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イザヤ書64章

2017年04月05日 07時11分13秒 | イザヤ書
63章7節からイザヤの祈りが続いている。それは、神の救いのみわざの偉大さ(1-4)、イスラエルの罪に向けられた神の怒り(5-7)、神が父であることを確認し(8節)、神への叫びととりなし(9-12節)からなっている。
既に見たように、イザヤは信仰者を代表して神に祈っている。神は厳しく裁かれるが、同時に愛を持って回復される。しかしイスラエルは、その神の愛を踏みにじるかのように反逆を繰り返してきた。彼らの罪は測り知れない。それは、アブラハムが知らないといい、ヤコブも、同胞としては認めない事態であったはずだ(63:16)。彼らは、神の恵みではなく、呪いを受けるべき者、十字架に釘付けにされて見捨てられるべき者であった。しかし、神は私たちをあわれまれる。そんなことは、「古い昔から聞いたこともない。耳にしたことも目で見たこともない。」という(4、5節)。
新約聖書において、パウロは、イエスの十字架に示された、神の恵みに対する驚きを語るために、この4節を引用した。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(1コリント2:9、10)。この神の愛に対する深い驚きと遜りがすべての出発点である。神に何物かを受ける権利がある、と考えるのは誤りである。何物も受けられない、見捨てられるべき存在である、にも関わらずあわれみを受ける者である。
9節以降の、イザヤの神に対するとりなしは、叫びに近い。神の愛の性質に、訴えかけている。神の愛の深さに訴えかける祈りである。神の怒りの激しさ故に、イスラエルの民に下された裁きの悲惨さは、誰もがもはや神に期待しえない、神の御名を呼ぶことすら躊躇われる状況であった。もはや、私たちには何の権利もない。討ち滅ぼされて当然であり、こうなる運命であったのだ、と静かに歴史の表舞台から退場すべき事態であった。しかし、神が私たちにとって父であることに変わりはない。陶器師のように、神が手をかけて私たちを造られたことに変わりはない。問題はそこで、「奮い立って、主にすがる」か否かである。神の憐みは深く、神が私たちの父であるという確信を捨てず、回復を激しく祈り求めるかどうかである。イザヤは神が父であるという確信を持って、執拗に祈っている。「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。」(9節)。サマリヤの陥落という歴史的な事件を目の当たりにし、残されたユダに対する神の裁きを確信せざるを得ない状況にありながら、なおも神の憐みを求めて祈っている。イザヤ同様に、とりなすことが、私たちの務めである。自分自身のみならず、皆の回復を祈り求めることだ。というのも、私たちの祝福は、伴侶や子ども、そして友人、知人、国家の回復と切り離せないからだ。自分のみならず皆が回復される時に、この自分も真の祝福を味わうのである。

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