【静電気を除去。水性Ag-powerコーティング】で頑張るおじさん!

ラジエーター水、オイル、燃料、空気、電気、ガスは流れてますか?

大川小であの日何が…津波から生還 教員「上に行け。上へ!」(誰が悪いわけではない・・・)

2011年04月14日 20時39分31秒 | ニュースの感想

大川小であの日何が…津波から生還 教員「上に行け。上へ!」

2011.4.14 19:16
 

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110414/dst11041419270052-n1.htm

泥の中から見つかった長女のランドセルに突っ伏し泣く男性。長女は行方不明のままだ=10日、宮城県石巻市立大川小学校跡(荒船清太撮影)

 ほぼ海抜ゼロメートルにその学校はあった。北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で64人が死亡、10人が行方不明となった。13日、大川小学校では、遺族や学校関係者約100人が犠牲者を追悼する会を開き、遺体の発見された現場に花を手向けて祈りをささげた。あの日、ここで何があったのか。学校にいてたった一人生還した教員や関係者らの証言から、“その時”を検証する。(桜井紀雄、荒船清太/SANKEI EXPRESS

 

泥まみれのランドセル

 

 「見つかったんだ! 見つかったんだ! 見つかったんだ」。作業着姿の男性(44)は、泥まみれの赤いランドセルを抱きかかえ、その上に顔を突っ伏してむせび泣いた。

 行方不明の小1だった長女(7)のランドセル。自衛隊や警察による4月10日の捜索で同校から1キロ離れた北上川沿いの泥の中から発見された。ぺしゃんこにつぶれ、中には茶色く変色したノートが残されていた。

 「これまで娘のものは一つも見つからなかった。近くで娘が見つかるかもしれない」。そう言うと妻とともにランドセルが発見された場所に向かった。

 小4だった次男(10)も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続けている。

 

「上に!上へ!」

 

 石巻市教育委員会では、学校にいた教員11人のうち、唯一生存が確認された教務主任の男性教諭から聞き取りを行った。

 5時目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちはすぐに机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。泣き出す子には、女性教諭らが付き添った。

 学校前に自宅があり、4年と3年だった2人の孫を亡くした阿部文子さん(59)は「校庭に子供たちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

 校庭にいた男性教諭は、校舎内を確認した。ガラスが散らばり、児童を中に入れる状況ではなかった。校庭に戻ると、子供たちは他の教員に誘導され、学校の裏山脇の細い農道を列を組んで歩き出していた。教諭は列の最後尾についた。

 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前の方から波が来た。『逃げなきゃ』と思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。

 気づくと、裏山を登ろうとする児童の姿が見えた。うっそうと茂る杉で暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。

 「上に行け。上へ、死にものぐるいで上に行け!」。無我夢中で叫んでいた。追いつくと3年の男児と分かった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、険しい山道を越えた。

 

「山へ逃げろ」

 

 被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子供だった。しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児2人もいた。

 「山の中で『おーい』と人がいないか捜していると、弱々しい声で『おーい』と聞こえた。声の方角を目指すと、ヘルメットをかぶった頭までぬれた男の子2人が斜面に寄り添い横たわっていた」。

 大川小の裏山の反対側から駆け付けた石巻市河北総合支所の佐藤幸徳さん(51)は産経新聞の取材にこう話した。

 佐藤さんが「大丈夫か、歩けるか」と声を掛けた。2人は「誰かに大声で『山に逃げろ』っていわれ、よじ登った」と話したが、それ以降はしゃべろうともせず、うつむくだけだったという。

 市教委は「山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に選択の余地があったかは分からない」とする。津波の際の避難場所は特に決められていなかった。

 柏葉照幸校長(57)は震災時、学校を留守にしていて難を逃れた。作業着姿で学校跡周辺での捜索を続けている。

 「今は何も言えない。時間の許す限り捜索を続けたい」。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿