A Diary

本と音楽についてのメモ

ミドルマーチ(1)

2007-05-04 15:12:32 | イギリスの小説
■ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』 (工藤好美・淀川郁子訳、講談社文芸文庫①~④ 1998)
George Eliot Middlemarch (1872)

<きっかけはバーゴンジーから>

マーガレット・ドラブルの処女作『夏の鳥かご』を読んだのはだいぶ前のことなのに、このブログでなかなか紹介できないでいる。紹介するに値する小説だろうとは思うのだけれども、ただあらすじを述べるのではつまらないし、せめて「僕はこういうふうなところが面白いと思いました」みたいなことが書けないと楽しくない。どうしようかなあと思っていたあるとき、バーナード・バーゴンジーの『現代小説の世界』という本を読んでいたら、こんな箇所を発見し、なんだか『夏の鳥かご』についてブログに書けそうな気分になってきたのだった:


マーガレット・ドラブルは彼女の処女作『夏の鳥かご』(1963年)についてこんなふうに述懐した。「あのプロットの多くは、『ミドルマーチ市』(1871-2年)を下敷にしました。二人の姉妹とか、ローマでの蜜月とか、ヒロインがローマで自分は大変な人と結婚してしまったとさとったりするとか、そのようなことですが」 (p.21※1)


二人の姉妹とそれぞれの結婚について…きっとドラブルの『夏の鳥かご』とジョージ・エリオット『ミドルマーチ』の両方を読めば、何か面白いことに気がつくかもしれない。さらに今年になって新しい文庫本が出たジェイン・オースティンの『分別と多感』も、同じように二人の姉妹とそれぞれの結婚を扱うストーリーだから、一緒の機会に読んでもいいだろう…僕は、まあ、こんなふうに思ってしまったわけだ。

『ミドルマーチ』…ジョージ・エリオットの代表作ということぐらいは知っていた。どこかの地方都市を舞台に人々のあれやこれやを描いた小説、僕のわかっていることはこのくらい。文庫本で四冊にもわたる大作だけれども、たまにはこういう小説を楽しんでみるのもいいだろう。ヴァージニア・ウルフはこの作品を「大人のために書かれた数少ないイギリス小説のひとつ(one of the few English novels written for grown-up people ※2)」と評価しているそうだ。僕もまたウルフ女史から認められるような「大人」なのかどうか、ここはひとつ、かなり長い本だけど試してみることにしよう。

* * * * *

<意外とユーモアのある『ミドルマーチ』>

上で紹介した経緯のとおり、『ミドルマーチ』にはまず最初にブルック家の二人の姉妹、ドロシアとシーリアが登場する。二人とも同じような性格でした…ということでは話が進まないので、『夏の鳥かご』や『分別と多感』同様、この二人もまた対照的な性格であるように描き分けられている。いや、対照的、という言葉はふさわしくないかもしれない。長女のドロシアが、とーっても個性的なのだ。では、どういうふうに個性的なのか。


ブルック家の長女には、粗末なよそおいのため一段とひきたって見えるといった美しさがあった。その手や手首の形はまことにみごとなので、イタリアの画家たちが想像した聖処女マリアのよそおいのように、古風で簡素な袖でも着こなせた。またその横顔は、背の高さや身のこなしと相まって、簡素な衣装のためにひときわ品位をますかと思われた。これを田舎風の流行の衣装と並べてみると、あたかも今日この頃の新聞記事のなかに、聖書のすぐれた一句、あるいは、昔の詩人の佳句が引用されているのを見た時のような感銘が与えられた。すば抜けて頭のいい令嬢、というのが世間の評判であるが、それにはいつも、しかし妹のシーリア嬢のほうが常識がある、という但し書きがつけられていた。といっても、シーリアが妹よりも飾りの多い衣服を身につけたというわけではない。仔細に観察眼を働かすひとでなかったら、彼女の着るものが姉のとは違っていることも、着こなしにどこか仇っぽいところのあることも、見のがしてしまったであろう (p.13-4)


長く引用してしまったけど、これが『ミドルマーチ』第一部のまさに冒頭の部分。書き出しが印象的な小説はたくさんあるけど、僕はこの『ミドルマーチ』もまた、とても印象的な始まりかただと思う。なかなか古風で、品位あふれる感じ。この部分で形容されているブルック家の長女のようだ。まだこの部分では読者に名前が紹介されていないけど、この長女のドロシアは、現代的な派手な美しさを持つ女性ではないらしいことがわかる。彼女は「聖書のすぐれた一句、あるいは、昔の詩人の佳句」にたとえられているのだから、きっと古風な人なのだ。聖処女とか聖書とあるので、きっと宗教的な潔癖さを伴う人だということも、ここですでに暗示されている。そして、一番辛辣なところは、妹のシーリアのほうが常識がある、ということはつまり、この姉には非常識なところがある、と示されている部分。どうやら読者はこれからドロシアの非常識に付き合わされることになるらしい点が、もうこの冒頭から読み取れてしまう。

ただ、このドロシアの非常識は、読んでいて面白い。『ミドルマーチ』は、「わっはっは」と大笑いできるような場所はほとんどないと思うが(まだ僕も最後まで読んでいない)、「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべてしまうような、そういう皮肉溢れるユーモアには事欠かない。たとえば、ドロシアは「好き」なんて感情を排した真面目一直な結婚を望んでいるのだが、その場合、「夫が父親のような人で、こちらが望むなら、ヘブライ語でもなんでも教えてくれる人でなければならない」(p.20)らしい。ヘブライ語というところが可笑しい。

こんなドロシアにも結婚の契機が訪れる。近隣に住み、宗教関係の研究に従事するカソーボン氏が彼女に好意をいだく。カソーボン氏は年齢は四十五歳を過ぎ、見た目もあまりよろしくない。妹のシーリアは言う…「カソーボンさんて、ずいぶんみっともない方ね」…でもドロシアには、なんと、彼がジョン・ロックのように偉大で謹厳な人物に見えてしまう。このような姉の気持ちについていけないシーリアは昔イギリスに来る前に、姉妹で勉強していたスイスのローザンヌでも同じようなことがあったことを思い出すのだが、僕はここも笑えた。


この醜悪な学者を崇拝する姉の気持は、これもまた醜い学者、ローザンヌのリレー先生に対する尊敬と同類だとみなしていたのであった。ドロシアはリレー老先生の言うことに飽きもせず耳を傾けたのだが、そんな時のシーリアの足は耐えられないほど冷たくなって、先生の禿頭の地肌がピクピク動くのが、ただもう恐ろしくてたまらなかった (p.94)


禿げた頭皮がピクピク動くというところが可笑しい。ジョージ・エリオットは真面目にあれこれ書いていく中に、こういうことを何気なく混ぜ込んでいる。まあとにかく、禁欲的に学問に励むカソーボン氏について、ドロシアは結婚相手として異論のあろうはずがなく(周囲の人物はみんな反対するが)、二人は結婚していくことになる。カソーボン氏は彼らしい硬い言葉遣いでドロシアにプロポーズするが、これに対する作者エリオットのコメントがまた可笑しい…「その意図においてこれほど誠実な言葉はあり得なかったろう。この最後のかたくるしい修辞も、真心がこもっている点で、犬のほえる声にも、あるいは多情な烏の鳴き声にも劣らなかった」(p.100)…カソーボン氏の愛の言葉は、犬やカラスと同等扱いされている。

第一部の後半になると、ブルック家の近隣に住むカドウォラダー夫人というのが登場するが、これがまた典型的な中年女性キャラクターで、とてもおしゃべり、かつ、おせっかいやき。ドロシアとカソーボンの結婚に自分が関われなかったのが悔しくて、あれこれ反対する。こういうおばさんキャラクターは、面白くないはずがないが、彼女の手にかかると、カソーボン氏の中身は「ひからびた豆ががらがら鳴っているだけ」(p.117)で、彼の体についてはさらに「あの人の血を虫眼鏡で見たら、セミコロンと括弧だけで、ほかには何もなかったんですって」(p.144)などとのたまう。こういうカドウォラダー夫人の、多方面への画策にもかかわらず、結婚は無事に進み、彼らはローマに新婚旅行へと旅立つ。

* * * * *

<別の筋のはじまり>

第一部の最後の二章から、この田舎町ミドルマーチへやってきた若い医師、リドゲイトと、リドゲイトに思いを寄せるようになるロザマンド・ヴィンシー、そして彼女の家族、ヴィンシー一家のことにストーリーが移っていく。僕はてっきり『ミドルマーチ』はブルック家姉妹のことだけをメインに語っていく小説かと思っていたが、どうやら異なるらしい。この辺りから登場人物数がぐっと増えてくる。そしてロザマンドの兄フレッドが、遊び過ぎて借金を密かに作ってしまっているとか、そういうトラブルを予感させつつ第一部は終わる。

次回は第二部以降について。

※1 バーナード・バーゴンジー『現代小説の世界』(鈴木幸夫・紺野耕一訳、研究社1974)
※2 ‘The Common Reader: George Eliot’(The Times Literary Supplement, 20 November 1919)


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2 コメント

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カソーボン氏 (tishka)
2007-05-05 00:19:53
いつも興味深く読ませていただいています。
ジョージ・エリオット『ミドルマーチ』、文庫本になる前から興味を持ちながらまだ手に取ったことがありません。『夏の鳥かご』から『ミドルマーチ』へ。『ミドルマーチ』からドラブルへ、多くの興味がかき立てられます。

ハーディ、スティーヴンソンからエマーソンに至るまで英文学が好きだったというプルーストは、そのなかでもジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』がたいへん好きで、「無意味なばかげた作品のために生涯にわたり働きつづけた」カソーボン氏になみなみならぬ共感を寄せていた、と評伝に書かれています。

まだ見ぬ、カソーボン氏、私もその内手に取ってみたいと思います。つづきが楽しみです。
プルーストも愛読者 (タイセイ)
2007-05-05 22:52:33
「カソーボン氏のモデルは誰なのか」と尋ねられて、ジョージ・エリオットは自分のことを指差した、というエピソードがあるそうです(出典不明…どこかで読みました)。

カソーボン氏というキャラクターの描かれ方は、実はかなり興味深いです。外見もダメ、やっている研究も無意味、せっかくのドロシアという、若くて理想の志高いお嫁さんも大切にできない…ということで悪い面ばかりなのは確かですが、それでも、こういう彼の人間的な弱さに等身大の人間としての親近感を感じたり、結果的に無駄に終わるかもしれない著述に対して、健康を害してまでも真摯に取り組むさまを、彼の善良さの表れと捉えて、前向きに評価することもできます。

次回か次々回のブログで書こうと思っていますが、ジョージ・エリオットの登場人物の描き方は、とても公正・公平なところが印象的なのです。単純な悪役、みたいな登場人物はいないようです(少なくとも、僕が読み進んだところまでは)。

実はtishkaさん、このブログを読んでいらっしゃったのですね…こういう書く行為が、僕の気晴らしなのです。内容については甘く採点してください。今回はコメントまでいただき、嬉しいかぎりです。