藁科川上流の清沢地区のお祭りが、清沢小学校グラウンドで開催されました。
あいにくのお天気でしたが、30回目を迎えるこのお祭りには、シャトルバスに2階建てバスが登場し、雨模様を吹き飛ばすような活気がありました。
地域の名産が数々並び、舌鼓をうったり、ステージで披露されるパフォーマンスに手をたたいたりとにぎやかなイベントでした。
あいにくのお天気でしたが、30回目を迎えるこのお祭りには、シャトルバスに2階建てバスが登場し、雨模様を吹き飛ばすような活気がありました。
地域の名産が数々並び、舌鼓をうったり、ステージで披露されるパフォーマンスに手をたたいたりとにぎやかなイベントでした。
藁科川の源流・七ツ峰をハイキングする奥藁科北部ハイキングコースが遂に整備されました!
コースを案内する看板もそれぞれの入り口に立ち、コース上にも案内板が設置され、安心してハイキングを楽しめます。
今日は歩き初めで益田山までハイキング。紅葉の森の中を楽しく散策してきました。
コースを案内する看板もそれぞれの入り口に立ち、コース上にも案内板が設置され、安心してハイキングを楽しめます。
今日は歩き初めで益田山までハイキング。紅葉の森の中を楽しく散策してきました。
藁科川上流の坂ノ上を流れる杉尾川と藁科川本流が出会う手前の右岸側の斜面に、昔の形をした茶畑を見つけました。
坂ノ上に通ってきたお茶摘みさんの様子です。山間にお茶摘みさんの歌声が響き渡るのを聞いてみたかったです。
「大川村坂ノ上にも焼津、藤枝、川崎から若い娘を中心に一日がかりで歩いてやって来ました。上着はかすりの“ジバン”に“赤いたすき”下はかすりの格子縞の“腰巻き”をしめて、“手甲”“はばき”をつけて、頭には“手ぬぐい”を姉さんかぶりにかぶって“草草履”をはいてやって来ました。
朝の暗いうちに茶摘みに出掛け、うす暗くなって帰ってきます。食事は一日四回食べました。麦飯に香香(こうこう)、味噌、わらじ、いもがらなど家で作ったもので、出汁にいわしの小魚を使う程度でした。お茶の他に養蚕もやっていたので、勝手をする婦人は二時間くらいしか睡眠がとれず、げっそり痩せてしまいます。
毎年坂ノ上だけでも、約二〇〇人位のお茶摘みさんが入ったからにぎやかなものでした。焼津、城之腰からきたお茶摘みさんは聞き返すのに『何でがーえれ』と言葉尻に方言を使ったので、すぐわかりました。両氏の娘たちで威勢がよかったから『焼津城之腰は荒浜育ちお茶も荒いが気も荒い』と歌われました。
お茶摘みさんとお茶師はよく掛け合いで歌を歌いました。『あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔みたや』とお茶摘みさんが歌うと、茶部屋のお茶師さんが『赤いたすきで気をきくなれば、わしら主さん野暮じゃない』と返すという具合でした。茶摘みが終わって家に帰る時にも、歩きながら歌っていきました。お茶摘みさんには歌は欠かせないものでした。」
『藁科路をたずねて』(海野實.明文出版社.昭和59年)
坂ノ上に通ってきたお茶摘みさんの様子です。山間にお茶摘みさんの歌声が響き渡るのを聞いてみたかったです。
「大川村坂ノ上にも焼津、藤枝、川崎から若い娘を中心に一日がかりで歩いてやって来ました。上着はかすりの“ジバン”に“赤いたすき”下はかすりの格子縞の“腰巻き”をしめて、“手甲”“はばき”をつけて、頭には“手ぬぐい”を姉さんかぶりにかぶって“草草履”をはいてやって来ました。
朝の暗いうちに茶摘みに出掛け、うす暗くなって帰ってきます。食事は一日四回食べました。麦飯に香香(こうこう)、味噌、わらじ、いもがらなど家で作ったもので、出汁にいわしの小魚を使う程度でした。お茶の他に養蚕もやっていたので、勝手をする婦人は二時間くらいしか睡眠がとれず、げっそり痩せてしまいます。
毎年坂ノ上だけでも、約二〇〇人位のお茶摘みさんが入ったからにぎやかなものでした。焼津、城之腰からきたお茶摘みさんは聞き返すのに『何でがーえれ』と言葉尻に方言を使ったので、すぐわかりました。両氏の娘たちで威勢がよかったから『焼津城之腰は荒浜育ちお茶も荒いが気も荒い』と歌われました。
お茶摘みさんとお茶師はよく掛け合いで歌を歌いました。『あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔みたや』とお茶摘みさんが歌うと、茶部屋のお茶師さんが『赤いたすきで気をきくなれば、わしら主さん野暮じゃない』と返すという具合でした。茶摘みが終わって家に帰る時にも、歩きながら歌っていきました。お茶摘みさんには歌は欠かせないものでした。」
『藁科路をたずねて』(海野實.明文出版社.昭和59年)
藁科生涯学習センター主催行事の「藁科てくてくマップづくり」のイベントが、今回は藁科川上流の坂ノ上地区で開催されました。地元の方や、写真の家の方、一般の参加者、歴史に詳しい方などが一緒にわいわいいいながら地域を歩くのは楽しいです。
藁科川上流の大川地区栃沢から足久保へ抜ける“釜石峠”には次のような伝説があります。
「昔の旅人は釜石峠を越して足久保街道を通り駿府に出ていました。峠の少し手前に石仏のお堂があり、山道はここで三本に分かれて、左が玉川、中は足久保、右は突先の登り道になっていました。栃沢から峠に着くと初めての人は迷いやすいのです。
昔何かの急用で夕方栃沢より登った旅人は一本道と思ってか途中で水をたずねずに登ってきました。そしていつしか玉川に通じる道に迷い込んでいるうち、とうとうあたりは暗くなってしまい、深山で野宿しました。ここで山の動物にくわれては大変と寂しくなるばかり、そこで思いついたのが峠の石仏のお堂のことで、急いで手探り足探りで今来た道を引き返し、漸く峠のお堂にたどりついて『願わくは道に迷いし者、せめて一夜の宿を貸し給え』と心で念じてお堂の中へ入りました。その夜は旅も疲れでぐっすり眠りましたが、夜明け間近と思う頃、石仏さまが夢枕に立ち『お前は道に迷っている様子、夜があけたら中の道を大タルの方へ下るがよい』と告げられました。これに気が付いた旅人は石仏に三拝九拝してお礼を述べ、夜明けをまつ間に一夜の宿を貸してくれた上に夢枕に道案内までしてくれたことをこまごま書置きして峠を下りました。それから幾日か過ぎた日、その書置きを村人たちに見出され『それは大変お気の毒であった』というこどえ、それからだんだんに分かれ道や難所に道しるべが建てられて、迷う人もいなくなったといいます。」
『藁科路をたずねて』(海野實.明文出版社.昭和59)
「昔の旅人は釜石峠を越して足久保街道を通り駿府に出ていました。峠の少し手前に石仏のお堂があり、山道はここで三本に分かれて、左が玉川、中は足久保、右は突先の登り道になっていました。栃沢から峠に着くと初めての人は迷いやすいのです。
昔何かの急用で夕方栃沢より登った旅人は一本道と思ってか途中で水をたずねずに登ってきました。そしていつしか玉川に通じる道に迷い込んでいるうち、とうとうあたりは暗くなってしまい、深山で野宿しました。ここで山の動物にくわれては大変と寂しくなるばかり、そこで思いついたのが峠の石仏のお堂のことで、急いで手探り足探りで今来た道を引き返し、漸く峠のお堂にたどりついて『願わくは道に迷いし者、せめて一夜の宿を貸し給え』と心で念じてお堂の中へ入りました。その夜は旅も疲れでぐっすり眠りましたが、夜明け間近と思う頃、石仏さまが夢枕に立ち『お前は道に迷っている様子、夜があけたら中の道を大タルの方へ下るがよい』と告げられました。これに気が付いた旅人は石仏に三拝九拝してお礼を述べ、夜明けをまつ間に一夜の宿を貸してくれた上に夢枕に道案内までしてくれたことをこまごま書置きして峠を下りました。それから幾日か過ぎた日、その書置きを村人たちに見出され『それは大変お気の毒であった』というこどえ、それからだんだんに分かれ道や難所に道しるべが建てられて、迷う人もいなくなったといいます。」
『藁科路をたずねて』(海野實.明文出版社.昭和59)