旧東海道を歩く・・・藤川から赤坂へ
2017年5月28日
金山751 0817東岡崎 (快速特急豊橋行き)
東岡崎0819 0830藤川 (普通伊那行き)
藤川で下車。
旧東海道に入ります。
膝栗毛の弥次さんは詠う
ゆでだこの 足をとどめる 軒ごとに
ぶらりとさがる ふじかわの宿
(註:茹でるとタコは紫になります。ここは蒲郡に近く、タコも水揚げされて、東海道に運ばれ、茹でて軒先に下げられたのでしょう。一方、藤は棚から美しい姿を見せます。)
足は快調に進みます。名電山中を過ぎ、左手に人間環境大学が山の上に姿をあらわす。
いつの間にか、緩い丘陵地帯に入りました。名電長澤を過ぎると、幹線の国道一号線です。向こうから旅人が近づきます。
内気な平成の弥次さん北さんは声は掛けませんでしたが、軽く会釈ぐらい致します。
暑くなり、腹もへりました。
ようやく先に集落が現れました。本宿です。
本宿の駅から東へ五丁(約500m)程行くと、「法蔵寺」です。
幼い家康が住職より手習や漢籍を学びました。
三方ヶ原の戦いで戦死した人の墓があります。
江戸時代、境内には東照宮がまつられ、街道を参勤する大名は必ず立ち寄りました。
寺には幕末活躍した近藤勇の首塚があります。
近藤 勇は1968年(慶応4年)江戸で処刑され、京都でさらし首になります。
しかし、新選組の同志たちはひそかに近藤の首を、敬慕していた京都誓願寺住職の元に運びます。
住職の名は称空(しょうくう)と言います。称空はこの年の半年前から法蔵寺の住職でもありましたので、この寺に持ち込まれ供養されるという経緯があります。
還暦過ぎの拙者は思います。幕末の活躍した人は短くても太い人生ですね。
旧街道に戻ります。
手ごろな食べ物の店がありません。
赤坂の宿に入りました。
(拙者) 「この次に見たお店に入りましょう」
(こもよ氏) 「マクドでも、天皇御用達の店でも入りましょう」
(拙者) 「了解! 了解!」
暫く歩くと、マクドでも御用達でもない 鰻の店が現れました。
鰻をたべると、歩く元気がなくなりました。さらに店のおばさんから貴重な情報得ました。
(おばさん) 「(赤坂の)大橋屋さんは、一日限定の公開を6月18日にしますよ」
(拙者) 「楽しみですね」
(こもよ氏) 「予定を変更して来たいですね」
(拙者) 「これで次回の旅は決まり!」
おばちゃんの顔には
「これはラッキーな二人組だよ。うな丼は食べてくれるし、来月またこの赤坂に来てくれる。市の観光課にこの成功例を報告できますよ。今日はいい日だ。いい日だ。」
ここは赤坂紅里の平成の飯盛り女、うなぎ屋のおばちゃんの店である。
(次回へ続く)
(参考:愛知県の歴史散歩 愛知県高等学校郷土史研究会編 山川出版社)
あのうなぎ屋さんには、救われましたね。
大橋屋公開の情報も手に入れることができたし、
ラッキーでしたね!
過去の記事のアップで忙しいですが、いずれ負けない記事を書きたいと思います。
膝栗毛を読んで、参考にして、書いています。フィクションを少し混ぜて、書いていますが、なかなか難しいです。
次の飯盛り女の話(追記含む)も読んでください。