武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

133. マテ貝雑炊とアボカド Arros de Linguerão e Abacate

2016-01-31 | 独言(ひとりごと)

 アルガルヴェ地方、オーリャオンの名物料理にはアロス・デ・リンゲラォン(マテ貝の雑炊)と言うのがあって、美味しいので時々は食べに訪れる。何軒かのお店で食べてみたが何処も同じ様なもので変わりはないが、最近はメルカド通りから裏通りに引っ込んだ店に行くようになっている。ご主人がウエイターで奥さんが調理をしていて、2人だけでやっているが店内に20席、表のテラスに3席があり結構広い店だ。

 

オーリャオンの名物料理「マテ貝雑炊」

 最初訪れた時に2人前を注文しようとすると「多いので食べきれないよ、1人前にしておきなさい。」などと言ってくれて、正直で親切な店だな。と感心して、それからその店がお気に入りになったのだ。マテ貝の雑炊を1人前にするかわりに、前菜として、コンキーリャというサクラ貝の様な小さな二枚貝のニンニク炒めも1人前取った。それが又旨くて、その店ではその注文が定番になってしまった。

 

「コンキーリャのニンニク炒め」

 土鍋に入ってぐつぐつ煮立っているマテ貝の雑炊は成る程1人前でもマテ貝がたっぷり入っていて2人でお腹が一杯になってしまう。これで2人前も取れば大変だ。マテ貝は身だけにしてあり、味付けは絶品だ。

 先日、久しぶりに訪れた。注文は定番であるが、その時期、コンキーリャはなくて、と言うのはご主人曰く「この時期、コンキーリャには貝毒がある」とのことで、アサリに代ったがそれも旨かった。美味しくて正直な店なのにお客は全く居ない。残念ながら今回も前回も、遅い目のお昼だったが、我々2人だけである。以前には数組は入っていたのに、やはり裏通りというハンディがあるのだろうか。

 いつもは裏通りの露地に設置されたテラス席で食べるのだが、冬だしテラス席は陰になっているので寒いと思って店の中で食べた。

 店の表にはいつも小型の可愛らしい犬がいて、通りがかりの人などからも声をかけられたりして可愛がられている。

 

黒、白、茶色、3色の「ミケ」

 名前は「ミケ」と言うのだそうだ。ご主人に言わせると「白、黒、茶色の3色だから。でも意味は判らない」と言っているが、それでは日本語の「三毛」ではないか。多分日本人が名前を付けたのだろう。

 店の中で食べていると、入り口でひと声ミケに声をかけて、大きな布袋を肩に担いだ男が勢い良く入ってきて、真っ直ぐ調理場の方へ向った。調理場の前にいたご主人に何やら買ってくれと言って、布袋の中身を見せている。ご主人はちらっと覗き込んでにべもなく「いらない」と言った。男はやっぱり駄目か、といった表情を浮べすごすごと帰りかけたが、思い止まり我々の席に来て「買ってくれないか。1キロ1ユーロだけど。」と言って布袋の中身を見せた。中味は緑色の小さなアボカドである。未だ硬くてすぐには食べられそうにない。いや、永遠に食べられないかも知れない。でもアルガルヴェ地方はさすが暖かく、アボカドも実が生るのだ。

 アボカドは我家では昔から良く食べる。昔は日本ではあまり見かけなかった。僕たちが初めてアボカドを口にしたのは1976年頃、南米、ボリビアであったと思う。大きな真っ黒いアボカドを旅行中、良く買って食べた。ボリビアの塩を振りかけてスプーンですくって食べた。熟れたアボカドは本当に旨い。ワサビと醤油があればもっと旨い。日本のスーパーでもその後、売られているが未だ硬く熟れていないものが多い。熟れてから食べよう。などと思っていると、うっかり腐らせてしまうこともあり、食べ頃を見極めるのも難しい。

 アボカドには大きな種があり、立派なので捨てるには惜しい。宮崎に住んで居る時には何度か植木鉢に埋めておいたことがあるが立派な観葉植物になる。そう言えばバリ島の安宿でも食べて、その種を部屋の前の植え込みに埋めておいた。今頃は立派な木に成長して果実も実っているかも知れない。

 アボカドの種は水溶性植物繊維が豊富だそうで、お茶にして飲むと良いらしい。それ程硬くはなく、ジャガイモより少し硬いくらいだから、普通の菜切り包丁でも切れる。1個の種を1cmの厚さにスライスし、1リッターの水に30分ほど水から煮出す、飲む。それだけ。少し青臭く感じる人は蜂蜜でも垂らすと良いかも知れない。

 ところでその店に入ってきたアボカド売りであるが、ただ、いらないと帰すのは気の毒な気がして、1キロだけ買うことにした。「5個で1キロだけど、1個おまけ」と言って6個をくれた。店の主人も「3日くらい置いとくと、美味しくなるかもね~」などと無責任に言う。まあ、1ユーロだから食べられなくてもたかが知れている。

 

窓辺に置いた未だ硬くて緑いアボカド

 そして家に持って帰って陽のあたる台所の窓際に置いておいた。それから10日が過ぎようとしている。1個の皮が黒ずんできた。硬くても薄くスライスしてサラダに混ぜればいいかな。と思って皮をむき始めると、なんと丁度良い柔らかさになっている。サラダに混ぜるのは勿体ないと思い、急きょワサビを練り刺身で食べた。絶品である。

程よく熟れて半分に割ったアボカド

 その後、1個づつ序々に黒ずんで全て食べ頃に美味しく頂くことができた。何と安い買物をしたものだ。

 

未だ緑いアボカドと黒くなって食べ頃のアボカド

 アボカドは森のバターとも言われ、世界一栄養価の高い果実としてギネスブックにも登録されているそうだ。

 アボカドはクスノキ科、ワニナシ属、メキシコと中央アメリカ原産の常緑高木、

 学名:Persea americana、英名:Avocado、Alligator Pear、葡名:Abacate、和名:ワニナシ(鰐梨)

 和名の鰐梨などと呼ぶ人は最早いないと思う。英名の直訳だが、皮の表面が鰐皮に似ていて、洋ナシの形だから鰐梨(ワニナシ)。判りやすい。アボカドには3系統、1000品種もあるらしい。

 

 我家から歩いて5分程のところにある個人の住宅。熱帯の植物が幾つか植えられていて、前庭に以前にはアボカドが実っていた。今(2016年1月31日)はパパイヤの大木が沢山の実をつけている。VIT

 

武本比登志ブログ・エッセイもくじ へ   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

132. 1990 年 9 月 19 日、水曜日から 25 年

2016-01-01 | 独言(ひとりごと)

 セトゥーバルに住んで25年が過ぎた。25年というとやはり長い年月だ。オギャ~と生れた赤ん坊が成人し、もう既に子供を生んで母親となっているかも知れない。そう考えると長い年月だが僕にとってはあっと言う間の歳月であった。他人から見れば僕も随分歳を取ってしまった筈だ。

 でもやって来たその当時のことはつい先日のことの様に覚えている。1990年の9月19日、水曜日、快晴、安宿からの夕陽と赤瓦の屋根が美しく早く絵を描きたいと思ったものだ。

 振り返ってみると世の中も随分と代ってしまった様に思う。四半世紀をこのセトゥーバルで暮らしたのだから代って当然には違いない。荒地で野草の花を摘んだりしていたところに10階建てのビルがどんどん建ち、すっかり街になってしまった。そして既に色褪せている。

 1990年と言うと昭和から平成に代ったばかりの平成2年。ロシアは未だソ連と言っていた時代でゴルバチョフ大統領がノーベル平和賞を受賞した。鉄の女と言われたイギリスのサッチャー首相が11年の長期政権に終止符を打った年でもある。サラ・ボーン、アート・ブレイキー、グレタ・ガルボが死去。奥村土牛も101歳で亡くなられた。日本ではバブル崩壊の年とも言われている。

 その後、様々なことがあった。湾岸戦争、地下鉄サリン事件、9,11ツインタワーテロ、阪神淡路大震災、インドネシア大津波、東北大震災、ポルトガルの通貨はエスクードからユーロに替わり、ヨーロッパの国境も無くなってしまった。香港もマカオも返還され、ダイアナ妃がパリで事故?死という事件もあった。オリンピックも何処で何回あったかも忘れてしまった。

 1990年9月16日、成田で1泊、9月17日成田発アエロフロート機でモスクワで1泊経由してリスボン空港に降り立ったのが1990年9月19日。その前前年にバリ島で買った水牛皮のトランク一つを携えてやってきたのだ。それ以前に2度、1ヶ月づつのポルトガル旅行には来ていたものの、殆ど何の手がかりもなく、一人の知り合いもなく移住を決意してやって来た。

 同じ飛行機に乗ってきた個人旅行の日本人2人と4人でタクシーを乗り合わせ同じ安宿に向った。危うくタクシーにぼられるところであった。いや少しはぼられたかも知れない。

 リベルダーデ大通りから西側に少し入った警察の隣の安宿にトランクを置き、すぐに部屋探しを開始した。

 それまでは13年間、宮崎で山の中に住んでいたものだから次は是非とも港町に住みたいと思っていたのでリスボン周辺の港町を重点的に探そうと思っていた。

 テージョ川を渡った対岸、セトゥーバルが大都市ではなく程々の中都市で何でも揃っていそうだし、リゾートっぽくはなく生活臭がし活気もあるし、何となく肌に合ってそこを第一候補と考えていたが、その通りになった。

 当初は不動産屋が何処にあるかも判らず、今の様に『売ります、貸します』の張り紙も見当たらず、かなり苦心をした記憶はあるが、確か3日目には最初に2年ほど住んだセトゥーバルの下町アロンシェス・ジュンクエイロ通りの部屋が見つかり、リスボンの安宿から移り住んだ。

 セトゥーバルのバスターミナルに降り立ち、トランクがあるものだから、タクシーで行こうと思ったのだが、タクシーの運転手から「すぐそこだから歩きなさい」と言われてしまった。

 そしてセトゥーバルの生活がスタートした。家具付きで一応の物は揃っていたが、クルマもなく、電話もなく、勿論、パソコンもなく、テレビは映りの悪い白黒で、洗濯もバスタブでした。古い良く冷える冷蔵庫だけはあった。そして毎日メルカドに買物に出かけた。アーチ型の窓枠の塗料は剥がれ落ち、でも天井は日本の家屋の倍程も高かった。部屋は広場に面していたが、北向きで冬になればかなり冷え込んだ。が、そんな生活が気に入っていた。

 当初は5年ほど住めれば良いかな?と考えていた。

 僕は絵を描くためにやって来た。それまでに2度1ヶ月ずつの旅行で訪れた時もスケッチを目的で旅行した。一度は油彩の道具も携えて来て油彩も描いた。

 20歳代の時にストックホルムで4年余りを過した。アルバイトをしながら必死でスウェーデン語を勉強した。ある程度ははかどったのだろう。そして勉強をすることが面白くもあった。でもスウェーデンから離れると役には立たなかったし、忘れる一方で、あの時の勉強は何だったのだろう?などと思ってしまった。あれが英語圏かフランス語圏、或いはスペイン語圏だったら少しは違ったかも知れない。でも勉強をすることに意義はあったのだろうと思うが、他のことは何にも出来なかった。例えば絵を描くことである。

 ポルトガルには絵を描くためにやってきた。そしてそれは出来ているのだろうと思う。スウェーデン語での経験があるのでポルトガルでははなから語学の勉強はやる気はなかった。その分、絵は描いた。納得のゆく絵が描けたかと問われれば、それは否である。しかし、納得の出来る時間を絵と共に過せたのは確かだと思う。モティーフを求めて随分と旅もした。でも25年も住んで、荷物は思いっきり増えてしまった。セトゥーバルでの生活も10年目あたりを境にかなり変わってきた。クルマを買ったし、パソコンを使うようになった。白物家電も既に何代目かを使っている。トランク一つでやってきた荷物は膨大に膨れ上がり、恐らくトラック何台か分になっている。

 そしてポルトガル語は未だに皆目なのである。

 最近は覚えることよりも忘れることの方が多い。五年ほど前だったか、セトゥーバル市主催で無料の6ヶ月コース、ポルトガル語教室に無欠席で通って修了証書を頂いたがたちまち忘れてしまった。まして毎年3ヶ月程を展覧会のため日本で過す。日本からポルトガルに戻ってきた時など、以前には覚えていた単語などもなかなか出てこない。ハリウッド俳優の名前、ジャズメンの名前、花の名前が出てこないのと同様だ。そして英語も昔はもう少し喋れていた筈だがそれもおぼつかなくなって来ている。そろそろ呆けが始まったか?でも絵の具の名前はクリムソン・レーキ、プルシャン・ブルー、バーント・アンバー、イエロー・オーカーなどとすらすらと出てくるので今のところ大丈夫だと思う。

 先日、アルガルベの宿の主人から「英語がいいか、ポルトガル語がいいか」と聞かれて「英語の方がいい」と応えると「ポルトガルに何年住んでいる」と問われたが「いや~、長い」と言葉を濁らさざるを得なかった。「何故、ポルトガル語を喋らない。日本語に比べると、簡単な言葉だ。」と流暢な英語で皮肉たっぷりに言われてしまった。その宿の主人もかつてアメリカで暮らした経験があるそうだが、英語の他にフランス語もスペイン語も喋れる。ポルトガル人には言葉が堪能な人が多く、何ヶ国語も操る人もいる。日本語でも勉強すればすぐに喋ってしまうだろう。そしてすぐに社会に溶け込んでいく。

 確か堀田善衛の本の中でであったか『周りの雑音が聞こえ始めたら、引き揚げ時』と言う文章があった。日本人同士の夫婦の場合、せいぜい5年から長くても10年程で雑音が聞こえ始めるのであろう、帰国する人が多い。日本人同士の夫婦でも子供がその国で成人した場合などは別であると思う。勿論、外国人との夫婦でも別である。

 僕には幸か不幸かノー天気なのか、未だに雑音は聞こえてこない。VIT

 

武本比登志ブログ・エッセイもくじ へ   

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする