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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

淳仁天皇陵と当麻山背墓

2017-12-19 22:52:48 | 史跡を歩く

 淡路島に行く用事があり、たまたま時間ができたのでサイクリング気分で南あわじ市にある淳仁天皇陵なるものを訪ねてみることにした。Googleの地図で見ると10キロ程度だったため、自転車で簡単に行けるわと思ったのが運の尽き。ここは、平坦な大阪ではなく淡路の国、その10キロの間に、山あり、谷あり、トンネルありと大変な思いをしての10キロほどでございました。自転車に乗ってどこでも簡単に行けると思うのは、間違ってるということだなあ。確かに自転車で走っている間にほとんど自転車に乗る人とは学生以外は出会わなかったもんな。では話はさておき淳仁天皇陵に話を戻していこう。

 淳仁天皇陵は、兵庫県にある唯一の天皇陵であり、京都、奈良、大阪以外にある数少ない天皇陵である。例えば、滋賀県にある弘文天皇陵、香川県にある崇徳天皇量、山口県にある安徳天皇陵などがそれにあたる。そういえば、これらの天皇はみな非業の死を遂げているのだなあ。御多分にもれず淳仁天皇も同様である。

 
 
 淳仁天皇の御陵と言われるものがどうしてここにあるのかというと、今をさかのぼる1150年程前の奈良時代のことである。奈良時代の天皇は、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇と天武天皇の系統が天皇の位についていた。しかしながら、孝謙天皇は、女帝であり、後継ぎがいない。皇統を天武天皇の血統において、どう伝えていくのかというのが、重要な課題となっていたのである。最初は、聖武天皇の遺言により、同じ天武天皇の血を引く、新田部親王の子道祖王が皇太子に立てられた。しかし、まもなく孝謙天皇により皇太子を廃され、舎人親王の子である大炊王(のちの淳仁天皇)が皇太子とされ、孝謙天皇から譲位され、天平宝字2年(758年)に皇位についた。大炊王は、孝謙天皇の寵臣、藤原仲麻呂の長男の未亡人を妻に迎え、仲麻呂邸に住んでいたことが推挙された理由であるといわれる。
 その後、孝謙上皇の寵臣が、藤原仲麻呂から弓削道鏡に移り、孝謙上皇と淳仁天皇との間に、溝が出来始め、天平宝字8年、藤原仲麻呂が権勢の回復を目指して乱を起こしたが、失敗し、淳仁天皇も藤原仲麻呂と関係が深いことから皇位を廃され、淡路に流され、そして翌年の天平神護元年、幽閉先から逃亡を図るも失敗し、その翌日死亡したといわれる。(病死とも、暗殺されたともいわれる。)そのため、淡路の地に御陵があるのである。

 

 淳仁天皇を埋葬した場所は、奈良朝最後の天皇、光仁天皇のころまではわかっていたようだが、その後不明になってしまう。

 

 実際、淳仁天皇陵とされている場所も公式には山形とされ、地図を見ても古墳のようには見えない。考古学的にもクエスチョンがつけられている。

 

 ただ、丘の周りを、溝のような濠と池が巡っている。

 

 この地が淳仁天皇陵として治定されたのは、明治7年のことである。それは、淳仁天皇が天皇として列せられたは、明治3年になってからであり、それまでは、淡路廃帝と呼ばれていたことによる。
 そして、淳仁天皇の陵の周りには、田や畑が一面に広がっている。血で血を洗うような凄惨な時代を生きた薄幸の人生を過ごした天皇を慰めるかのような穏やかな風景であった。
 
 その淳仁天皇陵から、自転車で5分ほど走ったところに、母、当麻山背の墓所と伝わる所がある。淳仁天皇陵がある場所からでも、田んぼや畑の中にぽつんと独立したこんもりとした丘が見ることができる。

 

 不思議なことに、県道から当麻山背の墓所に行くまでのちゃんとしたアクセス道がなく、下の写真のように田んぼのあぜ道のようなところを入っていかないといけない。よく見ると、自動車で通っているようなタイヤの跡がついているので、多分これが墓所へ向かう正式なルートなのであろう。

 
 
 当麻山背は、当麻老という人物の娘であり、舎人親王に妻となり、淳仁天皇やのちの清原氏の祖となる三原王を生んでいる。淳仁天皇の即位に伴い、正三位となり、翌年、舎人親王に祟道尽敬皇帝という称号が送られると、「大夫人」という尊称が贈られている。

 

 そして、淳仁天皇が、藤原仲麻呂の乱で淡路へ配流になった際、一緒に淡路島へ流されている。

 

 ただし、配流後の消息は分かっていないようである。ちなみにこの当麻山背の墓と伝えられる場所も、どこまで本当に根拠のあるものであるかはわからない。地図とかを見ても、単に独立した丘のようであり、古墳などではありえない。まあ、息子、淳仁天皇の墓所があり、当然、近くに母の墓もあるはずということでこの場所が治定されたのかもしれない。

 

 淳仁天皇と母である当麻山背の墓所が、周囲を田んぼや畑で囲まれて、ひっそりと存在していている。改めて、運命に翻弄され、権力にもてあそばれた、この二人の人生を象徴しているような気がした。


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