萬年山 總心寺
愛知県常滑市社辺64 Visit :2005-12-14 13:20
当山の由来に拠れば、元和二年(1616)に開創されたと伝えられ曹洞宗萬年山總心寺と称し、当初は現在の常滑市瀬木町四丁目(常滑東小学校辺り)に在ったと云われるが、近世(年代不詳)になって、当地社辺(こそべ)に移築され、その後当山十六世雪禅代に現在の堂宇が中興された。
当山の開基は、三代常滑城主水野監物守隆(直盛)の正室で、水野信元の娘である於万であり、監物の死後、薙髪(ちはつ)して仏門に入り總心尼と號し、非業の最期を遂げた城主の菩提を弔う為に、時の尾張藩主徳川義直公の助力を得、寺領十一石を賜り当寺を建立した。後に法名の總心をもって寺号としたとある。
總心尼は、監物が常滑から流落(*1)の後も、女性の身であるが故に、当地に留まっていたが、監物の死後は、従姉弟にあたる徳川家康から二十人扶持を賜り、熱田(名古屋市熱田区須賀町)へ移住の後、元和四年(1618)八月二十六日、其の地で没した。法名は向陽院殿花影總心大姉。移住後の事に就き、家譜には――
居ヲ熱田ニ移ス、故ニ人稱シテ熱田殿ト云、熱田須加イマ竹腰氏扣屋敷、其ノ舊墟也 トゾ、須賀ヨリ出ル祭禮山車ノ具ニ、常滑殿ト筆セシヲ傳フ、今ハ亡ヒヌト云
と述べている。
また、『名古屋市史』地理編には――
常滑殿邸は熱田須賀町に在りき、其址は今の善福寺と中町筋との間、西側なり、東西十二間二尺五寸(22.5m)、南北十一間(20m)あり[中略]當町所蔵の太鼓の巻皮の裏に、「慶長十年(1605)己巳年五月吉日、とこなへ様一ツきしん[寄進]、寛永廿一(1644)甲申年六月吉日 天王須賀村」と見えたり
と云っていることから、監物の死後、間もなく熱田に転居し「常滑殿」「常滑様」とか呼ばれていたと思われる。
『士林訴 巻三十六 丁之部二 水野 姓清和源氏』には、監物の子として、
[某]
長久手合戦戦死、十五歳。
[守信](*2) 重弘 河内守 清忠
関原之役供奉、後為(ニ)大目付(ー)。
[某] 八郎右衛門 太郎右衛門
實、中山五郎左衛門男。其母者野州信元女、故總心尼養為子。
とある。
嫡男の「某」は、新七で天正十二年(1584)に戦死している。
「守信」は、監物の側室の子で、半左衛門家の租である。
「八郎右衛門」については、小川水野家の縁者で岩滑城主中山五郎左衛門の息子であったが、嫡男が早世したことから養子に迎えた。(「常滑の史跡を守る会」編では新七の養子としている)
したがって、第三代常滑城主水野監物守隆の子孫としては、実子で側室の子「守信」を祖とする「半左衛門家」と於万の子となった「八郎右衛門系」の二系統が存続しており、当寺は、於万を開基とし、八郎右衛門保雅を初代とする十二代までの墓が祀られた菩提寺である。また当家には「監物ゆかりの古文書」が代々継承されてきたが、平成十七年十一月十五日、常滑水野家の嫡流にあたる水野さと子さんから、常滑市に寄贈された。それらの古文書類は「第三代常滑城主水野監物守隆に織田信長と徳川家康があてた古文書(二十通)展」として「常滑市民俗資料館」(愛知県常滑市瀬木町4丁目203番地)で、同年12月10日(土)~翌年1月22日(日)まで、一般公開されている。
[常滑水野家譜]
開 基 水野於万
三代常滑城主水野監物守隆の正室 號 總心尼
法名 向陽院殿花影總心大姉 忌日 元和四年(1618)八月二十六日
初 代 水野八郎右衛門保雅
岩滑城主 中山五郎左衛門の子八郎右衛門。常滑水野の養子となり、元和年中(1615-1624)に、
尾張初代藩主 徳川義直に召し出だされ、御馬廻組を命じられ、二百石をあたえられた。
その後願い出て、長野五郎右衛門政成の同心に属した。
法名 本菴常無居士 忌日 慶安五年(1652)九月十五日
二 代 水野太郎右衛門元次(保雅嫡男)
法名 凉室源夏居士 忌日 明暦三年(1657)六月二日
三 代 水野八郎右衛門義雅(元次嫡男)
法名 一山知鏡居士 忌日 寶永四年(1707)十一月廿二日
四 代 水野八郎右衛門明雅(義雅二男)
法名 明雅智誓居士 忌日 寶暦五年(1755)七月二日
五 代 水野新七雅禮(明雅嫡男)
法名 雅禮智音居士 忌日 寶暦十二年(1762)八月廿七日
六 代 水野初太郎雅(雅禮嫡男)
法名 禮道雅童子 忌日 宝暦十四年(1764)一月十六日
七 代 水野半九郎雅佳(雅養子)
法名 雅佳俊道居士 忌日 天明七年(1787)十月二日
八 代 水野三郎雅風(雅佳養子)
法名 中齊庸諦居士 忌日 文化十三年(1816)十月廿七日
九 代 水野久左ヱ門雅言(雅風嫡男)
法名 雅言元忠居士 忌日 文政十年(1827)五月十二日
十 代 水野八太夫雅頌(元忠嫡男)
法名 雅慶明忠居士 忌日 安政五年1858)十月廿七日
十一代 水野正之(雅頌二男)
法名 全忠明雅居士 忌日 明治十年(1877)六月二十二日
十二代 水野 某[諱不明]
十三代 水野銕太郎
十四代 水野滋
忌日 平成十七年三月
『尾張藩士録』――(『家中いろは寄』を改題)
収録藩士は、嘉永二年(1849)、藩主の座に就いた尾張徳川家十四世慶勝の治世時のもので、その記事中に――
一 五十六表 寄合 カチヤ丁下大津丁辻番之筋西北角
水野伊織 常滑村 總心寺(菩提寺)
と書かれており、常滑水野家十代水野八太夫雅頌の時代になるが、この伊織については不明である。
[註]
*1=天正十二年(1584)五月二十九日、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたことで、常滑城主水野監物守隆は、評定を重ねた末、明智光秀方に就く決断を下し出兵はしたが、安土に向かう途中、光秀が秀吉に討たれたことで、虚しくも当城の命運は尽き京都嵯峨野へ隠棲した。
*2=既掲載記事「永明院」を参照。http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/eb18e2cb7c16c4a3c2396911162a2d01
☆旅硯青鷺日記
北風の冷たい朝、「常滑市民俗資料館」に向かった。アポイントメントをとっていた学芸員の方の案内で、古文書についてのご丁寧な説明を受け、必要資料も取材できた。また小生が知らなかった總心寺の場所も教えていただき、幸いにも当寺を訪ねることができた。ご住職は不在であったが、ご祖母様に墓所を案内していただいた。墓石は一箇所に葬られており、開基總心尼をはじめ初代から十二代までの墓やそのほか親族も祀られている。写真の後列中央は總心尼の五輪塔で法名もハッキリと刻まれていた。初代の墓はその向かって右手のものと思われるが墓石の一部が欠損していることから不明である。
小川水野氏系譜http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95
中山氏系圖http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/9bfe2db20cd67dc990da08d0b5e1a20c
常滑水野古文書の内、行方不明であったものが近年発見された。個人蔵のため今回は出品されていない。