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ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

北広島市の旧島松駅逓所と北斗市大野町の稲作つながりに驚き(1)

2016-06-22 21:19:43 | 旅行
クラーク博士の記念碑と同じエリアにある旧島松駅逓所を訪ねた。(2015年10月1日訪問日)
駅逓所の前の道路は工事中で、邪魔にならないようにしながら、建物に近づいた。
「国史跡 旧島松駅逓所」の説明版

 指定年月日 昭和五十九年七月二十五日
島松駅逓は、北海道各地に設置された駅逓の一つで、明治初期の姿を残す駅舎施設は、北海道の近代史を知る上で貴重な遺構である。
 島松駅逓は、明治六年(一八七三)十二月、箱館・札幌間の札幌本道の開通に伴い、島松川右岸に設置されたのにはじまり、初代取扱人は勇払場所総支配人の山田文右衛門(明治八年まで)が、二代目は山口安五郎が務めた。
 その後は、明治十年(一八七七)、中山久蔵が請負人となって、鶴谷新次郎が駅逓取扱い人となったが、明治十七(一八八四)八月から中山久蔵が正式に駅逓取扱い人となり、以後、島松駅逓が廃止されるまで、この駅逓の業務は中山家によって行われた。
現在の木造平屋建ての建物は、明治六年(一八七三~一八八〇)に建てられた中山久蔵居宅・客室に同十四年増築の行在所が主体をなし、その後、小規模の改修が行われた。
 史跡内にはハス池、井戸などの附属施設が保存されている。
    説明版には上記の記録がある。
史跡の駅逓所の石碑側からみる

駅逓家屋

井戸と御前水

渡島半島の北斗市大野町の稲が島松で栽培されていたということには驚きを感じた。
大野町には水耕発祥の地の石碑がある。大野町と中山久蔵との繋がりがあったのだ。
ここには・・・大野町のことが記録されている。
「水田址と赤毛種見本田」
『中山久蔵は明治6年、渡島地方の大野村から赤毛種の籾を取り寄せ、水耕栽培に成功し、後に石狩水田の祖といわれた。
 見本田の赤毛は上川農業試験場に保存されていた種籾と広島町が受け継ぎ栽培してます』
寒冷地の稲作の工夫をしていた。
「寒冷地稲作と暖水路跡」『中山久蔵は、風呂の湯をくんで苗代をつくったり、島松川から引いた水をあたたけてから水田に流すなどの工夫を重ね、寒地に適したコメ作りの方法を研究し、稲作希望者には進んで栽培技術の指導にあたった。』
暖水路溝跡
中山久蔵翁頒徳記念碑

『中山久蔵(1828~1919)は今の大阪府南河内郡太子町春日に生れた。
26歳の時、仙台藩士に仕えた後、本道永住を決意し島松に入植した。農業篤志家としての名声のほか、駅逓の経営にも尽力するなど、その功績は大きい。』