フランスの週刊誌シャルリー・エブド本社が襲撃されて、編集長含む風刺漫画家ほか12人が殺され、その後見つかった犯人たちも射殺された。昨年共演したフランス在住のアーティストたちがまず無事なようでよかったのだが、日本では「過激な風刺だから当然」という論調もわりと見かけたので、どういう背景なんだろうかと調べたり考えたりしていた。

さきほど、一昨年マリオネットフェスで会ったDIDOUからもメールがあった。「”私はシャルリー” 自由の為にこの写真を広めてくださることを祈ります」と。私はフランス語ができないが、現代にはgoogle翻訳という便利なものがあるので、それでマリオネットフェスで出会った人々とは時々やり取りしている。
DIDOUの路上のマリオネットショウはこんなぐあいだ。
~ジャガイモに手足目鼻を付け帽子をかぶった人形がいすにすわっている。
「眼をとられ、口をとられ、手を取られ、足を取られ、頭もとられ、ただのじゃがいもになってしまったそれ。~
このように発言や行動や考えることを徐々に奪われて、人は人ではなくなってしまう。ソ連のスターリン時代はそうだったんだよ。観察や言論を封じられはじめたら、そう言う時代がすぐやってくる。」というメッセージの強いマリオネットショウである。

仏語がわからなくても、そのパフォーマンスの意図を私は理解できた。このシンプルなショウを小さな子がじっと見ている時もある。親が(政治的だな)と判断し子どもの肩を叩くと、すかさずDIDOUは「こどもは必要だと思うから一生懸命見てるんだ。すぐ終わるから最後まで見せてあげてくれ」と言う。するとたいてい親も子どもの様子を見て最後までみせる。
この時私は「ここでは人が主義主張を述べることを尊重している。日本とは違うんだな。」と思って深く息が吸える気持ちになった。日本では素直に意見を言ったが最後、ハブになることが多い。思いやりという言葉にくるまれた居心地の悪さは子どもの頃からかぎとっていたもので、日本ならではの良いところももちろんたくさんあるのだけれど、もう、仕方のないことだとあきらめていた。素直な意見を言ってしまうとつまらないもめごとになるから、なるべくつるまずよく観察してひとりで考える。
昨夏、多国籍なクラウンショウ「かばれ・で・ふ」出演の際、フランス人たちや、フランスの学校で勉強して来た演劇的クラウンの皆さんとご一緒した。私はその時にクラウンやブッフォンというものについて見たり読んだりといろいろ調べた。笑いの要素のクラウンに対して、ブッフォンはものすごいブラックジョーク。そんなえげつないとこまで突っ込む~笑という道化だった。
そういう風刺は、私の子ども時代の記憶にある、絵本ジョンレノンセンスという本や、ビートルズのイラスト集、東京新聞のウノカマキリさんの漫画等に共通する辛口ジョークと近かった。
話が飛び散ってしまったが、シャルリー・エブドはスポンサーのいない購読者のみの週刊誌で、何度嫌がらせを受けても、政治的時事問題をブッフョン的に表現していたところのようだ。その時点で、スポンサーありきの日本の発行媒体とは姿勢が違う。
私は震災以降新聞を取らないし、テレビはもともとみない。事実を言おうとしない新聞なんて信じられないと感じてしまったが、そういう人は意外や少数派だった日本。原発事故直後に日光へ修学旅行に子ども連れて行く教育体勢に反論した人はほぼなかった。
そういう背景の違う国でおきた事件だが、個人の主義主張を守るという姿勢が、武器によって壊されたことはショックだ。とっくみあいだったらよかったのに。
人間同士の殺しあいは武器産業の大儲けしか生まないことだろう。

さきほど、一昨年マリオネットフェスで会ったDIDOUからもメールがあった。「”私はシャルリー” 自由の為にこの写真を広めてくださることを祈ります」と。私はフランス語ができないが、現代にはgoogle翻訳という便利なものがあるので、それでマリオネットフェスで出会った人々とは時々やり取りしている。
DIDOUの路上のマリオネットショウはこんなぐあいだ。
~ジャガイモに手足目鼻を付け帽子をかぶった人形がいすにすわっている。
「眼をとられ、口をとられ、手を取られ、足を取られ、頭もとられ、ただのじゃがいもになってしまったそれ。~
このように発言や行動や考えることを徐々に奪われて、人は人ではなくなってしまう。ソ連のスターリン時代はそうだったんだよ。観察や言論を封じられはじめたら、そう言う時代がすぐやってくる。」というメッセージの強いマリオネットショウである。

仏語がわからなくても、そのパフォーマンスの意図を私は理解できた。このシンプルなショウを小さな子がじっと見ている時もある。親が(政治的だな)と判断し子どもの肩を叩くと、すかさずDIDOUは「こどもは必要だと思うから一生懸命見てるんだ。すぐ終わるから最後まで見せてあげてくれ」と言う。するとたいてい親も子どもの様子を見て最後までみせる。
この時私は「ここでは人が主義主張を述べることを尊重している。日本とは違うんだな。」と思って深く息が吸える気持ちになった。日本では素直に意見を言ったが最後、ハブになることが多い。思いやりという言葉にくるまれた居心地の悪さは子どもの頃からかぎとっていたもので、日本ならではの良いところももちろんたくさんあるのだけれど、もう、仕方のないことだとあきらめていた。素直な意見を言ってしまうとつまらないもめごとになるから、なるべくつるまずよく観察してひとりで考える。
昨夏、多国籍なクラウンショウ「かばれ・で・ふ」出演の際、フランス人たちや、フランスの学校で勉強して来た演劇的クラウンの皆さんとご一緒した。私はその時にクラウンやブッフォンというものについて見たり読んだりといろいろ調べた。笑いの要素のクラウンに対して、ブッフォンはものすごいブラックジョーク。そんなえげつないとこまで突っ込む~笑という道化だった。
そういう風刺は、私の子ども時代の記憶にある、絵本ジョンレノンセンスという本や、ビートルズのイラスト集、東京新聞のウノカマキリさんの漫画等に共通する辛口ジョークと近かった。
話が飛び散ってしまったが、シャルリー・エブドはスポンサーのいない購読者のみの週刊誌で、何度嫌がらせを受けても、政治的時事問題をブッフョン的に表現していたところのようだ。その時点で、スポンサーありきの日本の発行媒体とは姿勢が違う。
私は震災以降新聞を取らないし、テレビはもともとみない。事実を言おうとしない新聞なんて信じられないと感じてしまったが、そういう人は意外や少数派だった日本。原発事故直後に日光へ修学旅行に子ども連れて行く教育体勢に反論した人はほぼなかった。
そういう背景の違う国でおきた事件だが、個人の主義主張を守るという姿勢が、武器によって壊されたことはショックだ。とっくみあいだったらよかったのに。
人間同士の殺しあいは武器産業の大儲けしか生まないことだろう。