平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ローマ法王の謝罪(2000年5月)

2005年04月08日 | バックナンバー
ヨハネ・パウロ2世が4月2日に逝去しました。偉大な法王でした。ここでは、5年前に書いたバックナンバーを掲載しておきます。

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 三月一二日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、カトリック教会の過去の過ちを認め、神に赦しを請う特別ミサを、バチカンのサンピエトロ寺院で開いた。聖職者や信者など一万人が集まったミサで法王は、キリスト教会の分裂、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義などに関する教会や信者の責任を認め、神に対し、「謙虚に告白している信徒の悔い改めを受け入れ、慈悲を与えるよう」求めた。世界に十億人の信徒を持つ、世界最大の宗派であるカトリック教会が、これほど包括的に歴史的な罪を認めるのは、二千年の教会史上でも初めてのことである。

 カトリックの最高指導者であるローマ法王は、イエスの高弟ペテロの後継者、キリストの権威の地上における代表者とされている。カトリックには「教皇の無謬性」という教義がある。神の代理人である教皇には一切の間違いはない、という教義である。しかし、ヨハネ・パウロ二世の告白をまつまでもなく、歴史的に見れば、キリスト教は数多くの過ちを犯してきた。カトリック教会は公式にはまだ「教皇の無謬性」という教義を捨ててはいないが、自己の過ちを率直に認めたことは画期的なことである。

 キリスト教にかぎらず、宗教はすべて自己の信仰を唯一絶対のものと見なす傾向がある。宗教的真理は、科学的真理のように論理と実証によって検証されるのではなく、信仰によって受容されるものなので、どうしても排他独善性が生じがちである。

 ある時代のある文化圏に一人の偉大な宗教的天才が現われる。人びとは、彼の説く教え、彼の示す人格、彼の起こす奇跡に魅了され、その人を神そのもの、あるいは神の代理人と見なす。その教えはたしかに真理のその時代や文化にそった表現であり、それによってその当時、多くの人びとが救われを見出したのだろう。しかし、時代が移り文化が異なれば、昔のままの表現では、理解も実行も難しくなる。それを昔のままに保持しようとすると、社会の進歩を妨げる。それを他の宗教の信者に強制しようとすると、宗教紛争が起こる。

 言語が有限である以上、いかなる宗教的天才でもいかなる教典でも、真理のすべてを表現することはできない。各宗教は、無限なる真理の一側面を照らし出したものであろう。そのことをわきまえれば、他の宗教を敵視することも排撃することもできなくなるはずである。二一世紀には、排他性自体が宗教の本質に反していることが理解されるようになるだろう。

 ローマ法王の謝罪は、宗教的寛容への大いなる第一歩であり、他の宗教も見ならうべき模範である。一九八九年のベルリンの壁の開放にも匹敵する歴史的な大偉業であると言えよう。

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