彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

空からの彦島

2013年04月23日 12時32分02秒 | 外から彦島を見る

火の山山頂の公園に狩野芳崖が描いた地図がありました。
芳崖が故郷(長府)に戻り、糊口を凌(しの)ぐために、藩の地図製作に
関わったことは知っておりましたけどね。

あれれ? 1885年とあるな! 芳崖は結構長い間、貧乏したんだと思いながら、
写したんですけど、家に帰ってモニターで見てちょいとびっくり。

慶応元年となってるんだよね。おい、おい!って感じです。


そんなことはともかく、僕が興味を持ったのは150年前のスリムな彦島と、
隣にあるべき大和町がない彦島のお姿なんです。


これが現在の彦島です。

ま、スリムだった彦島の方は、おいら達年寄りにとっては、どうってこと
ないのです。西山町の本土側なんて、おいら達の少年時代には埋め立てられて
なかったのを憶えています。

老の山の山頂から見える西山の海岸線は、ほんと、きれいだったんですよ。
松尾芭蕉が同時代の人だったら、「ああ、西山や、西山や」と詠んでかも
しれません。ま、少年期の思い入れだろうから、それほどまでってのは
実際ないのだろうけど、まあ綺麗だったんだ。

でも、大和町が間近にない彦島っていうのは、新鮮なイメージでした。
大和町が昭和初期に埋め立てられて出来たってのは、もちろん知って
いましたよ。

しかし、人間が持つイメージって、その人が生まれる前と生後では、
リアリティが、異次元の世界になるよね。

火の山山頂にて、大和町のない古地図を見た時、そのことをすごく実感。
本来の関門海峡を大瀬戸、彦島の海士郷と本土の伊崎町との間を小瀬戸と
言われてたのは、そりゃー、年寄りだから知ってたけどさ。

150年前の彦島と本土の具体的なイメージを見ると、「小瀬戸」と
言われてたことを、はらから実感しますよね。

で、僕達の世代が通ってきた彦島を、航空写真で追ってみました。


1947年3月の写真です。僕達が生まれる寸前の彦島です。
西山町に繋がる首の部分、迫町が埋立で、「首」が太くなっています。
西山海水浴場の砂浜は、今の倍近くあったのも分かりますね。


1960年5月の写真です。僕達が彦中1年生の時です。
大和町が完成形に近くなっています。僕の彦島&大和町のイメージは、
いまだこの時代に固定されたままです。


1983年10月の写真です。僕達が35~36歳の時です。
就職や進学で下関を離れ、都会に住み着き、子育て等で忙しく、
あまり帰郷しない間に、彦島も変っていたのです。

この時代は高度成長だったから、ま、彦島も変わるのも当然なんだけどね。

にしても、この変わりよう!!

福浦湾は北岸が埋立で狭くなり、荒田も西山もはげしく埋め立てられてます。
竹崎、東大和町間の下関駅周辺も、埋立で広くなっています。

彦島大橋もかかり、関門橋もすでに架かっています。

外形とともに彦島内部も大きく変っています。
山中町・塩浜町・向井町が大団地としてすでに登場しており、彦島の中心が
大和町側の江の浦町や本村町から福浦口、塩浜口の移っています。

おまけに我らが彦島中学校の木造校舎も、この間に焼け落ちているんだ。


再び現在の写真です。1983年からあまり変っていません。
変わったのは荒田の木材貯木場の埋立と、西山海水浴場の人工海浜化と、
西山町の本土側の海岸線が整備され、南風泊(ハエドマリ)への直通道路が
できたことぐらいですね。

by K

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2 コメント

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Unknown (シン)
2013-04-26 23:54:08
不気味な生物の笑顔を横から写したようにも見えて、
なかなか興味深い写真ですな。
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Unknown (by K)
2013-04-27 14:41:41
ハローウィンの連想かな? 俺ッチは森のコメント読んで、
森がロールシャッハ・テスト受けたらどうなんだろうと、
連想しちまったよ。
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