牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

『羣書類従』に見る牛頭天王①

2012-07-06 03:34:11 | 日記


『羣書類従』・・・一般には『群書類従』と書かれます。

 江戸時代の学者塙保己一は、それまでにつくられた「物語」「和歌」「寺社」などについて調査し『羣書類従』にまとめようとしました。文献・資料はあまりにも多く、まとめるにあたっては、彼の死後も続けられました。
 彼は全盲に近い「視覚障害者」での身で、『羣書類従』の編纂に全勢力を費やしたと言っていいでしょう。現埼玉県の誇るべき人物であり、全世界の「障害者」に勇気を与えつづけていると言っていいでしょう。
 『羣書類従』には「言い伝え」も多く書かれているため、「歴史的事実」とは異なるとはいうものの、当時の人々はここに書かれていることを信じ、それに基づいて行動したことは事実でしょうし、そのことが重要と思います。
 彼の業績は『羣書類従』を読みやすくするために、一枚400文字(20字×20字)にしたことであり、今日の「原稿用紙の祖」と言うことができます。
『羣書類従』の「二十二社註式」(国立国会図書館蔵、木版原板巻二十二。四十七。 ただし、国立国会図書館デジタル化資料番号では第23冊~25冊[147]の138祇園社)には、祇園社と牛頭天王について次のように書かれています。(「異体字は現代の文字に変換してあります。)

     祇園社  延喜神祇式曰山城国愛
            宕郡祇園神社式外三座

牛頭天皇初垂跡於播磨明石浦移廣峯其後移北
白河東光寺其後人皇五十七代陽成院元慶年中
移感神院
西間 本御前 竒稲田媛垂跡一名婆利
    女一名少将井脚摩乳手摩乳女
中間牛頭天皇号大政
   所進雄尊垂跡
東間蛇毒氣神龍王
   女今御前也

(読み下し文)  
     祇園社   延喜神祇式に曰く 山城の国愛宕郡祇園神社  式外三座

牛頭天皇 初めて 播磨明石浦に於(お)いて 垂迹し(現実存在として現れ) 廣峯に移る 其の後北白河東光寺に移り 其の後人皇五十七代陽成院(陽成天皇)元慶年中(西暦880年頃)感神院に移る

西間 本御前(正妻) 竒稲田媛(クシナダヒメ)の垂跡なり 一名婆利女(ハリメ) 一名少将の井 脚摩乳手摩乳女(アシナヅチテナヅチメ)
中間 牛頭天皇 大政所と号する  進雄尊(スサノヲノミコト)の垂迹なり
東間 蛇毒氣神(ダドクケシン) 龍王の女(娘)  今御前「牛頭天王のもうひとりの妻)也


(考察)
1.牛頭天王は江戸時代までは「牛頭天皇」と書かれることもあったことが分かります。これが明治維新政府から反感をもたれた一因とも思われます。

2.「式外三座」とあり、はじめ祇園社は延喜式内神社(大神社)ではなかったことが分かります。理由は次回にも述べますが、感神院は「仏教の研修所」であり、設立当初は寺院と見なされていたからでしょう。

3.東間に龍王の娘蛇毒氣神を祀り、今御前(もうひとりの妻)としていました。毒蛇を妾に迎えているのです。この毒蛇はヤマタノオロチの霊(または精魂)ではないかと言われてきたようですが、それについて『羣書類従』は説明していません。とにかくも、江戸時代においては、牛頭天王と婆利女と蛇毒氣神が、祇園社において祀られていたのは確かです。『羣書類従』の編纂された時代、その時代の神社の祭神までウソを書くことはできますまい。行けばウソだと分かってしまうことですから・・・・。

4.『古事記』には、娘(クシナダヒメ)がヤマタノオロチに食べられるということで泣いている老夫婦が登場します。。この老夫婦が「アシナヅチ」と「テナヅチ」であり、その娘だからクシナダヒメは「アシナヅチテナヅチメ」なのですが・・・・・。
「アシナヅチ」を「足のない」と解釈し、「テナヅチ」を「手のない」と解釈したのは民間の民俗学者吉野裕子でした。彼女は古代の「クシ」は「ヘビの頭」ににているという想像力も発揮させて、この親娘が「ヘビ」であることも述べています。
 わたしはこの解釈は正しいと思っています。さらに付け加えるならば、古代において「チ」は「ムシやヘビ」も指す言葉でした。ヘビは漢字でも「虫へん」です。
「足のない虫」「手のない虫」、すなわち「ヘビ」の娘だから、クシナダヒメも「ヘビ」なのです。「ヘビ」が「オロチ」以上に巨大化したのが「龍」と考えていいかもしれません。
 ヤマト朝廷側は『古事記』における「ヤマタノオロチ退治」の話のように「ヘビ」を悪者にしているのですが、肝心の『出雲風土記』にはヤマタノオロチ退治の話は見られません。『羣書類従』の祇園社の項において、編者の意図とは別に、原始日本の「ヘビ信仰」や、中国仏教における「龍信仰」とも関連させて、牛頭天王信仰を述べているという点が面白いと思います。

5.『羣書類従』に書かれていることは、最初に述べたように、「言い伝え」「聞き伝え」を書いたと思われる内容もあることから、「歴史的事実」とは区別しなければなりません。
「牛頭天皇初垂跡於播磨明石浦移廣峯 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院」については、京都八坂神社は「歴史的事実」として認めていないとのことです。
「歴史的事実」はどうあれ、当時の人たちはこれを信じ、行動のよりどころとしたのは事実でしょう。