ども、ご無沙汰してます。
さて、最近色んなところで聞くのが「空気読めない(KY)」という言葉。ネットなんかでもよく「空気嫁(空気読め)」なんてのを目にするし、先日も、ぼぞぎがずご(仮名・自称占い師)が「空気の読めない女はだめよ」とか何とか、エッラソーにゆってました。
インチキ占い師の言うことなんぞに同意するのはシャクなのだけれど、確かに「空気を読む」と言うのは大事なことだと、自分も思う。「空気を読む」とはすなわち、周りに気を遣うこと、人の気持ちを思いやること、会話や雰囲気、その場の状況を良い方向に持っていってコミュニケーションを円滑に、和やかにすること。そういうことが上手に出来る人を見ると素直に尊敬するし、逆に空気が読めずに浮いた言動をしている人を見ると、場合によっては「イラッ」とすることもある。
でもさ。
最近の、やたらと「空気読め」という風潮も、それはそれで何だか息苦しい。確かに気配りって大事だけどさ、そればっかしに腐心するってのは、「周りの人を思いやる」というより「自分一人だけ周囲から浮いてしまう(孤立してしまう)」ことを恐れていることの反映じゃないだろうか、とも思えるのだ。
それにさ、「空気を読む」と簡単に言うけど、そういうのってある程度経験積まないと身につかないんだよね。だからたいていの人は若い頃に「空気を読ま(め)ずに」失敗した経験があると思う(え?そんな失敗したことは一度もない?素晴らしい!そんなあなたはこの文章をこれ以上読む必要はありません)。
でも、それでいーじゃん。そうやって失敗こいて恥かいたり気まずい思いをして、人は学んでいくのだから。それを、若い頃からやたらと空気読め空気読めと言われたら、逆に萎縮しちゃって、「失敗」という貴重な体験ができなくなっちゃうんじゃないの?と(余計なお節介かもしんないけど)思ったりもする。
それに、これは暴論・極論かもしれないけれど、かつて日本が無茶な戦争に突入し、しかも「もう勝てないだろ」というのがハッキリしてもそれを口に出すことができず、二発もの原子爆弾を落とされてやっと「敗け」を認めた、というのは、当時の日本人の多くが「周りの空気を読みすぎた(空気に流された)」からじゃないのか、なんてことをちょっと思ったりする(これは最近読んだ佐藤忠男の「草の根の軍国主義」という本を読んだ影響もあるかもしれないのだけれど)。
さて。
映画の登場人物で「空気を読まない人」というと「男はつらいよ」の寅さんを置いて他にないのじゃないか、と思う(「釣りバカ日誌」のハマちゃんもかなりイイ線行ってるけど、やはり先輩の寅さんにはなかなか及ばない)。
自分は「男はつらいよ」は数作しか観ていないけれど、まぁ~どの作品でも寅さんの「空気の読まなさ」は過激なくらい破壊的だ。あれ、映画の中の話だから良いけど、現実にあんな人が身近にいたらかな~り迷惑だよなァ。
そういえば、渥美清が亡くなってもう十年以上も経ったんだっけ。もしこの21世紀の日本に寅さんが現れたら、どんな感じなんだろうと、ふと夢想する。
「はぁ?けーわいだぁ?空気読めないだぁ?お前さん、バカ言ってんじゃないよ。その~、何だ、KYだかYKKだか知らねェけどよぉ、そんな気ぃ遣って言いたいことも言えない、やりたいこともできねェなんて、息が詰まっちゃうじゃねェか、だろ?大体空気ってのはなぁ、読むモンじゃねえ、吸ったり吐いたりするもんだ。ガッコでそう習ったろうが?おじさんガッコなんてろくすっぽ行ってねぇけどよォ、そんくれぇは知ってますよ?それが、教養ってモンだろうが?ええ?
だからよ、そんな~細けぇこといちいち気にしねェでよ、まずは深呼吸してみろ、深呼吸!ハイ、息を吸ってぇ~、吐いてぇ~、また吸ってぇ~、吐いてぇ~・・・な?空気は読むモンじゃねえ、吸ったり吐いたりするモンだってことが、分かったかい?青年!」
う~ん、書いてるうちに楽しくなってきた。このまま寅さんの新作のシナリオをぶわぁ~っと書いてみたい気がするけど、それは置いといて。
つまり、何が言いたいのかというと、確かに空気を読むってことは大事なんだけど、一方で、空気を読まない人、読めない人、違う言い方をすると「王様は裸だ!」と言わずにいられなかったり、考え方や感じ方が大多数と違う人、自分の中の「言いたいコト」が押さえ切れなくて、若干トンチンカンなことをしたり言ったりしちゃう人、そういう人を許容するおおらかさ、寛容さ、余裕っつーのも、大事だと思うのよ。そうだろ、青年!
あ、寅さん口調がうつっちゃった^^;
※そういえば、↑のぼぞぎがずご(仮)の番組には前田吟がゲストに出ていて「ドラマや映画では空気を読まない人がいた方が面白くなるんですよ」と言っていた。前田吟もきっと寅さんのことを思い浮かべてたんだろうな~と思うとちょっと嬉しくなった。
さて、最近色んなところで聞くのが「空気読めない(KY)」という言葉。ネットなんかでもよく「空気嫁(空気読め)」なんてのを目にするし、先日も、ぼぞぎがずご(仮名・自称占い師)が「空気の読めない女はだめよ」とか何とか、エッラソーにゆってました。
インチキ占い師の言うことなんぞに同意するのはシャクなのだけれど、確かに「空気を読む」と言うのは大事なことだと、自分も思う。「空気を読む」とはすなわち、周りに気を遣うこと、人の気持ちを思いやること、会話や雰囲気、その場の状況を良い方向に持っていってコミュニケーションを円滑に、和やかにすること。そういうことが上手に出来る人を見ると素直に尊敬するし、逆に空気が読めずに浮いた言動をしている人を見ると、場合によっては「イラッ」とすることもある。
でもさ。
最近の、やたらと「空気読め」という風潮も、それはそれで何だか息苦しい。確かに気配りって大事だけどさ、そればっかしに腐心するってのは、「周りの人を思いやる」というより「自分一人だけ周囲から浮いてしまう(孤立してしまう)」ことを恐れていることの反映じゃないだろうか、とも思えるのだ。
それにさ、「空気を読む」と簡単に言うけど、そういうのってある程度経験積まないと身につかないんだよね。だからたいていの人は若い頃に「空気を読ま(め)ずに」失敗した経験があると思う(え?そんな失敗したことは一度もない?素晴らしい!そんなあなたはこの文章をこれ以上読む必要はありません)。
でも、それでいーじゃん。そうやって失敗こいて恥かいたり気まずい思いをして、人は学んでいくのだから。それを、若い頃からやたらと空気読め空気読めと言われたら、逆に萎縮しちゃって、「失敗」という貴重な体験ができなくなっちゃうんじゃないの?と(余計なお節介かもしんないけど)思ったりもする。
それに、これは暴論・極論かもしれないけれど、かつて日本が無茶な戦争に突入し、しかも「もう勝てないだろ」というのがハッキリしてもそれを口に出すことができず、二発もの原子爆弾を落とされてやっと「敗け」を認めた、というのは、当時の日本人の多くが「周りの空気を読みすぎた(空気に流された)」からじゃないのか、なんてことをちょっと思ったりする(これは最近読んだ佐藤忠男の「草の根の軍国主義」という本を読んだ影響もあるかもしれないのだけれど)。
さて。
映画の登場人物で「空気を読まない人」というと「男はつらいよ」の寅さんを置いて他にないのじゃないか、と思う(「釣りバカ日誌」のハマちゃんもかなりイイ線行ってるけど、やはり先輩の寅さんにはなかなか及ばない)。
自分は「男はつらいよ」は数作しか観ていないけれど、まぁ~どの作品でも寅さんの「空気の読まなさ」は過激なくらい破壊的だ。あれ、映画の中の話だから良いけど、現実にあんな人が身近にいたらかな~り迷惑だよなァ。
そういえば、渥美清が亡くなってもう十年以上も経ったんだっけ。もしこの21世紀の日本に寅さんが現れたら、どんな感じなんだろうと、ふと夢想する。
「はぁ?けーわいだぁ?空気読めないだぁ?お前さん、バカ言ってんじゃないよ。その~、何だ、KYだかYKKだか知らねェけどよぉ、そんな気ぃ遣って言いたいことも言えない、やりたいこともできねェなんて、息が詰まっちゃうじゃねェか、だろ?大体空気ってのはなぁ、読むモンじゃねえ、吸ったり吐いたりするもんだ。ガッコでそう習ったろうが?おじさんガッコなんてろくすっぽ行ってねぇけどよォ、そんくれぇは知ってますよ?それが、教養ってモンだろうが?ええ?
だからよ、そんな~細けぇこといちいち気にしねェでよ、まずは深呼吸してみろ、深呼吸!ハイ、息を吸ってぇ~、吐いてぇ~、また吸ってぇ~、吐いてぇ~・・・な?空気は読むモンじゃねえ、吸ったり吐いたりするモンだってことが、分かったかい?青年!」
う~ん、書いてるうちに楽しくなってきた。このまま寅さんの新作のシナリオをぶわぁ~っと書いてみたい気がするけど、それは置いといて。
つまり、何が言いたいのかというと、確かに空気を読むってことは大事なんだけど、一方で、空気を読まない人、読めない人、違う言い方をすると「王様は裸だ!」と言わずにいられなかったり、考え方や感じ方が大多数と違う人、自分の中の「言いたいコト」が押さえ切れなくて、若干トンチンカンなことをしたり言ったりしちゃう人、そういう人を許容するおおらかさ、寛容さ、余裕っつーのも、大事だと思うのよ。そうだろ、青年!
あ、寅さん口調がうつっちゃった^^;
※そういえば、↑のぼぞぎがずご(仮)の番組には前田吟がゲストに出ていて「ドラマや映画では空気を読まない人がいた方が面白くなるんですよ」と言っていた。前田吟もきっと寅さんのことを思い浮かべてたんだろうな~と思うとちょっと嬉しくなった。

