前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

穂村弘 『絶叫委員会』 (ちくま文庫)

2013-06-30 22:04:45 | 
穂村弘さんの『絶叫委員会』(ちくま文庫)を読みました。

穂村さんの作品では過去に
  『短歌ください』(メディアファクトリー)
  『世界音痴』(小学館文庫)
の二冊を取り上げました。

デビュー作『シンジケート』以来の"ファン"ですが、
かといって新刊が出るたびにすぐに買って・・・というわけでもなく、
たまに本屋で見かけた際に買う、といった程度なんでんですが、読めば必ず"大満足"です。


本書『絶叫委員会』は、街中などで出会った印象的な言葉たち、
不自然な、奇妙な、致命的な、でも圧倒的に力強い、"リアリティ"のある言葉たち。
それらを紹介したものですが、
「あとがき」に書かれているとおり「偶然性による結果的ポエム」の考察となっています。


今ではその存在自体、ほとんど見かけなくなった駅の伝言板。
その伝言板史上(穂村さん史上)最も忘れがたいメッセージ。

  「犬、特にシーズ犬」

誰から誰宛のものなのか、そもそも意味は、シーズ犬(シーズー犬?)・・・

この"奇妙な真剣さ"を穂村さんは「天使の呟き」と評します!


駅の伝言板といえば、
私が学生時代に出会った(私史上最高の)メッセージ?を思い出しました。

  <ブス二人へ。先に行ってます。美人二人より>

まだ携帯電話などない時代。
おそらくは実際の容姿に関係なく、時間通りに来た方が優位(=美人)に、
一方遅れた方は自動的に劣位(=ブス)になる、というその即時的ルール!



『絶叫委員会』に戻ります。
たまたま入った蕎麦屋の貼り紙。読んでいて思わず声を出して笑ってしまいました。

  「当店のカツ丼はこだわりカツ丼ではありません。」
  「普通のそば屋のカツ丼です。」

貼り紙から声がきこえる、と穂村さんはいいます。
「こだわりカツ丼」から肉声めいたものが、
「普通のそば屋のカツ丼です」からは諦めとも誇りともつかない存在感が、と。


私がとある街で見かけた食堂の看板には次のようなコピーが。

  <想い出す味>

「思い出の味」ではなく、「想い出す味」・・・。
清水義範さんの小説に出てくる「時代食堂」のような「特別料理」を出してくれるのでしょうか。
私は怖くて?入れませんでしたが。


思えば自分自身、
若い時は街中などの"印象的な言葉たち"にもっと敏感だったような気がします。
この本を読んで、もう少し「街中に溢れている詩」に目を向けてみようと思いました。

フランク 『ピアノ三重奏曲嬰へ短調(作品1-1)』

2013-06-23 16:56:39 | セザール君の作品
セザール・フランクの室内楽作品全集を買いました。


演奏はマリブラン四重奏団、デイヴィッド・ライヴリー(P)、他

フランクはハイドン先生と並んで最も好きな作曲家です。

全集といってもCD4枚組で、ほとんどは既に持っている曲なのですが、
私がフランクを聴き始めた学生時代(20年以上前)はヴァイオリン・ソナタ以外では
ピアノ五重奏曲、弦楽四重奏曲が1、2種類あるかどうか・・・といった程度だったので、
全集発売には感慨深いものがあります。

そんなフランク初心者時代に見つけて"衝撃"を受けたのが「ピアノ三重奏曲嬰へ短調」です。
フランクが20歳くらいの時の作品で「作品番号1」と付けられています。
(3曲セットで「3つの協奏的ピアノ三重奏曲」(作品1-1~1-3)などと呼ばれます)


作品自体の出来はとても"名曲"と呼べるようなものではありませんし、
ベートーヴェンやロマン派の作曲家(ブラームス、ドヴォルザーク他)の有名曲と
同様のものを期待して聴くとガッカリするでしょう。

ピアノの単調な音型で始まり、続くチェロ、ヴァイオリンの旋律にも魅力はありません。
その後、ピアノやヴァイオリンの音型が変化したり楽器が移ったりしていきますが、
それも変奏曲と呼べるほどではありません。
私自身フランクが好きでなかったら、第1楽章冒頭で聴くのをやめたかもしれません。


フランクはいわゆる"大器晩成型"の作曲家とされ、
オルガン曲以外の主要曲はだいたい60歳前後から書かれていますが、
それらを"傑作"たらしめている特徴が「循環形式」です。

「循環形式」とは、
  多楽章曲中の2つ以上の楽章で、共通の主題、旋律、或いはその他の主題的要素を
  登場させることにより楽曲全体の統一を図る手法(物識り"ウィキ"さんより)
というものです。

そして、作品番号1と付されたこの「ピアノ三重奏曲嬰へ短調」にも
まさにこの「循環形式」が採用されています。
晩年の特徴だとばかり思っていたので、これにはビックリしました。


のちの読んだ、吉田秀和の「主題と変奏」という評論集に、
「セザール・フランクの勝利」と題された章がありました。

フランクについて書かれた評論があったのがとても意外でしたが、
その中で氏はこの「ピアノ三重奏曲嬰へ短調」について次のように書いています。

  ・・・彼の処女作である作品一の三曲のピアノとヴァイオリンとチェロのためのトリオ、
  ことにその第一番嬰へ短調トリオは立派な作品である。
  といっても、それは、作曲家たるべき以上、誰もが習得していなければならぬ基本的なものを、
  この十九歳の音楽院の学生が、すでに立派に身につけていた、という意味で立派なのである。
  (中略)
  フランクのこの作品は、全然ありふれた語彙しかもっていない点で、まず僕らを驚かす。
  (中略)
  ただ曲の構成には非常な特徴があって、三楽章からなるこの曲の、
  最初の楽章に使用された材料が後の二楽章を通じて重要な働きをするようにできている。
  これは循環形式と呼ばれ、前例もなくはないが、
  フランクの後年の傑作を一貫する独創の最大のメルクマールになっている。


ベートーヴェンやショスタコーヴィチが、
「作品1において、すでにベートーヴェン(ショスタコーヴィチ)だった」
と言われるのと同様に(もしくはそれ以上に?)
フランクも「作品1において、すでにフランクだった」のです。

このことを知ったとき(初めて嬰へ短調トリオを聴いたとき)の驚きと興奮は、
作品の出来不出来などを吹き飛ばすものでした。


当時聴いたCDはミュンヘン・ピアノトリオの演奏です。



循環形式に限らず、前楽章で出てきた素材(旋律)が別の楽章で再現される場合、
(楽譜の指定もあるでしょうが)"オリジナル"と同じテンポで再現されるのが好きです。
妙にテンポを遅くしてみたりニュアンスを変えたりすると、"再現"の意味が失われます。

ミュンヘン・ピアノトリオはその点、奇を衒わず素直な(且つしっかりとした)演奏です。
でもそれは、フランクの作品の魅力を引き出すための基本だと思います。

この演奏で聴いたからこそ、この曲の魅力を理解できたのかもしれません。
今なお愛聴盤です。

アランジアロンゾが好き

2013-06-19 22:25:47 | そのほか
アランジアロンゾってご存知ですか?

駅ビルの特設コーナーとかでたまに売ってるんですが、
キーホルダーとかタオルとか、小物をついつい買っちゃうんですよね。


最初に気に入ったのは「わるもの」
灰皿、買っちゃいました。わるそうですね~



最近のお気に入りはパンダかな。
で、ミニノートを3冊も買ってしまいました。



表面に気合の入ったパンダくん「書く気まんまん」


で、裏面に「本気」の決意がっ!



「だいじなことはすぐにメモだ!」のアドバイス


で、「さらに赤丸!」でダメ押し!!



カッパくんは「かいておこう」


「かいてあった!」よかったね。

ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調 (朝比奈隆/シカゴ交響楽団)

2013-06-02 20:34:16 | クラシック音楽
朝比奈隆が1996年に初めてシカゴ交響楽団を指揮した、
ブルックナーの交響曲第5番のDVDを買いました。

NHKで放送された当時も録画して観ていましたが、改めて観たく(聴きたく)なったので。


例えば、ベートーヴェンをあるいはブラームスを得意とする指揮者、
チャイコフスキーやショスタコーヴィチを好んで取り上げる指揮者もいると思いますが、
彼らを「ブラームス指揮者」「ショスタコーヴィチ指揮者」などと呼ぶのを
あまり聞いた記憶はありません。

唯一、ブルックナーにだけ「ブルックナー指揮者」なるものが存在します。
(「マーラー指揮者」って言い方もするかな?)

その人達の指揮と、他の指揮者のブルックナーと一体何が違うのか?
その本質がなんなのかはよくわかりません。

テンポが遅め?(マタチッチは結構早いですね)
スケールが大きい?(音量が大きいのと同じこと?)


故・岩城宏之さんの著書「フィルハーモニーの風景」の中に書かれてある、
ベームが指揮したミュンヘンのオケについてウィーン・フィルのメンバーが
語っていることはとても印象的です。

  オーケストラ自体は非常に優れている。だがわれわれと違うところは・・・
  ミュンヘンのオペラオーケストラは、歳をとったベームの間延びしたテンポに、
  忠実につけて弾いていただけだった。
  おれたちフィルハーモニカーは、ベームの遅いテンポ通りに演奏するが、
  ジイさんの心の中の本当の意図を読み取って音楽を盛り込み、
  充実させて救っている。
  ミュンヘンのようでは、ベームはただの老人指揮者であるに過ぎない・・・


朝比奈御大がシカゴ響でブルックナーを振った時、すでに88歳!
その遅いテンポの中、シカゴ響の手練達は、朝比奈の意図を汲み取ったのか。

ただ言えるのは、終楽章のコーダ、壮大なクライマックスを聴くたびに、
胸が、そして目頭が熱くなるということです。

聴衆の喝采は、高齢の指揮者が長大な交響曲を指揮したことに対する、
単なる"労い"の拍手ではないでしょう


朝比奈隆の指揮を観る機会は何度かありました。
その中でも特に印象に残っているのが、
1994年6月4日、NHK交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第5番です。

確かN響の定期公演に登場するのは7、8年振りとかだったと思います。


素晴らしい演奏に接した際の"感動"にも"質の違い"がありますが、
感動の大きさ、という点でいえば、今もってこの演奏会を凌ぐものには出会っていません。
まさに体が震えるような。

その時、強く感じたのは「これは本物だ」という想いです。

日本から遠く離れた国で、その文化、歴史の中で、200年近く前に作られた音楽作品。
極東の島国・日本で、日本人指揮者、日本人ばかりのオーケストラで演奏されたベートーヴェン。

だが、これは世界中のどこに出しても恥ずかしくない「本物のベートーヴェンだ!」
そう確信しました。
(理由や傍証を求められても説明はできません)


朝比奈隆の指揮全てが"名演"というわけではありませんし、
全ての演奏を手放しで賞賛するつもりもありません。
でもこの、シカゴ響とのブルックナーは、紛れもないブルックナーです。
だからそれが、「ブルックナー指揮者」と呼ばれる証なのでしょう。