A Diary

本と音楽についてのメモ

ダレルの「n次元」モダニズム

2007-04-27 14:25:21 | イギリスの小説
■ロレンス・ダレル 『アレキサンドリア四重奏I ジュスティーヌ』 (高松雄一訳、河出書房新社 2007)
Lawrence Durrell Justine (1957)

僕が興味を持っている時代、つまり20世紀の半ばから後半にかけてのイギリスのことだけれども、オクスフォードかケンブリッジを卒業しているということの持つ意味は、きっと僕たちがなんとなくイメージするよりずっと大きいに違いない。第二次世界大戦以前の日本で「帝大卒」という学歴が意味するところに近いのではと想像する。イギリスでも、戦後新設された大学群が十分根付き、サッチャー流の経済価値観が広まった1980年代以降には、それまで少しずつ変化していた旧来型社会階層システムの崩壊が明白になった。だから以前は「高学歴」「中流階級以上」「富裕層」の三つの要素はおおむねきれいにイコールでつながっていたのだけれども、現在ではその相関関係が必ずしも成り立たない状態になっている。

しかしかつては、オクスフォードかケンブリッジを出ていれば、とりあえずイギリス社会の主流層(支配的、指導的階層という意味で)としてのスタートを切れることが約束されていた。でも仮に、ある作家の卵が両大学のいずれかを目指していたのに入れなかったとしたら…その後に生み出される作品において、この挫折感は彼/彼女の作風に影響を与えるのだろうか。もっと広い意味で考えるなら、もし「イギリス社会の主流層」に入らない(入れない)イギリス人作家は、「主流層」に迎えられた作家と比べたとき、何か作風に違いがあるのだろうか。

というのも、ロレンス・ダレルの経歴を読んでいて、次のようなところが気になったからだ。

①インド植民地生まれで、両親もまた植民地で生まれた世代
②イギリスの寄宿学校に送られたがまったくなじめなかった
③個人教授を受けながらケンブリッジ大学を目指すが失敗
④23歳でギリシア領コルフ島に住んで以来、各地を転々とするが、基本的にはイギリスには戻っていない

これは当時の、社会的成功を収める典型的なイギリス人の経歴とは程遠い。僕はダレルについて、はっきり「異端児」というレッテルを貼ってもいいのではと思う。そしてこういう人こそが、「アレキサンドリア四重奏」に代表されるような、モダニズムの息吹を残す作品を書いているわけだ。

戦後のイギリス圏では、みんなまるでモダニズムなんて時代は存在しなかったかのように小説を書くのだけれども、その中であってもモダニズムの傾向を残した作家といえばこのダレルのほかに、サミュエル・ベケット、マルカム・ラウリー、B.S.ジョンソンなどを思いつく。そして僕は彼らの経歴と作風には何か共通する要素があるなあと感じてしまう。ベケットはアイルランド人でずっとフランスにいた人。ラウリーはケンブリッジを出たものの世界を放浪し、イギリスには死ぬときまで戻らない。B.S.ジョンソンは労働者階級の出身で、イレヴン・プラスに落第してしまった(イレヴン・プラス…11歳で受ける学力テスト、これに落ちると大学受験ができるような進学校には入学できない。当時はたった11歳で人生が決まってしまった…ただしB.S.ジョンソンは勉強しなおし、23歳で大学に合格する)。みんなイギリスの主流からは外れた人たちばかり。

もちろん、本家本元の戦前のモダニズム自体が、ヴィクトリア朝的価値観とリアリズムへのある種の反発を、イギリスの「主流」からは外れた人々が表現したものなのだ。(ちゃんと勉強してみないと断言できないけど。)ジェイムズ・ジョイスはアイルランド人、T.S.エリオットはアメリカ人、ヴァージニア・ウルフは当時の女性という立場。もちろんT.S.エリオットは自らイギリスへ渡ってきたのだけれど、戦後のモダニスト作家を含めて、みんなイギリスという国にはしっくりいかなくて、そのなじめなさが、イギリスに典型的なリアリスティックな作品とは相反する手法という形で具現化している…のではないだろうか。

アントニー・ポウエルのような誰が見ても上流階級的経歴の作家は、ああいう典型的なイギリス的小説を描く。「私は伝統路線でいく」宣言をしたマーガレット・ドラブルも主流路線の経歴。ちょっとずれてるな、と感じる作家は、僕が思うに、経歴や出身階層を見ると納得できそうな気がする。そういう人たちは経歴がやっぱり典型的な「主流」からはちょっとずれているのだ。ジョージ・オーウェルしかり(植民地出身)、アイリス・マードックしかり(アイルランド)、ドリス・レッシングしかり(植民地出身)…。そしてついでに言えば、主に1970年代以降は、逆に植民地出身、といってもイギリス白人支配者層ではない、被支配者側の移民たちやその子孫がイギリス文学に進出するようになり、これ以降、僕の「モダニスト=異端児」説は、社会階層自体の変化とも併せて、あまり唱える意味がない時代をむかえていく。典型的な主流イギリス人的経歴というものが消失し、みんなが異端児の時代。きれいにまとめれば、多様な価値観の時代。

* * * * *

1957年というから、ちょうど50年前に発表されたこの小説『ジュスティーヌ』は、骨子からいえば(小説に骨子などというものがあるとしての話だけれども)、すこぶる単純だと僕は感じた。パターンとしては「愛する対象の喪失」系のメロドラマ。自分が好きだったり大切にしていたりするものが無くなったり、どこかに行ってしまったりしたら悲しいではないか。それもその喪失の原因が自分にあったりしたら。この小説はその手の物語。

このメロドラマパターンを形作る登場人物は四人。主人公の「ぼく」、この「ぼく」と付き合っているギリシア人ダンサーのメリッサ、「ぼく」と急速に親しくなっていくジュスティーヌ、ジュスティーヌの夫で富豪のネッシム。これだけでだいたい見当がつくと思うけど、要するに「ぼく」は、愛してくれているメリッサから心が離れてしまい、ジュスティーヌにぞっこんになってしまう。ネッシムは嫉妬にかられ、ジュスティーヌは結局「ぼく」ともネッシムとも離れて失踪する。そんなこんなのうちに、元から体の弱かったメリッサは死んでしまう。二兎を追うものは…ではないけれど、「ぼく」は結局メリッサもジュスティーヌも失うわけだ。

しかし、あくまでもこれは骨子で、実際のストーリーはアレクサンドリアの下町の路地みたいにもっと細かく複雑な迷路のようになっている。「ぼく」が回想する形式の、一人称の視点の小説だから、読者は彼の言葉だけから事情を読み取っていかなくてはならないし。実際のところ、僕はこの小説、最初のうちはわけがよくわからなかった。眠くなるのをこらえてガマンして読み続けていくうちに、やっとだんだん読みやすく感じられてくるようになった。最後のほうにはちゃんと「全員集合の場面」もあって、ストーリーも盛り上がる。(「全員集合の場面」…個別に登場していたキャラクターたちが一堂に会する場面のことを指す僕の勝手な命名。全員集合という性質上、パーティー系宴会の場面であることが多い。この『ジュスティーヌ』では狩猟大会となっている。)そして二回目に読むときは、一回目の疑問点も解消し、最初から納得して読むことができるようになった。

さて、メロドラマはさておき、読みながら感じたことがあって、これはこの小説『ジュスティーヌ』が「小説を書く」ということに対して、あちこちで野心的な態度を表明している点。僕が思うに、つまりこれはロレンス・ダレル自身の小説作法への野心的態度が反映しているせいだろう。素直にストーリーを描いていけばいいところを、たまに「こんなふうに小説を書きたい」みたいな要素が顔をのぞかせる。具体的にはまず、ジュスティーヌが洋服屋さんの鏡の前に立ち、語るせりふ:


 「見てごらん!ひとつのものが五つの違う形になって映っている。わたしが小説家なら性格の描写に多次元的な効果を出してみたいと思うところね。プリズムを通して見るみたいに。人が一時にひとつのプロフィールしか見せてはならないってこともないでしょ」(p.30)


登場人物を「多次元的な効果」で表現したいと言っているけど、この「多次元」という言葉がくせもの。他の例としては、『ジュスティーヌ』には『風俗(ムール)』というタイトルの小説が内包されるかたちで長々と引用されるのだが、その一部分:


 「すべての人物は時間によってある次元に縛りつけられているが、それはぼくらがそうであってほしいと望むような現実ではない――作品の必要によって作られた現実だ。なぜなら、あらゆる劇は束縛を作りだし、そして人物は縛られている度合いに応じて意味をもつだけだから」(p.92)


また「次元」が出た。そしてこの『ジュスティーヌ』には、一番最後に「作品の要点」という章が添えられている。(こんな章のある小説は普通じゃない。やっぱり異端児だ。)ここで語られる一節:


 「n次元小説」三部作についてパースウォーデンが言う。「物語の進行運動量は過去に言及するたびに押し戻される。つまりaからbへと進行するのではなく、時間の上に立って、おのれの軸のまわりをゆっくりと旋回しながら、模様の全体を包みこんでゆく、という印象を与えるのがこの本だ。事件のすべてが前へ進行して別な事件に繋がってゆくのではなく、そのあるものは過去の事件に逆戻りする。過去と現在が結婚して、多種多様な未来がぼくらに向かって飛んでくる。とにかく、それがぼくの考えだったんだがね」(p.304)


パースウォーデンとは、この小説に登場する人物のひとりで、小説をいくつか書いているが自殺したらしい(明確には描かれていない)。とまあ、ここでもまた「次元」が出た。つまりそれぞれの文脈こそ違えど、どうやらダレルは「多次元」みたいなことに興味があるらしいとわかる。それも「多面的」という言葉ではなく、数学用語でわざわざ語らせている。もっと素直に言うならば、ダレルは小説というものが過去から未来へと進む時間の流れに縛られていることが気に入らないみたいで、これをどうにかしたい、もっと時間に拘束されない描き方をしてみたい、そういう野心がここから感じられる。実際、『ジュスティーヌ』は時間軸にはきちんと並ばない多くのエピソードの集成という体裁の作品となっている。どうりで読みづらいわけだ。

* * * * *

現代の日本でもそうだし、きっと世界中で言えることなのだろうけど、「こういう人生を送るべきだ」みたいな「正統な」人生とか、典型的なパターンみたいなものは、価値観の多様化の前に崩壊しつつあると思う。もちろん、お金持ちになって、不自由なく暮らせれば誰でもハッピーだろう。でも、「金銭=幸福」という考え方には疑問を持つ人だっているわけだ。いろいろな価値観や宗教の人々と共存する社会…結局、望むと望まざるとに関わらず、これだけ世界中を人々が行き交うわけだから、こういう「多様な価値観との共存」みたいなことが、社会のテーマになっていく。

僕はダレルのことを「異端児」と呼んだが、異端がいれば正統もいる。正統とはつまり、いわゆる「正典」と呼ばれるような本や作家のこと。イギリス文学の正典といえば、なんだろう…シェイクスピアとか、オースティンとか、ディケンズとかかな。でも、よく言われているように、正典なんて誰が決めたんだということが問題で、何が正統で、何が正統ではないなんて勝手に決めるなということだ。社会が変遷し、いろいろな読み方や価値観があるのだから、ある人にとっては正典扱いの作品でも、他の人にとっては目の上のたんこぶのような、異端の一冊かもしれない。

だからロレンス・ダレルも、もしかすると20世紀イギリス文学の中ではかなり個性的で、これまでは異端、ないしは傍系扱いだったかもしれないが、発表から五十年が経過した今、主流(正統あるいは正典)になるとは言えなくても、英文学の多様性の「先駆」とか、「一翼を担う」みたいな形で、もっと評価されるようになっても良いと感じてしまう。そして彼の本を読むにあたり、僕はダレルの、「あいつら(イギリスの普通の作家)になんか負けないで、なんとかしてユニークな小説を創ってやろう!」みたいな野心的な挑戦を、興味を持って楽しんでいきたい。「アレキサンドリア四重奏」シリーズは、まだあと三作品も続く。

ヴォネガット語録

2007-04-20 22:32:26 | その他の読書
彼はユーモア溢れるヒューマニスト。そして何よりも、思いやりのあるやさしい人だ。


 「わたしはただ、恐ろしい苦難から抜け出られない人がたくさんいることを知っている。だから、人間が苦しみから抜け出すのはわけないと思っている連中を見ると、腹が立ってきます。ある人々は、他人からの大きな助けをほんとうに必要としている。わたしはそう思います。愚かな人々、頭の弱い人々のことも心配です。だれかがこういう人たちの面倒を見てあげなくてはいけない。自分だけの力ではこの世に抗いきれないのですから」
(「自己変革は可能か――プレイボーイ・インタビュー」『ヴォネガット、大いに語る』p.314)


 「登場人物を完全に抜きさしならぬ状況におくのは、アメリカ人の作家気質に反することですが、人生にはそんな状況がざらにあります。知性が十分働かないためにひどい苦境に陥って、そこから絶対に抜け出せない人々、特に阿呆呼ばわりされている人々がいます。だのにこの文化社会には、人はいつでも自分の問題を解決できる、という期待が広まっている。それがわたしには、恐ろしくもあり、滑稽でもある。もうちょっとだけエネルギーがあれば、もうちょっとだけファイトがあれば、問題はすぐ解決するのに、という考えがひそんでいるのです。しかしこれはあまりにも事実に反するので、わたしは泣きたくなる――あるいは笑いだしたくなる」
(同上pp.317-8)


小説『ホーカス・ポーカス』の主人公は、ユージン・デブズ・ハートキというが、この名前は、かつてアメリカ社会党(こんな政党があったのだ…アメリカ史をよく知らない僕には、まだまだ学ぶべきことが多い)の著名メンバーの一人だったユージン・デブズに由来する。


 「いまでもわたしは講演のたびに、インディアナ州テレホートの出身で、社会党から合衆国大統領に五度も立候補した故ユージン・デブズ(一八五五-一九二六)の言葉を引用する。
 『下級階級が存在するかぎり、わたしはそれに属する。犯罪分子が存在するかぎり、わたしはそれに属する。刑務所に囚人が存在するかぎり、わたしは自由ではない』
 最近になって、わたしはデブズのの言葉を引用するとき、これをまじめに受け取ってほしい、と前おきするのが賢明であることに気づいた。でないと、大半の聴衆が笑いだす。べつに悪意があるわけではない。わたしが滑稽なことをいうのを知っていて、好意的に反応してくれるのだ。しかし、これはいまの時代を象徴している。こうした<山上の説教>の感動的な反響が、かびの生えた、まったく信用できないたわごとに受けとられてしまう」
(『タイムクエイク』p.152-3)


こういう意見が表明できるヴォネガットを、僕は素直に立派な人だと感じてしまう。

* * * * *

彼の言葉で言えば「まだ子供に毛の生えた程度の年齢」で、彼は第二次世界大戦に参戦し、ドイツで捕虜となる。そしてそのときのドレスデン大空襲の体験が、傑作『スローターハウス5』として描かれることになる。プレイボーイ誌のインタビューアーは、彼に「ドレスデン体験はあなたにどんな瞑想の材料を与えてくれたでしょう?」と質問する。


 「(ヴォネガットが戦友のオヘアに)ドレスデンの体験はきみにとってどういう意味を持っているかとたずねたら、彼は、自分の国の政府がないを言ってももう信じない、と言っていました。われわれの世代の者は、祖国の政府の言うことをまともに信じたものです。――あまり政府からだまされた経験がありませんから。政府がだまさなかったひとつの理由は、わたしたちの子供のころ戦争がなかったことです。おかげで基本的には真実を告げられていた。わが国の政府が国民にやたらと手のこんだうそをつく理由はなかったわけです。ところが、戦時中の政府はどうしても、いろいろな理由でうそつき政府になってしまう。ひとつには敵を混乱させるためです。わが国が参戦したとき、わたしたちはアメリカの政府が生命を尊重し、民間人を傷つけぬよう細心の注意を払っていると思っていました。そこでドレスデンですが、これは戦術的には価値のない、民間人の都市でした。ところがこの都市を連合軍は、燃えてドロドロに融けてしまうまで爆撃をした。そして、そのことに関してうそをついた。こうしたことはみな、わたしたちを唖然とさせました」
(「自己変革は可能か」p.325)


日本の原爆投下についても、ヴォネガットはあちこちで語っている:


 「わたしはこのすばらしい本の第2章に、広島の原子爆弾投下五十周年の記念式典がシカゴ大学のチャペルで行われたことを書いた。あのときのわたしは、広島の原爆が自分の命を救ってくれたという、友人のウィリアム・スタイロンの言葉は尊重に値する、といった。スタイロンが合衆国海兵隊の兵士として日本列島上陸の訓練を受けているとき、あの爆弾が投下されたのだ。
 しかし、わたしは、アメリカの民主主義政府が、非武装の男女と子供たちに対する陋劣きわまりない、殺人狂的で人種差別的な、ヤフーまるだしの殺人、まったく軍事的常識を欠いた殺人をなしうることを証明したひとつの単語を知っています、とつけ加えずにはいられなかった。わたしはその単語を口にした。それは外国語の単語だった。その単語はナガサキという」
(『タイムクエイク』p.205)


最近、ふたたび銃のことが議論を呼んでいるが、彼ははっきり言っている。


 「わたしたちはあまりにも武器を信用しているので、多くのアメリカ人の家庭で鉄砲がまるでペットのように大事にされています。あまりにも多くのアメリカ人が小銃や拳銃に親愛の情を寄せている。銃はわれわれをゾッとさせるのが当たり前なのに。銃は人殺し機械です。それ以外のなにものでもありません。わたしたちは、癌や青酸カリや電気椅子を恐れるのと同じくらい、銃を恐れるべきです」
(「ホイートン大学図書館再建の記念講演」『ヴォネガット、大いに語る』p.269)

* * * * *

僕はアメリカ文学をずっとなんとなく敬遠してきてしまい、知らないことがとても多い。学生時代の「米文学史」の授業は、かなり有名な先生だったのだけれども、興味はまったくゼロ。ホーソンの『緋文字』は読んでみたけれど、なるほどね、くらいの感想。今でも、ピューリタニズムとか、超越主義っていったい何のこと?って具合。でも、ヴォネガットが「好きだ」と評していることは、きっと印象的な内容を持つものに違いないと想像する。


 「さて、いまのわたしは、もうほとんどだれも知らないか、それとも忘れてしまった芝居のさまざまな部分をとりとめもなく思いだしている。たとえば〔ソートン・ワイルダーの〕『わが町』の墓地の場面とか、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』のポーカー場面とか、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の、あの悲しいまでに平凡で、不器用で、気高いアメリカ人ウィリー・ローマンが自殺したあと、その妻がいう言葉などを。
 その妻は、またこんなこともいう――<だいじにしてあげなければ>
 『欲望という名の電車』で、ブランチ・デュボアは、妹の夫にレイプされたあと、精神病院へ連れていかれるときにこういう。<わたくしはいつも見ず知らずの人たちの親切に支えられてきました>
 こうした言葉、こうした状況、こうした人びとは、わたしにとって青年期の情緒的、倫理的な標識になり、一九九六年夏のいまもそこにある。それははじめて劇場でそれらの場面を見聞きしたとき、おなじように夢中になった仲間の人間たちに囲まれて、金縛りになるほど魅惑されたからだ」
(『タイムクエイク』p.39)


ソートン・ワイルダー『わが町』、テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』、アーサー・ミラー『サラリーマンの死』、みんな二十世紀アメリカ演劇の傑作ばかり。ヴォネガットが印象に残っている場面は、いったいどんな感じなのだろうと思う。読んでみたい(あるいは観てみたい)という気分にかられる。

こうして、2007年4月10日、84歳で愛すべきカート・ヴォネガットは亡くなった(so it goes…そういうものだ)わけだが、彼の言葉から僕はたくさんの刺激を受けてきて、そして、これからも受け続けるのだろうと思う。


■カート・ヴォネガット『ヴォネガット、大いに語る』(飛田茂雄訳、サンリオ文庫、株式会社サンリオ1984)

■カート・ヴォネガット『タイムクエイク』(浅倉久志訳、早川書房1998)

権力と栄光とドッジボール

2007-04-13 23:56:26 | イギリスの小説
■グレアム・グリーン 『権力と栄光』 (斎藤数衛訳、早川書房 ハヤカワepi文庫 2004)
Graham Greene The Power and the Glory (1940)

舞台は1930年代のメキシコ。このメキシコの中でも東のはずれのほうにある、タバスコ州の田舎町を中心に『権力と栄光』のストーリーは展開する。当時のメキシコではラサロ・カルデナスという左派改革派の大統領の下、農地改革やら産業の国有化などが進められていた。さらに、宗教を否定する共産主義的発想から、厳しいカトリック教会へ弾圧も進められ、各地で教会が破壊され、司祭らは追放されていた。こういう状況で、警察から追われる身となった、タバスコ州でたった一人残された司祭がこの小説の主人公。

たった一人残された司祭…といっても、彼は決して「ヒーロー」ではない。常にアルコールを飲みたがる「ウィスキー坊主」だし、聖職者の結婚を禁じるカトリックの司祭なのに、実は私生児の娘が一人いる。情けないキャラクターは行動だけではない。小男で老人で太っていて出目と描写されている。美しくてかっこいい「ヒーロー=殉教者」ではないのだ。彼について、グレアム・グリーンは名前すら与えていない。しかし、でもだからこそ、この「ウィスキー坊主」の殉教の物語を、僕のようにキリスト教の信者ではなくても、胡散臭く感じずに読めるのだろう。

「ウィスキー坊主」が置かれた状況を、ものすごくつれなく、散文的に例えてしまうなら、小学生の体育の授業でやっていたドッジボールを僕は思い出す。ボールから逃げて逃げて逃げまくって、内野で自分がたった一人になってしまった状況を想像してほしい。それもボールは敵チームが持っているという場面。仲間のみんなはボールに当たって外野に出てしまっている。自分が当たれば、それでゲームはおしまい。相手がミスするのを待って、もはやさらに逃げるしかない。下手に手を出してボールを捕まえようとすると、取り損ねるかもしれない。四面楚歌。そしてこんなふうに思うのだ…こんな苦しい立場なら、もう逃げるのをやめて、ボールに打たれたほうがいいのではないか、みんなはもうこんなドッジボールを終わりにしたいのかもしれないのだから。

『権力と栄光』というグレアム・グリーンの中でも一二を争う傑作を、小学校のドッジボールに例えてしまうという、僕の冒涜的な説明が、果たして『権力と栄光』のストーリーに合致するかどうかは、実際に読んでいただくこととして(当たらずとも遠からず、くらいだと思う)、実は、こういう「一人で取り残された主人公」というのは、小説の設定としては時々あるパターン。とくに、悲劇的なエピソードとしてはよく見かける展開だということも指摘しおきたい。周囲の味方はいつの間にか消え去り、知らないうちに主人公は一人追い詰められていく…まさに今、このフレーズをパソコンに打ち込みながら、僕は源義経を思い出した。細かいところはいろいろ異なるけど、こういう構造のストーリーは日本の古典にだってあるのだ。どうりで読みやすいわけだ。

* * * * *

「キリスト教のことがいろいろ出てきて、どうも違和感を感じる」「あそこまでキリスト教の司祭としての立場にこだわるキャラクターには、読んでいて肩入れできない」…『権力と栄光』については、こういう感想を持つ人もいると思う。まあ、そういうこともあるだろう。でも、こういう問題は文学だけに限らなくて、絵画や音楽にだってあることだ。今、日本にレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』が東京国立博物館に来ているわけだが、どうだろう、宗教画だから嫌いになるだろうか。確かに、キリスト教徒として「受胎告知」という教義の重みを親身に感じる人と、僕みたいな一般人とでは、確かに作品の捕らえかたは異なる。でも、みんな、そして僕もまた、レオナルド・ダ・ヴィンチという名前にあやかって、絵を鑑賞しに行くわけだ。それでいいじゃん、と思う。

それに、バッハの『マタイ受難曲』とか、モーツァルトとかヴェルディとかの『レクイエム』を聴くとき、キリスト教徒でなければ、音楽が単なる騒音になってしまうのか、ということでもある。明らかにそんなことはないわけで、絵画や音楽にはどうやら、何か宗教的な要素を超えた、普遍的な「美」みたいなものが存在しているようで、だからこそ『受胎告知』は観る価値があるのだし、「モツレク」(モーツァルトのレクイエムのこと)は聴く価値があるのだろう。いや、別にキリスト教じゃなくったっていい。僕たちは運慶の仏像を鑑賞したり、アンコールワットを観に行ったり、エジプトの古代神殿を眺めたりするが、果たしてそれらの宗教の真剣な信徒だったことがあるだろうか。

僕のこういうふうな、「普遍性」とか「美」をもってして芸術の価値を説明するやりかたは、すっかり時代遅れであることは、よーくわかっているのだけれども、「キリスト教が鼻につくから『権力と栄光』はあまり読みたいと思わない」という人がいたら、それはとてももったいない、狭量な視野だなあと思うからこんなふうに書いてしまった。そして、「キリスト教のことがよくわからないから、この本のこともよくわかった気がしない」という人がいたら、「そんなこと心配しなくていいんじゃん」って言いたいからでもある。僕もそんな一人だし。グリーンの描く、ある種の切ないストーリーを単純に楽しむだけでも、この本は読む価値がある。

「ウィスキー坊主」である司祭が、貧しい村にたどり着き、自分の娘と二人きりになる場面。娘はまだ七歳で、お行儀がいいとは言えない女の子。彼はこのように語りかける:


「わしは命を捨ててもいい、なんの値打ちもない命だが。この魂だってかまわない……ね、おまえ、理解するように努めてくれ、おまえは――とても大切な子だということを」そのことが、彼の信仰と彼ら政治指導者たちとの相違だということを、彼はずっと前から知っていた。彼らは、ただ国家とか共和国のようなものだけ関心があった。この子は一つの大陸全体より大切だった。彼はいった。「おまえは非常に――必要なんだから。首都にいる大統領は、いつでも銃をもった人たちによって護衛されている――だが、わしの子よ、おまえは天のすべての天使がついている――」彼女は、暗い、自覚のない目で彼を見返した。彼は、自分がここに来るのが遅すぎたのだとわかった。彼はいった。「さよなら、かわいいおまえ」そして不器用にキスをした―愚かにも思い上がったこの老いぼれ。彼は、彼女の手をはなし、広場へととぼとぼ帰りはじめたが、もうその瞬間に、まるめた彼の背中のうしろで、邪悪な世の中全体が彼女をだまし、破滅させようとしているのを感ずることができた。(p.166)


本来の司祭という立場ならば、自分の娘だけを愛せばいいのではない。自分の娘だけが助かればいいのではなく、世の中の人をみんな愛し、みんなが助かるように祈らなければならない。でも、彼は銃殺される間際になっても、世の中の人を娘同等に愛そうとして失敗している。「あらゆるおそれと、救いたいという願いが、不当にもたった一人の子供に集中してしまった」(p.408)司祭という立場で私生児がいるだけでもまずいのに、この娘のことばかり気になってしまう主人公…とても人間的でなキャラクターではないか。キリスト教とか、そういう宗教なんて超えたところの親近感を、僕は感じてしまう。

* * * * *

「臆病者にだって、義務感というものがあるんだよ」(p.373)…『権力と栄光』は、この臆病者たる「ウィスキー坊主」が、逃げることだってできたのに、ただ優しさと義務感だけで殉教することになる物語。全体を見渡せば、この本が確かにちょっと「きれいごと」的になっている点は否めない。でも「良い本」なんて言われるものは、みんなそんなものだ。

そして…ドッジボールコートの内野に一人残された僕は、つまり、ボールから逃げに逃げまくった臆病者の僕は、早いところボールに当たってゲームを終わらせ楽になるべきか、それとも勝利への義務感から、壮絶な討ち死にを遂げるまで粘り続けるのか。こんなことになってしまうのだったら、どうして逃げていないで、最初からちゃんとがんばらなかったのだろう……そういうものだ(so it goes.)。

関係各位

2007-04-06 15:13:39 | 英詩
■サイモン・アーミテージ編 『ショート&スイート 101の超短編詩』
Simon Armitage(ed.) Short and Sweet - 101 Very Short Poems (Faber, 1999)

ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』の舞台はイギリスで、登場する人々は普通に耳にするような英語を話す。しかし「偉大な兄弟」が率いる全体主義政権は、思想統制を進めるために旧来の英語(旧語法…オールド・スピーク)から新しい英語(新語法…ニュー・スピーク)へと言語の改革していることが描かれている。その目的は、全体主義的な発想にそぐわない不必要な語を廃棄すること、つまり、「正義」「自由」「道徳」といった単語を無くすことにあり、さらに、そのような思考や発想そのものさえをも消し去ることにあるという。『一九八四年』の舞台は西暦1984年に設定されているが、新語法は2050年頃の完成にむけて着々と準備が続けれており、今や「新語法こそ年毎に語彙が減っていく世界唯一の言語」なのだと彼らは表明している。

でも、「年毎に単語は漸減していくし、意識の範囲も縮小していくのだ」というふうに、単純にうまくいくものだろうか。語彙が減れば人間の思考範囲も小さくなるという、シンプルな比例関係は成り立たないような気がする。少ない言葉数でも、含蓄に富んだ表現とか、ニュアンスに溢れる表現というものがあったりするのだから。『一九八四年』の全体主義政権は、言葉の持つこのような、微妙な、人間的な部分も抹殺することで、人間の発想とか人間性そのものを抹殺しようとしているが、よく読んでみると、彼らが推し進めるニュー・スピークもまた、こういう「言外の意」みたいなところに依存しているところもある。

言葉の数が少なくても味わいに富んだ表現があるのだということを観察するには、この『ショート&スイート』という詩のアンソロジーを読んでみるのもいいかもしれない。この本は現代イギリスを代表する詩人の一人、サイモン・アーミテージが編んだもの。彼は「very short poems」という基準として、全体で十三行以下と定め、それを、行の多いもの、つまり十三行の詩から順に並べた。だからページが進むにつれてどんどん行の少ない作品となっていく。こういう調子なので、最後から二番目に紹介されているPeter Readingの詩はたった一行になる:

Found

These sleeping tablets may cause drowsiness.

「発見」

この睡眠薬は眠気を引き起こす恐れがあります。


この詩については、なるほど…なんて妙に納得したりしないで、「はぁ~!?」って思う反応が素直ではなかろうか。ボケとツッコミの漫才だったら、ここは思いっきり突っ込まれるところだろう。とまあ、ともかく、日本では俳句や川柳があって、このように短い韻文への抵抗はあんまりないし、理解しやすいのではないかと思う。逆に、長編詩のほうが馴染みがなくて、読むのが大変だったりする。イギリス文学史をたどれば、『ベオウルフ』も『カンタベリー物語』も『失楽園』もみんな韻文の形式なので、「大長編詩」というのは普通なのだろうが、僕にとってはできれば遠慮させていただきたいところ。(これもつきつめれば、ヨーロッパの「古典文学」つまり、ギリシャ・ローマ時代の文学のメインが長編詩だったことに行き着いてしまうけど。)もし日本にも、『万葉集』にあるような「長歌」のジャンルが生き残っていたら、もう少しはこういうものにも親しみが感じられたかもしれない。

* * * * *

To Whom It May Concern

This poem about ice cream
has nothing to do with government,
with riot, with any political scheame.

It is a poem about ice cream. You see?
About how you might stroll into a shop
and ask: One Strawberry Split. One Mivvi.

What did I tell you? No one will die.
No licking tongues will melt like candle wax.
This is a poem about ice cream. Do not cry.

Andrew Motion


「関係各位」

これはアイスクリームについての詩であって
政府、暴動、その他の政治的活動とは
一切関係がありません。

アイスクリームについての詩なんですよ、いいですか。
お店に立ち寄って、どんなふうに注文するかについての。
「イチゴアイスひとつ」とか「ミッヴィーアイスひとつ」とか。

わたしが何と言ったのかって? 誰も死なないのです。
舐める舌は、ロウソクのロウのようには溶けないのです。
これはアイスクリームについての詩なのです。泣かないように。

アンドルー・モーション


収録された作品のひとつ。アンドルー・モーションは現在の桂冠詩人だが、こういう親しみやすい詩を作っている。タイトルの「To Whom It May Concern」というフレーズは、よく、回覧書類の一番上に書いてあったりする決まり文句(うちの会社の文書にも書いてあったような気がする)。なんでこんなタイトルなの?という疑問は、この詩を読むにあたっては、考えるに値するポイントだろう。あと、七行目の「No one will die. 」という部分。誰だっていつかは死ぬという世の中の事実に反している…ということは、作者はどういうつもりで書いているのか。誰か特定の人々が「死なないだろう」という意味なのか。さらに、この詩は「アイスクリームについての詩」と主張しているわりには、アイスクリームとは縁がない「死」とか、「泣くな」なんてこと書いてある。ということは、「アイスクリームの詩」であるという宣言を素直に捉えない読み方をしてもいいかもしれない。

だから仮に、「You see?」なんて確かめられても反発し、この詩にはno、not、 nothingという語が目立つから、そういうところをひねくれて読んでみると、この詩はアイスクリームとは関係なく、むしろ政府や暴動に関係あるのかもしれない。そして、人間はみないずれ死ぬのであり、言葉(tongues=舌)のみが消え去らずに残り、みんな泣け、と語っているのかもしれない。アイスは甘くておいしいが、すぐに溶け出してしまうもろいもの。甘くも短い、はなかない人生の象徴…だろうか。そういえば、このアンソロジーのタイトルは「Short and Sweet」だ。

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今回のブログの最後には、101編収められたこの詩集の、101番目、つまり一番最後の詩を紹介したい。Don Patersonによる次のような詩。じっくりご鑑賞いただきたい。ちなみに、どんなに目を凝らしても詩のタイトルだけしか見つからないかもしれないが、別に僕がパソコンに入力し忘れたわけではない。

On Going to Meet a Zen Master in the Kyushu Mountains and Not Finding Him





「禅師を尋ねて九州山脈に行き、その彼が見つからなかったとき」