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エゼキエル書21章

2017年06月24日 06時00分22秒 | エゼキエル書
ヘブル語の聖書では、20章の45節から、新しい21章となっている。意味段落で区切れば、20:45-21:32が一区切りであり、21:1-32は、20:45-49で語られたネゲブの森の火事のたとえを説明する三つの預言(8-17、18-27、28-32)と理解してよい。神の火が、「ネゲブから北まで」(20:47)、つまりネゲブというのはユダ南王国の南であるから、イスラエルの南から北までを意味し、イスラエルの国土全体を焼き滅ぼすということである。それは、21章のはじめでは、神の剣と言いかえられ、同じように、「ネゲブから北まで」(21:4)すべての者に襲いかかるとされる。
そのような裁きのために、「腰が砕けるほど激しく泣け」(6節)と命じられる。ヘブル語を直訳すればそうなのだが、翻訳は難しい。口語訳は「心砕けるまでに嘆き」、新共同訳は、「腰をよろめかし、苦しみ呻け」である。これもまた行動預言、パフォーマンスによる預言の一つであるとすればイメージが湧くが、心が潰れる悲しみのことを言っているのだろう。
9節から17節は、括弧でくくられている。それは、この個所だけが、散文体ではなく詩文体であるからだ。しかし実際の所、詩文体として形が整っているのは、最初の2行(9、10節)だけで、後半は、写本上の本文の痛みが激しく解釈も困難であるとされる。こういうヘブル語聖書の状態を理解するにつれ、聖書というのは、神の救いを語り伝える書でありながらも、何千年もの歴史の中で、擦り切れ、その若干一部は判読不能になった古書なのだ、と改めて思うものである。だがそれは、神の救いのメッセージが読み取れないほどではないし、神への信仰を揺らがせるほどでもない。聖書には、確かに一部、民数記に見られるような計算違いもあるし、この個所でもそうだが、本文が完全ではない部分もある。けれども、それは、神の救いの中身を完全に理解するのを、なんら妨げるものでもない。 ともあれこの歌は、ユダ王国へのさばき、最終的で恐ろしい刑罰を語る。
「二つの道にしるしをつけ、二つとも一つの国から出るようにせよ」(19節)。バビロンがやってきて、エルサレムを攻めるかそれともアラムにするかの分かれ道に立つことを意味している。ラバは今日のヨルダンのアンマンである。そこでネブカデネザルはどちらを攻めるべきか占いをした。「彼は矢を降り混ぜて、テラフィムに伺いを立て、肝を調べる」(21節)。当時の占いの方法である。一つは、人や場所の名前を記した矢を入れた矢筒を降り混ぜ、くじ引きのように、矢を引き抜く方法、二つ目はテラフィムに伺いをたてる方法。テラフィムは、小さな人間の形をした先祖の神々を象徴する像であったとされ、おそらく死者からの託宣を聞く手段として用いられたと考えられている(創世記31:19、30)。そして三つ目は、犠牲動物の肝臓または内臓の色や形を調べる方法である。こうした古代バビロニヤの占いは、ことごとくエルサレムが当たったのだろう。ネブカデネザルは、その分かれ道でエルサレムを選んだ。しかしそれは、神が定められたことであった。神がネブカデネザルを用いて、裁きを実現されたのである。
エルサレム滅亡の折に、傍観者となって、エルサレムを見捨てたアモン人に対しても、神は裁きを宣告される(28-32節)。「主であるわたしがこう語ったからだ」(32節)。神のことばは、何一つ無為に地に落ちることはない。神のことばは成就し、神のことばは時至れば成し遂げられる。たとえ、ヘブル語原文のごく一部に、記された文字が摩耗し、読み取れない部分があったとしても、それですべてが否定されるものでもない。明瞭に読み取れる部分に十分において、それは私たちにチャレンジを与える神のことばとなっている。書かれた神のことばをしっかりと聴き分ける者とならせていただこう。

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