昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

忠義とは何ぞや

2021年01月31日 18時26分21秒 | 10 三島由紀夫 『 男一匹 命をかけて 』


つまりぼくの言っている天皇制というのは、幻の南朝に忠勤を励んでいるので、
いまの北朝じゃないと言ったんだ
戦争が終わったと同時に北朝になった
ぼくは幻の南朝に忠義を尽くしているので、幻の南朝とは何ぞやというと、人に言わせれば、
美的天皇制だ
戦前の八紘一宇の天皇制とは違う
それは何かというと、没我の精神で、ぼくにとっては、国家的エゴイズムを掣肘するファクターだ
現在は、個人的エゴイズムの原理で国民全体が動いているときに、
つまり反エゴイズムの代表として皇室はすべきことがあるんじゃないか、という考えですね
そして、皇室はつらいだろうが、自己犠牲の見本を示すべきだ
そのためには、いまの天皇にもっともっとなさることがあるんじゃないか
そして、天皇というのはアンティ(反)なんだよ
いま、われわれの持っている心理にたいするアンティ、われわれの持っている道徳に対するアンティ、
そういったものを天皇は代表してなければならないから、
それがつまりバランスの中心になる力だというんです
国民のエゴイズムがぐっと前に出れば、それを規制する一番の根本ファクターが天皇だね
そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない
そのぼくの考えが既成右翼と違うところだと思うのは、天皇をあらゆる社会構造から抜き取ってしまうんです
抽象化しちゃう考えです
つまりいままでの既成右翼の考えでは、農本主義が崩れたら、天皇は危いですよ
自分が農本主義へ帰って行くことによって天皇に達する、というのはだれでも考えるんですよ
ところが、農地改革が起った後の日本は、昔の日本じゃないです
天皇を支える土地制度というのはないんです
天皇を支える社会制度もなければ、経済制度もなければ何もないんです
そこで、天皇は何ぞや、ということになるんです
ぼくは、工業化はよろしい  都市化、近代化はよろしい、その点はあくまで現実主義です
しかし、これで日本人は満足しているかというと、どこかでフラストレイトしているものがある
その根本が天皇に到達する、という考えなんです
ですから、この一つ一つの線を考えますと、つまり既成右翼的な天皇制というのは、
線の一番はじめのところにあるんです
ぼくは、その線が近代化、都市化、工業化に向ってドンドン進んでいる、
いいよ、いいよ、ドンドンおやり、ゴーゴーも踊るがいい、テレビも見るがいい、
君ながもう自分の家でかまどを使えないなら電子レンジ使うがいい
そうして、ドンドン日本人を進ませる
しかし、ドン尻のところでいつか引き返してくるだろう、というのが天皇制です
天皇はその線の一番手前の端ではなくて、一番向うの端のところにいなければいけないんです
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主として、
そこにいなければならない
それをいまから準備していなければならない
それはアンティゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけれど、
決して古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない
そうすると、農村というものは意味をなさなくなる
その場合でも、天皇は一番極限にいるべきだ、という考えなんです
ですから、近代化の過程のずっと向うに天皇があるという考えですよ
その場合には、つまり天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、
一番反極のところにあるべきだ
そういう意味で、天皇が尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない
その根元にあるのは、とにかく 「お祭」 だ、ということです
天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、----それだけだ
これがぼくの天皇論の概略です

ぼくには非常によくわかるんだ
それが必要だと思うんだけど、その場合に、そうなってくると天皇というのがつらい存在になってくるんです
しかも、生理的には人間ですからね
ある点では、ローマ教皇みたいなことになってくる
「教皇無謬説」というのがあるでしょう   ムビュウセツ
しかし、教皇は事実あやまちを犯してきましたよ  でも、それは地上教会のあやまちだよ
たとえば、ジャンヌ・ダルクを魔女扱いした
その地上教会のあやまちというのは、後世の同じ地上教会がなおすことができる
あるいは地上教会は永遠に間違いしっぱなしになるかもしれない
でも、それは天上教会によって裁かれる、ということがある
しかし、天皇が天上教会なしの地上教会の最高権威とすると、ボロを出すわけに行かない
天上教会のごとく振舞わなければいけない
そこに非常にむづかしさがあるし、ちょっとでもボロを見せれば、
大正天皇が勅語をまるめてのぞいたというと、もういけないんだ
こういうことをやったら大変なことになっちゃう
天皇が絶対にボロを出さずに済むかというと問題ですね
もう一つは、つらい思いをしてやったにしても、日本の民族の国家エゴイズムの抑制力としてはあっても、
他の国家にとっては、何ものでもない、といあことだね  

でも、エリザベスが、亭主が自分の部屋に電話引いたり、テレビつけたり、
ボタンを押すと飛び上がる椅子をつけたりするのに、
エリザベスは、まだ十八世紀のお茶の作法で、
百メートル先から女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる
自分の部屋には電話はない
ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです
日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、
どこかでお茶を十八世紀の作法で飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ

その代り、エリザベス女王は、やっぱりカンベタリー大僧正によって戴冠式を行う
ちゃんと二つに分けてある
ところが、天皇は自分で自分に戴冠しなければならない・

それは、日本の天皇の一番つらいところだよ
同時に神権政治と王権政治が一つのものになっているという形態を守るには、
現代社会で一番人よりつらいことをしなければならない
それを覚悟していただかなければならない、というのがぼくの天皇論だよ
皇太子も覚悟していらっしゃるかどうかを、僕は非常に言いたいことです

いまの皇太子にはむりですよ  天皇も、生物学などやるべきじゃないですよ

やるべきじゃないよ、あんなものは

生物学など下賤の物のやることですよ  政治家がそういうふうにしちゃったんだけど・・・・・・

ただお祭だ

それは大賛成だよ  ただ、それが果して世界性を持つかどうかということですね

ぼくは、世界性を持つと思うね
つまり世界の行く果てには、福祉国家の興廃、社会主義国家の噓しかないとなれば、  ウソ
何がほしいだろう  それはカソリックならカソリックかもしれない
だけど、日本の天皇というのはいいですよ  頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う
それが八紘一宇だと思うんだよ

ずい分あなたは天皇につらい役割を負わすんだね

井上光晴がいつか言ってたけど、「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」 と
ぼくのは苛酷だね

あなたなら耐えられるかもしれない(笑)

おれはネクタイも嫌いで家では裸だけど、絶対そうでない人がなきゃ、われわれは生きられないですよ
ぼくは天皇は苛酷な要求するね
それは、戦争が負けて人間宣言をされたあと、日本国民としては天皇を無視するということは、
ある意味で天皇に対する愛情だったんだよ  非常に個人的な愛情だったんだ
ぼくは、そういう個人的な愛情というものじゃないんだ
どうしても、こうして行かなければならない  それが一番苛酷な忠義だと思う

愛情じゃなくて忠義だね

ぼくは、それが忠義だと思っている
決して忠義というのはオールド・リベラリストがやっているような、
「陛下はいい方です  ニコニコお話をなさって、よく人口問題などまでいろいろ研究なさっていらっしゃる」
というようなものじゃないんだ
ヒューマニズムの忠義じゃないんだ
彼らは、大正文化主義から学んだものを忠義だと思ってゐるんだよ
ぼくが一番に 「二・二六事件」 に共鳴するものはそこですよ
忠義を一番苛酷なものだということを証明しただけで、あの事件はいいです
あとのオールド・リベラリストが何をしようが、有馬頼義が出てきてどんなことを書こうが、
そんなことは構わない
忠義は苛酷なものですよ
それはテロリズムだけじゃないだろうけど、精神の問題ですよ
しかし、天皇も皇太子も、結局 「二・二六」 の本質は理解できないんじゃないか
そういう忠義の本質は理解おできになれないという・・・・・・

片想いですね  忠義というものはそういうものだ

それは 『葉隠』 にもはっきり書いてあるね  実に片想いです
片想いほど、惚れられて厄介なものはないんだ  自分が知らないうちに殺されちゃうかもしれない(笑)

忠義は相手の気持ちをわかる必要はないよ
臣下として、相手の気持ちを予測したというのは、逆に不忠だよ
握り飯の熱いのを握って、天皇陛下にむりやり差上げるのが、忠義だと思うんだ

召しあがらなかったらどうする

おわかりでしょう(笑)  でも、ぼくは、君主というものの悲劇はそれだと思う
覚悟しない君主というのは君主じゃないと思う
前にも、皇太子の結婚式のときに、石を投げたやつがいる
あのときの皇太子の顔というのをテレビで見たわけだ
つまり王侯が人間的表情を見せるのは、恐怖の瞬間だけで、王侯というものの持っている悲劇を見たね
だけど、しかたのないことでしょう
でも、福田さんだけはわかって下さると思うんだけど、私の考えはファナティシズムから出たんじゃない
現実主義から出て、つまり表現が、比喩がファナティックになるだけで、
決してファナティシズムから栄養はとっていないつもりだな

ぼくはそれはわかるね  あなたのは美学だよ
あなたの場合はそうであっても、伝染すればファナティシズムになるでしょう
そうなると、あなた自身が天皇のつらさを味わはされなきゃならない

おれは、握り飯を食わしちゃうほうだから・・・・・・

だけど、エピゴーネンから握り飯を食わされちゃうからね(笑)

吐きだしてるか

吐き出しちゃ、天皇になれないよ(笑)  だけど、ある意味で、ある思想のリーダーになったり、
政治運動のリーダーになったりしたら、握り飯を食わなきゃだめですよ

それは 「城山の西郷」 だよ  しかたがないですよ
この覚悟が自分じゃついているつもりで、人間というのは実にあやしいものだ
しかし、つくのは最後の五秒間だと思うんだ
ふだんから、「おれは覚悟がある」 と言ったってだめだよ
最後の五秒か十秒の間に勝負がきまる

ふだんの覚悟ならくだらないもので、だれだってできているよ
いつ死んでもいい、殺されてもいいなんてのは・・・・・・  だけど、その場合になると、恐怖を感じてとり乱すよ
そのあとでマナイタの上で平然とできるか、できないかの問題だよ

それで人間がきまる
だから、ふだんから覚悟があるって言っているのは、ちょっとにせものくさい

おおせのとおりだ

(昭和四十二年十一月)・・・若きサムライのために から


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