サンデル先生
面白かったね
「答え」を生きている
という最後の言葉
には多元的な世界の中で自分や他者にとっての善や正義を考え続けることでしか、(否定的なわけでなく)人類として道徳的に生きていけない人間的な宿命と、
積極的にそうあろうとすることが同時に最も自己を高めそれは個人的な人生における生きる目的そのものと合致するんじゃないか、という自己の中の合意を達するような感覚を与えました(しかし義務ではないし、そういった感覚が行き過ぎると排他的な陶酔になるのは恐ろしい)
しかし、
「答え」を生きる
という生き方は、
必ずしも
そのような生き方を自覚していない大衆の中で
生きていかざるおえない私たちにとって
自己の幸せな感覚が多く得られるとは限らない
だから
友人を必要とする。
同じく
「答え」を生きようとする「友人」が。
そして、その大衆について
今日の議論の
モンテスキューやサンデル先生のコミュニティーを必要する考えを聞いて
おざけんのいう共同体、と、そのこと(大衆も含む)へのおざけんの肯定とが
自分の中で繋がり、
そして
おざけんがあの夜
見せた、その大衆の中で自分のメッセージを発する為の「立ち方」、
その為の、またそれを続けていく為の清らかな心の在り方に
また深く感銘し
再び感動しました。(わたしの世界で)
おざけんのヴォーグの中でのことば
「今も千夜一夜物語りの頃もかわらないのかもしれない。
僕らに見える者は、気の遠くなるような砂漠と視界を
遮る山と大きな空だけ。その中を友達と、話しながら
ゆっくりと進んでゆく、焦らずに笑いながら、水を探しながら」
そして、
朝日のこの正義の本の書評で
「文学の扱いうる領域、幸福と自由と美徳のどの観点からも解せない死角。」
というくだりがあったが、
私が自分の作品を
作るときに掬わかければいけない死角もそこであり、
「芸術」の役割なのだろうと思う。
社会のなかで現に最後にでてきて
問題に結論を与えるかと言えば司法であり、
芸術作品のもつ効用は、さまざまな違和感や問題の正義に対して
実際のところどれほど現実的なのだろうか
これを考える事自体、芸術にとって愚問あるのか
が、その間に立ってしまうのが私の性格みたい
しかし
同時にそういうことに縛られるよりも、
自分の感性を解放する事の方が
重要であったりする
ソクーロフの本のなかで
「ファスト博士」T・マン著という本の引用がある
「芸術、それは精神である!
精神は社会に対し義務を感じる必要は無く、
自己の自由を高潔さのためそれを避けなければならない。
(中略)
例えば国家の利益において、
普通のひとが理解できるような芸術だけを
許容する事は最悪の職人仕事を植え付けて、
精神を殺すことになる。
群衆にとっては野蛮で非常識な行為かもしれないが、
大胆で抑えがたい探究や経験とともに、
それ【芸術】は明らかに人間に一時が経つにつれ
より多くの人々に何らかの間接的な方法で大変奉仕する
と私は確信する。」
考え自分の中で議論することと同じくらい重要なことは、
自分の直観、感性、魂の震える事に
行いを決める精神を重ね、どんな制約からも自由に表現してゆくこと。