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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

【まとめ・最終回】ブログのタイトルについて。

2016年04月06日 | 日常
だれもが権利をもってる オリジナルのやつを
悦びもがきダメになれる権利なんだよ


JAP THE RIPPER / B'z





2005年、ブログ始めたときにね、
どーして「gooブログ」を選んだか?! ってぇのは、
あんまり思い出せない。いろいろ探しつつ
直感的によいなぁーと思って。だったと思うけれど。
とってもお世話になりました~。感謝!!

このブログのタイトルは、
『なら斬り開く?!』て言うんだけども。
そのように付けたのは、たしか何回か記したかもですが、
じぶんの部屋の「押入れ」が片付けか何かで開いていて
その「開いた押入れ」を見て思いつき、なまえ付けたのね。
最初は「!」が無く『なら斬り開く?』だったのを、
あるとき「!」を足し『なら斬り開く?!』として。
そこには、
「道を切り拓く」的なイメージもあるだろうし。また、
「物事を、斬って、開く。」であったり。あとは、
ぼくはB'zの『JAP THE RIPPER』がだいすきなんだけど、
ちょっとその雰囲気でもあるし。

(このブログアカウント名【hd4jap】のねぇ、
 【hd4】はじぶんの名前の「ひでし」、
 【jap】は『JAP THE RIPPER』からでして。
 あとで気づいたのはさ、じぶんでじぶんのことを
 「ジャップ」と名乗っていた的な。NANANANANA……)





キミはボクからまた目をそらしながら
ボクの自由にビビってる
カウンターの下のヒワイな話やめて
さあハダカになれよ






ブログタイトルのしたに在る「説明」は、
ブログ当初はたしか
【出来事を、下手な文章で、斬り開く。】だったのを、
じぶんで【下手】って言うのはよくないと思い。
2011年再開したどこかのタイミングで今の
【アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。】に変え。
それは「味も素っ気もない」ということばの語呂を拝借し、
「アジ」や「ホッケ」などのお魚を「ひらき」として
「さばく」ようにしながら、相手へ差し出せるような、
文章を書きたい! ていう願いからだったんだけど。

んでも、ぼくはその「タイトル & 説明」での、
【斬】という文字が、じぶんでブログに使いながらも
いつも(どうしよう?!)って考えてて。
たとえばじぶん自身が「カマキリ」に変化してしまう的な、
「ナイフ的危険」を微妙に感じながら。
【斬り】を無くして【開く】だけでよいじゃん!!
たとえば人生における困難の「壁」を、
【斬】らなくても【開く】ことはできるでしょう、と。。。

だから、その【斬】のことを考えたいとおもって、
鈍刀」や「包丁」に関することを、
以前ブログで書いた気がする。
B'zの『JAP THE RIPPER』というタイトルも
「切り裂きジャック」のパロディであるし…。

かと言って、
じぶんが学生だった頃のふとした思いつきを、
無下にあつかうのもしたくないし。タイトルの変更とか。。
って考えてるとき、最近ふと思ったのはねぇ、、、

(あぁーまたもや文章長くなってる。あと少しだけ…)





強引なオノレをさらして
ヤりゃあいい 明日がくるその前に
後悔をなすらないでよネ
ダしゃあいい タマがうずくなら






ぼくは、ブログタイトルの後ろの
「?」や「?!」という記号に「救われていた」ことに、
気がついたの。たとえばつまり、
【なら斬り開く!!】って「言い切る」んでなくて、
【なら斬り開く?!】と「訊ねてる」から、
じぶんの中で「考えている」状態だし。
さらには、なにかを「思う」ときだっても、
そのあとで「?」や「?!」の記号をつければ、
思い煩わうこともそれほどなく、
「考えるモード」へ「入る」ことができる。
記号を置いたことによって、
「どういうことか?」と思索できる。

こーいうようなことをこのまえ思ったら、
ぼくはブログを止める時期が来たかもしれない…
と思ったの。

あのときじぶんが出したメッセージはそーいう意味だった
かもしれない、って感じたと言うか、
このままこのブログ書き続けることもできるけれども、
このブログではもうこれ以上新しいじぶんの発見は
できないかもしれない、と申しますか。
そんなような意味でブログ止めようと思ったのね、
うまく言えてないかもだけど。。。
ここまでお読みくださりどうもありがとうございます~。
昨日もすこし申しあげましたが明日から、
「note」というところで書きます。ですっ!

このじぶんの判断がよかったのかどうかは、
ぼくにはよくわからない??!

2016年4月6日 @ I'm in love?

【まとめ・其之肆】ブログと音楽と、、、

2016年04月05日 | 日常
前回のひきつづきです。]

あとはね、ブログをスタートしてから、
じぶんの「音楽」の聴き方が少し変わったように感じる~。

例えばぼくの場合ですと、
よく「曲」の「歌詞」を青い字で引用してたのだけれど。
これはたぶんブログ当初からやっていて。
そして、そのエントリを書いているあいだはずっと
引用の曲を「1曲リピート」させながら、
たいていブログ書き終わるまで繰り返しておりましたので、
あるときにはその曲を何十回も聴いて。。。

こーいう音楽の聴き方ってば、
もちろんブログ始める前はやってなかったので、
ブログ始めたことによる変化のような気がするんよ。

ほかには、あるエントリを書いているときにふと
(あ、このことってあの歌のことかも?)って思い出し、
その曲を聴き始める。ていうのも、
じぶんの中ではたのしかったりして。これも、
ブログやっていなければできなかった経験と言えるかも?!
それはさ、毎日の日付けのあとに「@」を記し、つづけて
「曲のタイトル」を書くという書式に成って行ったけれど、
地味にひとりで楽しんでいたのよー。

聴く曲がかなり偏っていたり、
音楽のこと全然詳しく無かったりもするけれど。
すきな曲や歌のおかげでブログ書けたところが大きいので、
感謝ですっ!!

明日このブログ、最終回。
あの、まことに勝手では在るのですがじつは、
新しく「note」というところで書きたいと考えていて。
登録いたしましたURLは、
こちら(https://note.mu/hd4ance)なんだけれど。
そのこととも合わせまして、
明日最後の【まとめ】を申しあげます。

ここへ来てくれて、読んでくれて、ありがとー!!!!

そういえば今回のブログタイトルでね、
「四」は「肆」という漢字で書くのを始めて知った。
めっちゃむつかしい字。。。

2016年4月5日 @ Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Reprise)

【まとめ・其之参】ブログで書いていたこと

2016年04月04日 | 日常
前回からのつづきです。]

‥‥という、毎日更新するブログと成って、
書く内容のことでじぶんでこうしようと決めたのはさ、
「つまらなくてよい。おもしろくなくてよい。」でして。
ほんとはそんなのじゃあよくないんだろうけど、
ぼくには、「おもしろいこと」なんて、
そうそう書けるもんでも無いので。
そのあたりはもうあきらめようとおもったの。

と、じぶんのなかで特に印象残っているのは、
まだ「毎日」書く以前のブログなんだけれど
2013年1月12日でのエントリです。
ブログにどーいうことを書いてゆけばよいか?!
を考えたあげく、
「じぶんのすきなもの・こと・ひと」を書きたい!!
とおもって、ぼくのすきな「糸井重里さん」の、
「比喩」がすき。
っていうようにブログ申しあげまして。それもさ、
その日は「新月」の日でしたので、このエントリが
あたらしい始まりの決意表明みたいなことだったのよ。

あとは、ブログでじぶんの「内面」を表現するのは、
極力避けようとおもって。
専門学校のときにそーいうのを書き、
じぶんが辛くなってしまったこともあったりで。
内面でなく、じぶんの外部に在る事柄を書こう、と。
たとえば昨日もちょっと申しました
ゆっくりじっくり鑑賞するシリーズ」はそうだし。
また、見かけた「植物」を写真撮ったりするのは、
内面から抜け出すために大事な気がしてる。。。

(毎度文章長くなっててすみませんです。もう少しだけ…)

これまでどうしても書けなかったことが、
今なら、なんだか書けるような気がしたので、書いた。
系のエントリはちょっとうまく言えないけど、
書けたのがうれしかったりする~。たとえば最近のでは、
中学生のとき、本屋さんで。」のこととか‥‥

他に書いていたのでは、
「考えごと」を書く「理屈系」のエントリは、
たいてい良くなかったなあ、と感じる。
通常ブログのねぇ、最後の更新で書いたのは、
天然の壁、人工の壁。」というのなんだけれど。
もう最後のほうとかはだいぶ支離滅裂になっていて、
書き過ぎちゃってるところあるだろうし、
強引な面もあるっぽいし。
でも、そーいう「じぶんのよくなさ」を、
ブログ書いてみて、じぶんで知ることができるのは、
「理屈系」を書くときの救いだった気もする。
どこがどうダメなんか?! って、
あとでじぶんで考えたりできるので。。
いや、でも、ブログで恥をさらす的な感じかもしれん。

書いたあとで思ったのだけれど、
「壁」とか「境界線」とか言うのは、たぶん
ぼくが例えば専門学校通ってたときから、とかさ、
もっと以前より思ったり悩んだりしていたことかもしれん。
このブログのタイトルもそーいうところあるしー。

(つづきます。。。)

2016年4月4日 @ ストレンジ カメレオン(Rock Stock Version)

【まとめ・其之弐】ブログ毎日更新したいために

2016年04月03日 | 日常
前回エントリのつづきです。]

その弁明を書いてみようと思ったけど書けなくて。
書けないので書けることだけでも書こうとしたのが、
あのエントリだったんだよね。
で、その文章をそのまま置いておいて。それで、
なんだか思い出して来たですがgooブログの当時の仕様で、
二ヶ月更新しないとブログが簡易表示モードに切り替わる。
みたいなのが確かあって。(←記憶ちがいかもしれん。)
それはちょっと避けたいなぁ、と考え、
翌々月12月につぎのエントリを書いた気がするー。

それからはちらほらブログ書きながら、
あるときにね、前回申しあげました「その人」が
ぼくのブログを読んだ。と言うのを友人伝手の噂で聞いて。
そーなればもうぼくはブログを書く理由がなくなって。
どーしよう?! って考えたですが、
まだブログ止めようとはなにか思えなくて、つづけたの。

そのとき「つづけよう!」と思った動機はさ。
ぼくはそれまでブログを一ヶ月毎日更新したことがなくて、
専門学校のときも結構な頻度で書いてたけど、
「疲れた」とか「忙しい」とか「ネタがない」とかの理由で
必ず、月に数日は書けなかった。それを、
どーにかして「毎日」書けるようになりたいと思った!

思ってはみても思うだけじゃあできなくって、
また、書きたいときに書きながら。。。
ある月には、実験的に、
日曜定休の週六でブログ書こうとしたのが成功したり。
でもまた以前のペースに戻ってしまったり。
っていうときにふと思いついたのが2014年1月からの
「ゆっくりじっくり鑑賞する」というシリーズでして。
内田樹さんのブログ記事をすこしずつ引用して行きながら、
ぼくがあいづちを打ったり思ったことを書いたりして、
内田さんの文章を読み進めてゆく。という企画なのだけど。
やっていくうちに、これなら日々書ける! って感じたの。

じぶんの「中」に在る物事を「出す」のは大変だけれど、
じぶんの「外」に在る物事を「見る」のなら、
それらは無数に無限に存在しているので
気持ち的に辛くない。

二ヶ月で「二つ」の内田さんの記事を読み、書き、
そしてそのあと3月のあるときから、
当時申しました日曜日はネットに繋がない
「サンデー イズ ノー ネット!」ていうのを解禁させて、
毎日更新を決意するようになったのよ。

(つづきます。。)

2016年4月3日 @ 365日

【まとめ・其之壱】ブログ始めたきっかけ

2016年04月02日 | 日常
2005年10月スタートしましたこのブログを、
「始めたきっかけ」は以前も少し書いたとおもうけれど、
専門学校通っていたとき担任の土井先生より
「ブログとか始めてみたらいいんじゃない?」というように
仰ってもらったから、でございまして。

そして書き始めたブログでは、
ぼくはグラフィックデザインの学科でしたので、
授業で習ったことや課題等で考えたことや思ったことや、
美術館やギャラリーやどこかなにかを観た感想、
また、でも愚痴みたいなこともねぇ、
すくなくない数を書いてしまったり‥‥。
ていうそのブログを2008年3月に止めたのはさ、
その日のエントリでも申しておりますが、
村上春樹さんの著書にて
【良質な物語をたくさん読んでください。
 良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます】
ということばを見たから、だとおもうー。

「本」を、そして「物語」を、
ぼくはもっともっと読まなきゃあいけない。
「書く」ことよりも「読む」ことをしたいっ!!
って感じたんだよね、そのときに。たぶん。。。

それから月日が過ぎ、2011年10月。
あることがあってほんの少しだけブログ更新したんだけど。
詳細は省きますが、以前ぼくの素養が原因で
ある仲違いをしてしまった方と、
このときある場所で再会をしたと思うのですが。ってぇ、
「したと思うのですが。」ていうように書いたのは、
じつはこれ、定かじゃなくて。
デザイン系の某イベントを観客席で座って観ていたら、
向こうの通路からぼくへ手を振って来るひとがいて。
ぼくに対して手を振っているように見えるけれど、
でもぼくは目がわるいからよく見えなくって。
もしかしたらぼくの近くに座る誰か別のひとへと
振られている「手」かもしれない?!
その人は「その人」に見えるけど「その人」かどうか???
なんてことを考えてたらうまく反応できずに。

(あぁー、ブログ長くなっちゃって、ごめん。。)

けっきょく、もしもぼくに手を振っていたのなら、
「無視」してしまった形になってしまい。
イベント終わったあとでごあいさつしようと思うにも、
お帰りになられたのかお逢いすることできず。
(ぼくから「無視」されたことに怒ったかもしれないな。)
なので、その方が、
ほんとうに「その方」かどうかさえも定かじゃない。
でも、もしそうだとすれば、
ぼくは決して悪意で「無視」したわけではないので、
いらぬ「誤解」を与えてしまったのかも・・・と考えて。
その方のご連絡先はぼくは存じ上げないんですが、
ぼくが「ブログ」やっていることは知っているはずなので、
弁明するならブログに書くしかない。
という思いで、そのエントリを書いたんだよね。

んでも、書こうとおもっても、
もうぜんぜんきちんとした文章は書けなくって。。。

(つづきます。)

2016年4月2日 @ Teenagers Are All Assholes

本当に嘘じゃないお知らせ!!

2016年04月01日 | 日常
毎年エイプリルフールの日って、
インターネットのなかでは
なにかおもしろいウソをつかなきゃあいけない雰囲気が、
どことなくあるように感じられて。なんか不文律的な???
無視できず、抗えない感じっ。
じぶんもその感覚をどーしても持ってしまうってぇのは、
これはこれで逆にちょっとおもしろいとも思ってる~。
なんでぼくはエイプリルフールのことをどーしてみても、
考えてしまうんか?! みたいな。。。

という雰囲気がよ、でもさいきん
すこし薄れてきてるような気もするの。

ウソつきたいひとはウソつけばよいし。
ウソつかないひとはウソつかなくてよいし。
エイプリルフール忘れてたひとは忘れててよいし。
以前と比べるとそーいうのが、
だいぶ気楽に、気軽に、成ってきたようにも感じる。

ってゆうわけでね、ぼくはきょうこのブログで、
ウソつかないのだけれども‥‥

えー、このごろずっと考えていたんですが、
2005年10月スタートをいたしまして
2008年3月いったんやめて、
2011年10月一度ちらっと書いてからまた再開しましたこの
ブログ『なら斬り開く?!』を、
こんどの4月6日で「終わり」にしようとぞんじますー。
最終日含めたその日までの5回のエントリではじぶんなりの
「総論」を書きたいとおもいます。ですっ!!

大好きです 今度は嘘じゃないっす

2016年4月1日 @ マイ フレンド

天然の壁、人工の壁。

2016年03月31日 | 考えごと
「壁」には、
2つの種類があるんじゃないかなぁ? と考えてて。
それはね、自然がつくった【天然の壁】と、
人間がうみだした【人工の壁】なんだけれども。

【天然の壁】と言うのは、
山や川や谷や海や砂漠やジャングルや大気圏や宇宙空間や。
【人工の壁】は、家や建物の「壁」とか「塀」、そして、
「ベルリンの壁」や「万里の長城」や「38度線」や
京都の「御土居」というような国境線的な境。また、
「バリアフリー」って呼ぶときの「段差」もそうですし、
「心のバリアフリー」って呼ぶときの「差別的段差」も
物質では無いけれど【人工の壁】と言えそう。
養老孟司さんが書いていた『バカの壁』って言うのもさ、
人間のうみだす「壁」なのだと感じる。

ってゆうときにねぇ、
じぶんが出くわしたその「壁」を「超える」ためには、
それが【天然の壁】なのか【人工の壁】なのかで
「超え方」がちがうんではないか?! っておもって。
それが、どちらとも困難であるにしろ。。

【天然の壁】の場合では、
橋とか船とかロープとかの交通手段や道具などを使って、
渡り超えるのでしょう、たぶん。そして、
【人工の壁】は、これにも2種類あると思っていて、つまり、
「体」がつくりだす【建造物の壁】と
「心」がつくりだす【精神的な壁】なのだけど。
どちらも超えるのはとってもややこしい気がするのよ。
いえ、【天然の壁】も非常に困難なものだとぞんじますが、
【人工の壁】というのはかなり複雑で厄介なような・・・

【建造物の壁】をたとえば「飛び越えて」越えようとすれば、
咎められたり通報されたり捕まったり罰せられたり
ときには撃たれたりしてしまうやもしれない。
なので、上から乗り越えて行くのは得策とは言えない。
地面を掘ったり、壁を壊したりするのも、よくないでしょう。
超えるにはどこか「関所」のような場所を通り抜けるしか、
たぶん方法はなくって。んでも、
その「関所」をちゃんとパスできるかどうかはわからない。
「通行手形」的なものが必要なんだろーなぁ。
あとは、奇跡的な「革命」が起きることが在れば、
「壁」も無くなるやもしれない。。。

もうひとつの【精神的な壁】の場合では、
それは目には見えない「壁」なので、
「超える」ことはおろか「認識する」だっても大変で。
(バリアフリーには成っていない「段差」も、
 健常者にはなかなか見えなくて‥‥)
まずはその「認識する」ところからスタートしなきゃあ、
「壁」を無くしたりするのもできない。

これは、養老さんの『バカの壁』も同じかもしれねぇ~。

家の部屋を囲む「壁」の恩恵を受けてたりもするので、
「壁」自体が悪いものとは言えないっ。
どーしても分けることが大事なときだってあるだろうし。
けれど「壁」にたどりつき「超えよう!」とするときには、
その「壁」が【天然の壁】なのか【人工の壁】なのかを
見極めることが肝要だとおもったの。むつかしいけれど‥‥
アイディアが出ないとか、限界を超えられないときでの、
「壁」はどちらだろう???

人間の「皮膚」は、【天然の壁】だわー!

2016年3月31日 @ Heroes

「わかった。」と言えるとき。

2016年03月30日 | 考えごと
なんどかこのブログで書いているとも思うけれど、
また考えてみたくなったので、書きます。
それは「わかった。」ということばについてなんだけど。
「わかった。」のことばがさ、
じつはかなりむつかしいことばなのだと感じた最初は、
内田樹さん著『先生はえらい』の一節を
読んでからでございまして。

まずは、あのぉ、
以前にも引用したことがあるかとも存じますが。
今回も引用を申しあげます。。。





「もう、わかったよ」とか
「だから、その話は、もう聞いたってば」というのは、
「私はあなたの言いたいことを
 たいへんよく理解しました。ピース」というような
友好的なメッセージではありません。どちらかというと
「わかったから、黙れ」という
コミュニケーションの打ち切りを意図する信号ですね。


(『先生はえらい』101頁より。)





内田さんおっしゃるには、
「わかった。」とは
「コミュニケーション打ち切り」のことば、とのことで。
「もうこれ以上その話は聞きたくないから、黙ってくれ!」
って会話の中で言うにはカドが立つから言えなくて。
「わかった。」や「わかりました。」であれば、
それほどカドは立たないように見えるので、
話を終わらせるためには「わかった。」ということばは
とっても有効なような気がする。

わかってしまえば、もうその時点で、
それ以上の説明を聞く必要がないからー。

と、ここでややこしいのは、
ほんとうの意味での「わかる」とはどーいうことか?!
ってことなんだけれど。
相手を黙らせる手段として「わかった。」を言う場合には、
その話が「わかる」か「わからない」かは
別にどちらでもよくって。
たとえ仮に相手の話を「わかってない」のだとしても、
「わかった。」って口にすればもうそこで
すぐさま会話を打ち切ることができるからさ。

だけど、その場合には、
「わかった。」は嘘になる。
じつは「わかってない」のだからねぇ。
いや、でも、もしかしたらそーいう嘘だっても、
「嘘も方便」に当たるやもしれないけど
。。。

「わかった。」を言うことができるのは、
「これまでわからなかったことが今ようやくわかったとき」
だけだと思ったの。
考えても、考えても、ぜんぜんわからなかった事柄が、
その話を聞くことで初めて「わかった。」とすれば、
聞いたあとの行動や言動は自ずと「変化する」はずで。
そういう変化が無いのなら、
「わかった。」とは言えない。嘘になるもんで。

(どんな話でも聞くことができれば一番よいのだけれど‥‥)

「わかった。」ということばってば、
それだけ重いことばのような気がしてるんだよね~。
相手を黙らせるために「わかった。」と言えば言うほど、
「ほんとうにわかる」ことが
できなくなって行ってしまうような気もするの。

2016年3月30日

モニター位置とキーボード

2016年03月29日 | 読書
石川善樹さん著『疲れない脳をつくる生活習慣』を
読みまして。
なにか実践しようと思い83頁より書かれております、
Macのモニター位置をすこし上にあげてみた。



アイディアが出るように。と願をかけまして、
載せる雑誌は家にあった『アイデア』にしたよ。
なにげに雰囲気が変わる~。

そしてまたキーボードは、



同じく著書のなかで記されております
「膝の上」にしてるだよん。
そーいえばちょっと肩こりがなくなっているような、
そんな気がするっ。
モニターが顔の下側にあるとどうしても目線が下がって、
前かがみになってしまい、姿勢が悪くなる。
また、机に置きながらのキーボードだと腕と肩を
あげて打つことになるので体に負担をかけやすいらしく、
「膝の上」なら自然に作業できる。とのことで。。。

【第4章 血糖値を制する者は仕事を制す】(103頁)での、
「食べ物」や「食事」のことは、
なにかすこしずつでも意識してみたいっす。

2016年3月29日

ENTER THE DRAGON

2016年03月28日 | 映画
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」と言うのを
シリーズで書いていたブログのなかでね、
2016年2月3日のエントリでは、ブルース・リーのセリフ
【考えるな、感じろ!】について申しまして。

でも、ぼくはそのセリフを、
人づてで聞いたり本で読んだりして知ってるだけでぇ。
これまでブルース・リーの映画を観たことがないから。。
なので、いちど観なきゃと思ってレンタルDVDで、
『燃えよドラゴン』観たよ~。

初めて観ましてまず思ったのは、
ブルース・リーの身体がすごいっ!!
っていう感想ではまったく感想になってないと思うけれど、
そう思ったの。前側もせなか側もぜんぶすげぇー。
動きもすごいし、雄叫びの「ワチョー!」もかっこよいし。
【考えるな、感じろ!】を言うシチュエーションは、
ブルース・リーが弟子へ伝えることばだったのねぇ。
「なにか感じたか?」と問われた弟子が、
(そうだな…)って考えこみ答えようとしたので、
ブルース・リーは弟子の頭を軽くはたき
【Don't think. Feel. /考えるな 感じろ】を言う。
そのあとにつづくセリフも、どこか示唆的‥‥

最後の「鏡に囲まれた部屋」での戦いは白熱だったな。
戦いのとちゅう、映画冒頭で師匠より言われた
【忘れるな 敵は見せかけの“像”の姿で現れる】
のことばを思い出して、
ブルース・リーがどんどん周りの「鏡」を割ってゆくのは、
なるほどと思った。

相手は「武器」である凶器を手に持ち、
肉体のみのブルース・リーに襲いかかるんだけれど。
相手本人の持ち出したその「武器」が逆に仇となり、
相手はやられてしまう。。。
そーいうような「やられてしまう」みたいなことってば、
物としての「武器」だけじゃなくて、
たとえば「ことば」や「感情」だっても
同じなのかもしれないな。
「武器」のような「ことば」や「感情」が刃と成って、
相手を撃つことができたとしても、
同時にじぶんさえをも撃ってしまうリスクも高まる。

その「武器」を持ち出さなきゃあ、
起きなかった事態、というのが在るんだわー。

2016年3月28日 @ 人生は上々だ