初来日直前の雑誌広告(1964年)より