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エゼキエル書4章

2017年06月07日 04時34分17秒 | エゼキエル書
 エゼキエルの預言は、象徴行動による預言、いわゆることばによらない、パフォーマンスによって、神の意思を伝えようとする特殊な形を取る。4章はその4つの預言を通してエルサレムの民に、神のみこころが伝えられる。
一つは、エルサレムの包囲に関するものである(1-3節)。エゼキエルは、粘土板に、エルサレムの町を描き、それが敵軍に包囲され、攻撃されているように、セットアップするように命じられた。そしてこの粘土板に描かれたエルサレムとエゼキエルとの間に鉄の平なべを、鉄の壁として立て、顔をしっかりと町に向けるように言われた。それは、この裁きをしくまれた神がおられること、しかし、その主の御顔がエルサレムから隠されていることを示している。主が御顔を向けられるのは、契約に基づく祝福である(民数6:25-26)。エルサレムが攻められることは、主の契約ののろいが及ぶことである(申命31:17-18、32:20)
 第二の行動預言は捕囚に関するものである(4-8節)。預言者エゼキエルは、定められた日数を横たわって過ごすように命じられた。一日を一年として、まず左わきを下にして390日間横たわる。そして次に右わきを下にして40日間横たわるように命じられる。これだけの期間をじっと横たわっているというのは、実に苦しい動作である。それにしてもなぜ左わきを下にし、右わきを下にするのか。それは、左わきを下にすると北イスラエルの方向になり、右わきを下にすると、南ユダの方向になるためで、北イスラエルの捕囚と、南ユダの捕囚の苦しみとその期間をパフォーマンスによって預言している。
 数字については、実際の歴史的期間として理解するよりも、ある一定の期間と象徴的に理解した方がよい。かつてイスラエルの民がエジプトで430年間苦しんだとされるように、ユダヤ人にとっては一定の苦しみの期間をイメージさせる年数であり、北のイスラエルと南のユダ合わせた一定の期間、北のイスラエルの方がより長い期間、捕囚の刑罰の苦しみを味わうことを語っている。 
 第三に、飢饉に関するもの(9-17節)。ここでは二つの飢饉が語られている。一つは、包囲期間中の食糧の不足(9,11,16,17節)。もう一つは、外国の地で不浄な食物を食べなくてはならないという食料の飢饉である(12-15節)。普通は、小麦と大麦でパンを作るのであるが、それだけでは足りないので、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦も混ぜてパンを作らなければならないとされる。またパンを作る燃料も不足する。古代中近東では、動物の糞を乾燥させて燃料として用いたが、人の糞を用いるのは汚れた方法と見なされていたから、人の糞を用いるように命じられたのは、捕囚期間中に異教的環境で生活し、食べるのを強いられることによる飢饉を物語るものだろう。ともあれ、「彼らは自分たちの咎のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう」(17節)と、神の裁きが語られる。しかし、少々可笑しくもあるのは、エゼキエルが、人の糞で行為預言をするのはきつすぎると語ったところ、「では牛の糞でどうか」と神がエゼキエルの気持ちに配慮している点である(15節)。ペテロの場合は、神は、「神が聖いと言ったものを聖くないと言ってはならない」といささか無理強いもされた感もあるのだが、ここでは違う。神は主の働き人を機械のように用いることはなさらない 。まさにイエス・キリストがそうであったように、神は主の働き人を、配慮を持って用いてくださる。一方、主の働き人は、その全生活を持って神のみこころを証する。まさに身を持って神の言葉を語ることがその使命である。神のみことばを口で語るのみならず、全生活を持って語る歩みが大事である。




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