今だから…昭和さ ある男のぼやき

主に昭和の流行歌のことについてぼやくブログです。時折映画/書籍にも触れます。

昭和の名歌手たち・霧島昇(きりしま・のぼる)

2006-12-04 23:59:46 | 昭和の名歌手たち

♪花も嵐も踏み越えて~行くが男の生きる道~
もはや格言の粋にすら達しているこのフレーズ。
映画『愛染かつら』主題歌「旅の夜風」、これを歌ったのが、今回取り上げる霧島昇であります。

この方は、今では知名度は今ひとつですが、戦前~戦中~戦後と沢山のヒット曲をかっ飛ばし、昭和40年代ナツメロブームでも大活躍した大物中の大物。
その割には、ネットでは不人気、一般知名度の今ひとつ。
私自身も、さほど好きでも無いのですが、昭和歌謡史に欠くことの出来ない歌手。
ぜひとも一度は聴いて頂きたいものです。


食いだおれ人形
霧島昇(1914~1984)
本名:坂本栄吾(英明説もあり)
福島県出身。
小学校卒業後、拳闘選手(ボクサー)になることを夢見て上京。やがて歌手を志すようになり、苦学して東洋音楽学校を卒業。
アルバイトで、エディソンレコードに坂本英夫名義で吹き込んだ「僕の思い出」がコロムビア関係者の耳に留まり、コロムビア入社へ。
東海林太郎の対抗馬として、昭和11年、霧島昇としてデビュー。翌年「赤城しぐれ」がヒットし、名を上げる。
昭和13年、松竹映画『愛染かつら』主題歌である「旅の夜風」が空前の大ヒット。
昭和14年、この唄を共に歌ったミス・コロムビア(松原操)と結婚、四児をもうける。同年は「一杯のコーヒーから」「純情二重奏」もヒット。
昭和15年、映画主題歌である「新妻鏡」「目ン無い千鳥」「蘇州夜曲」に「誰か故郷を思わざる」がヒット。
昭和18年、戦時歌謡の代表作「若鷲の歌」がヒット。
戦後も、並木路子と共に「リンゴの唄」を歌いヒットさせたのを皮切りに、「夢去りぬ」
「三百六十五夜」「サム・サンデー・モーニング」「胸の振子」「白虎隊」などをヒットさせ健在振りを示した。
紅白歌合戦には、第2回(昭和27年)から第9回(昭和33年)まで通算5回出場。
昭和45年には紫綬褒章受賞。没後勲四等旭日章を追贈。
昭和59年4月24日没、69歳。

ちなみに私がおススメする曲は…

誰か故郷を思わざる
ナツメロ・スタンダードで、基本中の基本。
この曲は作曲した古賀政男が、外務省の音楽親善大使としてアメリカへ一年ほど行って、帰ってきて、すぐ手がけたもの。南米民俗音楽の影響、異国での生活時の望郷の念などがこもっている、と古賀は後に語っています。
また、西條八十の詩も、古賀自身の少年時の光景/心境そのもので驚いたとか。
また、この曲は完成してから吹き込むまで実に10日間しか無かったという話も。
曲を視聴したコロムビア関係者の判断で、製作したレコードは殆ど戦地への慰問レコードとして送り、それが軍歌に飽いていた兵士の心の琴線に触れ、大流行。
大陸へ慰問した歌手が、そこで覚え、帰国後ステージで披露…という逆輸入のかたちで国内でもやがて流行したそうです。
渡辺はま子の話では、戦地でこの曲を歌っていると、最前列で聴いていた畑俊六(大将)が目頭を押さえ涙を拭っているのを見て、途中で貰い泣きしてしまい声が続かなくってしまうと、集まっていた兵士も皆それにつられ、泣き始めてしまったそうです。

旅の夜風
これもナツメロ・スタンダードで、基本中の基本とも言える曲。
♪肌に夜風が沁みるとも 男柳がなに泣くものか
という部分を、♪肌に夜風が沁み渡る と霧島が歌ってしまったことも有名。
戦後も、映画共々リメイク。

胸の振子
服部メロディーの名作として、様々な歌手によってリメイクされている、いわば「発掘された」曲。当時は中ヒットくらいだったらしい。
ただ、とても美しいメロディーであることから、知る人ぞ知る名作として愛好され、昭和46年発売の雪村いづみ&キャラメル・ママ「スーパージェネレーション」でも取り上げられたことで、さらに知名度は上がった。
新たなるスタンダードナンバーと、今は言えるのかも。
本家・霧島バージョンは、他のどのカバーに及ばぬと私は思う。
ぜひとも一度は聴いて欲しい1曲。

白虎隊
昭和12年に島田磬也作詞、古賀政男作曲、藤山一郎唄で、テイチクから発売。
当時は売れずも、会津地方では愛好され、戦後会津側からの要望で、(古賀がいた)コロムビアから岡本敦郎で吹き込みの予定が、スケジュールの関係からか、霧島にお鉢が回る。昭和27年・30年・35年、と3度発売。霧島のスマッシュヒット。
詩吟は佐々木神風。

三百六十五夜
昭和23年封切の同名映画主題歌。
ミス・コロムビア(松原操)は、この曲を最後に引退し、育児に専念することに。
この引退には諸説あって、子供の教育が公式な理由となっているが、実はヒロポン中毒で声が出なくなってしまったからでは?、という説も存在する。
霧島・松原、共に酷いヒロポン中毒であったことから出た説である。

若鷲の歌
♪若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨
古関裕而による戦時歌謡の大傑作。
霧島がこの曲をステージで歌っていたときに、赤紙が着て、会場中この曲の大合唱で送ったというエピソードが存在する。

高原の月
戦時中の異国風叙情歌謡の傑作。
仁木他喜雄による美しいメロディーに、西條八十の美しい詩、そして二葉あき子・霧島昇の歌声。
もっと評価されても良い1曲。

蘇州夜曲
異国情緒たっぷりの服部メロディーの代表格。今も様々な歌手にカバーされ、CMでもよく使われていたりする。
渡辺はま子とのデュエット曲であったこの曲も、ナツメロ番組では、渡辺はま子が披露し、霧島が歌う機会は殆ど無かった。
霧島がステレオで再録音をした音源、これがなかなか素晴らしい出来で驚く。
機会があれば、この霧島ソロ・バージョンもお聴き頂きたいもの。

一杯のコーヒーから
作詞の藤浦洸は珈琲党、作曲の服部良一はビール党で、「一杯のコーヒーから」か「一杯のビールから」で、対立したとか。
そのせいか、♪一杯のコーヒーから の部分、♪一杯のビールから の方がすんなり歌える。
ミス・コロムビア(松原操)とのデュエット。
後年、ナツメロ番組では霧島ひとりスタジオで歌っていたが、正直何とも言いがたいものがあった。やはりこの曲は女性歌手とのデュエットの方が良いかと…。

そよかぜ
「リンゴの唄」B面。
霧島はこの曲に惚れ込んでいたそうで、何度も吹き込み直している。
この曲をメインで歌いたいがために、「リンゴの唄」を並木路子に譲ったという話が伝わっている。
並木がソロで吹き込み直したのは昭和も終わりに近づき、霧島没後の昭和62年頃である。
美しいタンゴの佳作。

愛染かつら愛用

地味ながらも、ヒット曲の多さでは東海林・藤山と肩を並べるほどな霧島センセですが、なぜか冷遇状態…。
主に戦後ですが、洒落た曲も案外多いですし、再評価が待たれます。

最後に…
霧島センセといえば、●ラ、屈伸しながらの歌唱、これらと共にに語られるのが、△空×ばりも真っ青の衣装センス。
これは実は、愛妻・松原操(ミス・コロムビア)のお見立てによるもの。
「あなたは地味なんだから、衣装くらいは…」という考えからだったとか。
霧島本人は結構恥ずかしかったらしいです。


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2 コメント

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霧島のぼる (もも)
2017-05-08 14:02:32
霧島さんの知名度低いなんて あなたが知らなすぎるのでしょう
よほど若いですね 愛染かつら その他 bs日本の歌 歌コンで皆カバーしてるじゃないですか 今演歌歌手は年寄りばかり あの当時の歌手は次々と歌手が出てきては消えて行きました 今の歌手はカバーしても持ち歌歌手にはおよびません
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Unknown (スカイハイ555)
2019-11-12 20:48:06
霧島さんの衣装Σ(´∀`;)もんのすごかったですねっ( ´∀`)そういう訳ですか。『サム・サンデー・モーニング』も良いですよ。衣装と言えば、伊藤久男さんが時々、パジャマ?みたいな、スーツとは似ても似つかないものを着てはりましたね。
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