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旧玉置家住宅、本要寺、旧小河家別邸

2014-06-03 14:25:14 | 三木市
2014年6月3日、A三木市観光協会(三木市本町2-2-10)前の駐車場に車を止めて、B旧玉置家住宅、C本要寺、D旧小河家別邸と歩きました。

旧玉置家住宅
休館日毎週火曜日、残念ながら休館日でした。開館時間10時~16時
文政9年(1826)に建てられた母屋2棟と土蔵が残っており、当時は、今の紙幣や小切手、商品券にかわる切手札と金銀を交換する切手会所として開設されました。また、有馬や姫路、明石などへの交通の要衝地に位置しています。
三木町は延享4年(1747)から、上州館林(じょうしゅうたてばやし)藩(群馬県)の支配下になり、天保13年(1842)までの約100年間、館林藩の飛び地であった。天明時代(1780年代)に三木の金物が勃興し、やがて金物が繁盛しはじた頃、館林藩では財政破綻の窮地にあり、財政立直し策に金物の商取引を利用し、切手札を発行して金や銀と交換して稼ぐ切手会所の開設を文政6年(1823)に命じ、文政8年まで中町に開設しました。その後、文政9年(1826)に上町の土地を買取り、切手会所として新築移転した建物が、現在の旧玉置家住宅です。国登録有形文化財に指定されています。





本要寺
説明書
本要寺はもともと天台宗の寺でしたが、鎌倉時代に日蓮宗に改宗しました。戦国時代、羽柴秀吉の三木城攻めの時に火災にみまわれましたが、幸運にも本堂のみ戦火を免れました。天正8年(1580)1月三木城が落ちると、秀吉は平井山本陣からこの本要寺の本堂に本陣を移し、当寺を三木町各16か寺院の主席に命じました。また、秀吉は各地に四散していた町民を呼び戻すために三木を免祖地とする制札を建てました。それが三木を金物の町として復興する起爆剤になり、その制札が今も境内の市有宝蔵に保存されています。

山門

本堂







妙見宮

供養塔

稲荷

境内にて













宝蔵
延宝5年(1677)、徳川四代将軍家綱の検地令によって免租の恩典が取り消されようとしました。町民は当時集会所にも使用していた当寺に結集し会合をした結果、平田町大庄屋岡村源兵衛と平山町年寄大西与三右衛門の二人が打ち首覚悟で江戸への直訴を決行しました。老中酒井雅楽頭の屋敷前で断食の座り込みを行い、免租はそのまま、二人は死罪を免れ無事三木の地を踏むことができました。宝永4年(1707)顕彰碑が建てられ、毎年7月18日に義民祭法要が行われています。市有の宝蔵には秀吉の救免制札や古文書を納めています。





旧小河家別邸
開館日は毎週土曜・日曜日10時~16時です。残念、開いていませんでした。
明治末期に別荘として造営されたもので、当時の技術や材料の粋を集めた近代和風建築で、庭は高い技術が施された池泉回遊式庭園として造られています。建物は国登録有形文化財、庭園は国登録記念物に指定されています。





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