神門善久「日本の食と農」を読む

”読後に農家バッシングに目ざめる人が目に付きます”
ご存知でしょうがタイトルをクリックするとトップページになります。

更新履歴

2013-03-26 | 凡例

2009/11/7 2-3 食生活を乱したのは消費者自身(むしろそこにあるのは消費者の貧困)
2009/11/6 2-2 食の安全・安心は古くからの話題 (農産物の値段が上がらないのは長期デフレのせいか?)
2009/11/6  無自覚な二重規範
2009/11/6  2-1 基礎学力問題と食の問題の類似性(消費者の責任とはあるのか?)
2009/11/1  序章-4 日本なのか日本人なのか?(農業の国際貢献とは?)
2009/11/1  序章-3 蟻の目からのアプローチ(お金でつるのを市民参加というのか)
2009/11/1  序章-2 行政バッシングの時代 (食の再生は火急の問題ではないのか)
2009/11/1  序章-2 行政バッシングの時代 (強者の論理あるいは春秋の筆法を持ってすれば学識経験者の責任)
2009/11/1  序章-1 食と農を語る意味 (集団的誤解とは何か?)
2009/10/30 見識において”部外者”
2009/10/12  使用するテキスト
2009/10/11 「本質を見抜く力」における神門教授が思う自著の評価
2009/9/25 2-11 社会保険料と食生活連動制の提言 (単に懲罰的な政策)
2009/9/25 5-付論 都市計画と農地利用計画(何が皮肉なのか?)
2009/8/30 5-8 農地問題は日本社会の試金石(公正なルール?農業に長けた者?)
2009/8/26 5-4 悪魔のシナリオ(教授の失言)
2009/8/26 5-5 理想のシナリオ(これだけですか?それに”光の王”のシナリオ)
2009/8/25 5-6 転用権入札・課税自己評価の提言(転用できるのは大都市圏だけ)
2009/8/24 2-8 行政の組織防衛策としての「食の安全・安心」(むしろ行政のレゾン・デートル)
2009/8/20 凡例 この本に対する私の感想
2009/8/19 3-付論 戦後日本の都市-農村間の所得配分の教訓(参政権とはなんですか?)
2009/8/18 3-4 JAの独擅(機能が、目標に)
2009/8/18 3-3 JAの組織と活動(農業を論じてね)
2009/8/15 3-2 JAの怪しさ(語るに落ちる)
2009/8/15 3-1 農協とJA(抵抗勢力として議論を回避するのは危険ですよ)
2009/8/12 2-7  安全と安心の違い(消費者の多様性を考えて)
2009/8/10 2-5 地産地消、グリーン・ツーリズムの誤謬(どの辺が誤謬なのでしょうか?)
2009/8/10 2-4 消費者のエゴ(教授の言説がうけいれられるのも都市住民の「無知」のため)
2009/7/29 2-10 ほんとうの食の改善とは?(教授は多様な家庭は想像できないのかな?)
2009/7/29 2-9  食品安全基本法の功罪(消費者の責任って?)
2009/7/29 2-6 食育の誤謬(学者のインフレについて)
2009/7/24 4-2 農地は宝くじ(生産の為に集約する事と転用転売を混同)
2009/7/22 6-2 企業と農業(教授の頭には選挙しかないのでしょうか?)
2009/7/19 3-3 JAの組織と活動(適正営農規模とは千三屋の値上がり予想)
2009/7/18 5-3 農民の嘘(商業の論理でしか考えることができないのが経済学者というものなのでしょうか?)
2009/7/18 4-7 農地転用の実態(神門教授しか?)
2009/7/17 5-3 農民の嘘(愚察する神門教授の原風景)
2009/7/14 5-3 農民の嘘(教授の良くわからない認識)
2009/7/8  4-1 梅畑の秘密 (横着すぎる論理展開)
2009/7/4  3-1 寄り道コラム (女系天皇の提唱に見る小泉さんの深謀遠慮)
2009/6/30 3-1 農協とJA (小泉改革の次のターゲットって?)


神門善久 教授ってこんな人

2010-06-12 | 凡例

 神門 善久(ごうど よしひさ)農学者・経済学者。学位は博士(農学、京都大学)。

経歴
1962年 - 島根県松江市に生まれる。田圃が遊び場だった。 
      電話もない雨漏りのする家だった。郷土愛は強い(本質を見抜く力)
             本家は簸川(ひかわ)郡の代々の大百姓。屋号は不動田、 製茶工場も持つ。松江藩に用水用地を取られたことがある。
      本家の先代 十代吉(とよきち)爺さんには好かれた。
      三代前に分かれた分家で、祖父母ー父母ー三兄弟の七人家族 の次男。
      祖父と父?は病弱だった。両親は共働きで、母は養護教諭。兄はその後 小学校教諭。 
1974/3  島根大学教育学部付属小学校?卒
1980/3  島根県立松江南高等学校?卒(社会研究部?)
1984/3 京都大学農学部卒業 (在学中は持久走同好会 同期5人中2名浪人生)
     京都大学農学研究科農林経済学博士後期課程 中退
     滋賀県立短期大学助手(最初の赴任校)(陸上部 部長)
     政策研究大学院大学客員助教授
     国際開発高等教育機構客員研究員などを経て、
     現在、明治学院大学経済学部経済学科教授。専攻は開発経済学・農業経済学。
     総合規制改革会議専門委員〔農林水産業・流通WG〕を歴任。
1996/12/24 経団連農政部会に招待され出席
1998/1 スタンフォード大学での在外研究でシリコン・バレーに滞在(最初の外遊?)
2003/11/18 構造改革特別区域推進本部評価委員会 農村活性部会(第1回)に出席
2005年度 Yale大学へ(明治学院大学の特別研究)(この時は、明治学院大学では助教授)
     「経済発展と人的資本」という研究テーマ
2006年 - 『日本の食と農 危機の本質』(NTT出版、2006/6/24)で第28回サントリー学芸賞(政治・経済部門)受賞。
     第7回日経BP・BizTech図書賞(2007年)を受賞)
2008/11/5 第2回農林水産省改革チーム「有識者との意見交換会」に参加
2009/6/20 講演『農業問題の本質 ―言霊の跋扈がもたらした混乱― 』
2009/6/22 講演「農政改革のウソと現実」

「トラブルメーカー」を自認する。「ほかの人が思っているけど口に出さない、“それを言っちゃおしまい”の部分を言ってしまうから」だという。「不快な事実に目を向けなければ、事態は変わらない。足下を見つめることでこそ、明るい未来を描くことができる」「これらは本当にできると信じている。農水相だって、やる自信がありますよ」「将来の世代にどういう農業を残せるか」「人間、いつ死ぬかわからない。書くべきことは書いておかなくては、と思うんです」

車の運転はできません。
地方自治法100条の2(専門的知見の活用)に基づき、所沢の農業について調査したこともある。

○専門分野  経済政策
○主要研究テーマ
  The Economic Role of Education in the Asian Developing Economies
○主要担当科目
  農業政策論、経済発展論、ゼミナール
○所属学会・役職
International Association of Agricultural Economists,
Japan Economic Seminar Chinese Economic Association in North America 

書籍
農業問題の経済分析 第3章.農地問題と日本農業 第7章.農協問題の政治経済学』日本経済新聞社1998/11
『農業経済論・新版』(速水佑次郎氏と共著、岩波書店 2002年)
『日本の食と農 危機の本質』(NTT出版、2006/6/24)
「偽装農家」飛鳥新社 2009/8 /8
論文
・"Financial Liberalization and Japan's Agricultural Cooperatives,"
The Proceedings of the 26th Conference of the international Association of Agricultural Economists,forthcoming.
・「戦前期朝鮮の金融データ概論」寺西重郎・福田慎一編『アジアの経済発展と金融システム』(東北アジア編東南アジア編)東洋経済新報社
・「農業経済学の反省」『農業経済研究」(第73巻第2号、2001年)
「戦後日本の農業保護政策」農林水産政策研究所レヴュー
「日本農業の国際化と政治・農協の変革」2004/3(共著・第三部を執筆)経済産業研究所
「農政改革とこれからの日本農業」2005/3日本経済研究センター 共著4・5章を担当
・"Deveiopment Economics(3rd edition)"Oxford  University Press,2005 Hayami,Yと共著
・"The Role of Education in the Economic Catch-Up:Comparative Growth Experience from Japan,Korea,Taiwan,and the United States"
A paper presented to the 2006 Allied Social Science Association meetings at Boston,2006
・「農業廃れて農経太る-農地問題から見えてくるもの」『農業経済研究」(第78巻第2号、2006年9月号)
「キャッチ・アップ過程における教育ストックの役割:日本・韓国・台湾・米国を対象とした長期データ・セットの構築とその活用」2007/3
その他の記事など
「中所得国段階の農業問題」2001/秋
・「農業経済学界の反省」2001/9農業経済研究
・「農地政策の迷走」農業と経済2002/11
・「・「農協すなわちJA」の呪縛に終止符を」農業と経済2003/8
・「“似非・農業シンパ”の行状」農業と経済2007/5
「農家切り捨て論のウソ」日経ビジネスオンライン2007/9/21
・「未来のために正直であれ」農業経営者2007/11/5
・「小麦・トウモロコシ・コメは足りない?おしえて! 神門善久先生 穀物生産増は人口増を上回る 2010年頃に価格は安定する」週間ダイヤモンド2008/6/30
・「特別鼎談 日本の農業、本当の問題 (養老孟司&竹村公太郎&神門善久)」2008/9/30
「ずさんな農地行政が農業の自壊を招く 壊れていく農村(1)」 日経ビジネスオンライン2009/2/24
「『偽装農家』の実態を暴き、参加型民主主義で農業を再興せよ 壊れていく農村(2)」 日経ビジネスオンライン2009/3/3
・「優良農地を荒らす擬装農家たち」2009/4月刊「第三文明」
「日本農業再生の道」


無自覚な二重規範

2009-11-05 | 凡例
 神門善久 教授の不思議なところは、ご自身の二重規範に無自覚であるらしい事です。
平たくいうと、ご自身でお勧めになるものには甘い基準を、お嫌いになるものには厳しい基準をお使いになります。

「お任せ民主主義から参加型民主主義へ」は素晴らしい事です。
「国境を越えた連帯」それも素晴らしい事です。
 かっこいい所だけを拾い読みすれば、素晴らしい御本のようです。
でもまあ、「●が闘争」であろうと「○主席語録」であろうと含蓄のある素晴らしい記述を見つける事ができるものです。
 素晴らしい文章があるからといって、お話し自体が必ず素晴らしいと言う訳ではありません。
借り物を並べただけかもしれないですからね。

 実際に神門教授が提案なさっていらっしゃる内容はどうでしょうか?



 中進国にありがちな「開発独裁」も顔負けの私権の剥奪ではありませんか。
これでどうやって、民主主義になれるのでしょうか?
参加型どころか、お仕せ民主主義もおぼつかないでしょう、神門教授には。
なぜ、そんな事にお気付きになられないのか?

 神門教授、あなたは農業者に対して悪意を持っていらっしゃるでしょう?
公の発言でもむき出しにしてしまうほどの悪意で鼻白んでしまうほどですよ。

 ですから、ご自身がお作りになった悪態語に、ご本人も囚われておしまいになったのでしょう?
ですから、実際に市井に生きるものには侮蔑した基準を設け、
(居るか居ないか分からない)あなたの理想像には大甘なのではないですか?




 神門教授に申し上げます。
「偽装農家」などの悪態語を偽造して使用する事は、あなたの言説に耳を傾ける人をあさましい考えに引きずりこむだけです。

 731部隊が実験の対象を「捕虜」と呼んでいたら、あんなに酷い事ができたでしょうか?
「マルタ(丸太)」と呼んでいたからできたのでしょう?
人間だと思っていたら、無体な事はできがたいのじゃないですか?

 神門教授などが、「偽装農家」「悪のトライアングル」とか「抵抗勢力」などとおっしゃるのは、石井部隊と同じ行動様式に陥ったということですよ。



 実際に日本の農政は開発独裁型農政(しかも成果は無いので終わる見込みも無い)になって久しいので、神門教授はそれ以外の農政をは、お知りにならないのかもしれません。
「戦争の為の動員体制」
「敗戦による飢餓のための経済警察を動員しての食料徴用」
「傾斜配分により重工業を復興させる為に、安い労働力と安価な食料の調達」
「都市市民の撫育のための食料管理制度
(神門教授の説と違い、実際には都市市民の票を確保する為に農業は矯められて来たと思いますよ)」
「(40年にもわたる)将来の見込み無き生産調整」
 すべて農民を人間だと思っていたら実行できない政策だったでしょう。
神門教授はそのようなものしか農政としてお知りにならないので、
そのような農業政策しか想定できないのでしょうね。
ですから、農民や国民を踏みつけにしたことを無自覚にご提案なさる。

 ですが、神門教授 勉強不足ですね。


 写真の道は、水田の中に盛土してできています。
なんのために?

 これは堤防跡を市道としたものです。
先達が、水不足解消のために高山からの途切れる事の無い水を、隧道を掘って引いてきました。
その冷たい清水を、稲作に適当な暖かさを得るまで溜めて置くために、すでにあった水田を潰して溜池をつくりました。
この道はその時作った堤防です。
これを作ったリーダーの歳の離れたつれあいが、先日百歳を少し越えて亡くなりました。
これはそのぐらい昔の話ですが、それぐらい身近な話です。

 これは農民自前の工事で、若干の破産した関係者が居ります。
潰した水田の代替を、工事の肝煎り達が個人補償せざるを得なくなったためです。
私の一族もその中に居ます。
神門教授のお好きな参加型民主主義の先例になると思いますが、
素晴らしい反面、それだけのリスクがあるものですよ。
お分かりの上でご提案なさっていらしゃるのでしょうか?

 50年ほど前に「食料増産を」という国策により復田したので、現在は両側が水田になっています。
すぐに減反政策が始まったので、無駄な復田をしたものであると思います。

 開発独裁型農政が席巻するまでは、農民は自前で頑張っていた。
肝煎りになった人が破産してしまう事があるような拙い運営でしたが、ともかくも頑張っていた。
この道を見ると、そう思います。 

見識において”部外者”

2009-10-30 | 凡例

 神門善久 教授などの「農業の再生を」とおっしゃる”非農業者”の言説の多くはヒトゴトです。
かなり極端な無責任な事を、無自覚におっしゃる方がいらっしゃいます。
他人事に悪態をついて喜んでいるだけにしか聞こえない場合があります。
大概のその様な人は、当事者である農業者を踏みつけにしても自覚が無いようです。
そのような方のお持ちになっていらっしゃる見識は、”部外者”の物であるというのが私の判断です。

『自分では実行しない事を、当事者を悪し様にあれこれ断定する』という事は寝言にすぎません。
そんな事もわからない様な「共に談ずるに足りない人」なのじゃないのかな。
 そんな中では神門教授は、お話自体が支離滅裂なのでむしろ悪影響が少ないのですけれど。



 沢山の有為の青年が、無責任な戯言に痛めつけられてきた跡が今も生々しくそこかしこに見えます。


 写真は、近所の収穫後の田圃です。
 もっと酷い状態の時もあるのですが、あまりにもなので少しは見られるようになってからの写真です。

 非農業者のためにご説明申し上げますと、カメムシ対策などのため年に3回は畦畔(田圃を仕切っている少し高くなっている小道)を草刈する事になっているのですが、一度も刈らずに稲刈りを終えたところです。(奥の方にきちんと刈っている畦も見えるでしょう)

 農家としては恥ずかしい光景ですが、農業が健在ならこんなことはなかったでしょう。

 この耕作者は、”偽装農家”ではありません。

 地域では名門で、大学は農学部に行きました。
ある時期までは、地域の農業青年のリーダーでした。
台風により温室が倒壊しなければ、または米価が生産コストより高ければ、今もリーダーだったでしょう。
大規模化や多角化のために作った負債による痛手が、農作業をする暇を(多分気力も)奪ったのでしょう。
大規模農家が、中途から兼業農家になるというのは酷いものです。
農作業量は変わらないので朝・夕・休日・農作業をしながら、低賃金の雇い人としての給料で多額の負債を返済していくのです。

 同じような境遇の人間が沢山居ます。
台風一つで根底から覆される危うい経営が”農業の集約大規模化”というものです。
軌道に乗った頃価格が暴落するのが”金になる商品作物”という物です。

”農業の再生を考えている非農業者のインテリ”のおっしゃることは机上の空論に過ぎないので『のせられたら破産だ』

 否定できるのでしょうか?

「本質を見抜く力」における神門善久教授が思う自著の評価

2009-10-11 | 神門教授のおっしゃった事
 「本質を見抜く力 環境・食料・エネルギー」養老孟司/竹村公太郎 PHP新書2008/9/30の第六章で[特別鼎談 日本の農業、本当の問題]として神門善久教授と著者の鼎談が行われています。

 神門教授がおっしゃることは相変わらずですが、「日本の食と農」の評判について述べられています。

 その前に一つ。
P162「『農業センサス』では、0.1ヘクタールというごく小面積を基準にして農家とみなす」と神門教授がおっしゃっていらっしゃいますが、『農業センサス』の基準は10アール以上です。同じ面積ですがわざと少なく感じるように神門教授はご腐心なさっていらっしゃる。お疲れさんです。

 P184「僕の『日本の食と農』はサントリー学芸賞と日経BP・BizTech図書賞を受けており、言論書として望外の高評価を得ました。(中略)しかし、この本が出てからの一年半の間、反論も肯定もされず、関係者の間では僕の本は存在しなかったことになっているようです。」
 とありますが、「存在しなかったことになっている」のじゃないと思いますよ。多分「お話にならない」と無視されたのじゃないですか。賞をもらったからと言って高評価とはいえませんよ。何をもって「言論書として望外の高評価を得ました」とおっしゃるのでしょうね。賞をもらっても関係者が無視したのなら、『日本の食と農』という本がサントリー学芸賞と日経BP・BizTech図書賞の二つの賞の価値を台無しにしたということです。

 私が「お話にならない」から無視されたのだろうと思う理由は、神門教授の発言の中にあります。
P185「僕は、ただ批判がしたくて本を書いたわけではありません。僕の本は、建設的で具体的な政策提言を大胆に展開しています。」
とおっしゃり、神門教授は『日本の食と農』という本は、「批判が主体で中には政策提言もある」という本である事をお認めのようですが、この政策提言が荒唐無稽だからです。
政策提言が荒唐無稽である事にお気づきになられないようでは、その認識も荒唐無稽ということです。ですからこの本は、聞き苦しい事実誤認あるいは曲解の悪態本という事になるでしょう。無視されて当然です。他の人の意見を聞く気がないらしい神門教授は、その事にお気づきになられない。悲しい事ですね。
 政策提言が荒唐無稽である事は、このブログのそこかしこに記述しておりますので、ご参照ください。

 またP192「僕にはもともと発言の機会が少ないのですが、まれに発言の機会があっても、「そうですか、じゃあその話は終わりにして、別の話題にしましょう」という対応を受けます。」との事ですが、当然でしょうね。ご自分のご意見をお話になるだけで、人の話に耳を傾けませんからね。この鼎談でも他のお二方はお困りのようですよ。
例えばP195「皮肉な意味では片手間農家も不在地主も土地持ち非農家も立派な経営感覚を持っています。「どうしたら相続で手にした農地を一番おいしく使えるか」に聡いという意味で。」
との発言にさすがに養老教授は「人間は基本的には合理的に行動するものです。」とお諭しになりますが、神門教授は止まりません。養老教授は医師の過重労働に話を振ってしまいました。
 いつもこんな対応をとられているとお怒りなのでしょう、神門教授。
ですが神門教授、この場合は大概の人が養老教授のようになさいますよ。


 傑作なのはP213の神門教授の発言
「当事者能力のない人の発言が増えています。」
まさか受け狙いで、笑いをお取りになろうとなさっていらっしゃるんじゃないですよね。神門教授。

この本に対する私の感想

2009-08-21 | 凡例
 神門善久 教授は、この「日本の食と農」を大学ならびに大学院の教科書として使っています。
私には雑文にしか思えませんが、著者・神門教授にしてみればりっぱな論文なのでしょうか?

 ”農業がダメだ”というのは おっしゃる通りでしょう。
ですが、《痴漢が出たときに「独身者が怪しい」と疑うような》粗雑な話に「これが学者の書いたものか?」と悲しくなります。
日本の農業がダメであるとして、どこがどのようにダメであるのか、またどうすればいいのか、神門教授のお話は、信用できがたく荒唐無稽です。
 なにも知らなかった人がこの本を読んだ場合は、初めて知った衝撃の事実に神門教授の指し示す現状認識や解決方法を鵜呑みにしてしまうかもしれません。ですが自分が知らないことを報告しているからといって、報告した内容が正しいかどうか・ましてや提案する解決方法が妥当であるかどうかはわかりません。それぞれ自分で検討をしないで賛成していいものじゃないでしょう。

 信用できないのは、神門教授が対象に悪名をつけ・イメージを固定して・罵倒するからです。
”消費者エゴ” ”農地の転用転売期待” ”偽装農家”など沢山あります。
対象と向き合っていない・または当事者と解決策を探っていく気持ちが無いということでしょう。
また他罰的で、倫理を人に押し付ける話は、
”人の痛いのは何年でも我慢できる”他人事だから書けるものでしょう。
それに、「仮に」と仮定したことを、途中から自明であるかのように扱うことがあります。
条件を限定しておきながら、いつのまにか普遍的に成り立つことにしていることがあります。
判断を留保あるいはスルーしていながら、いつのまにか当然視していることがあります。
それから、予断を持って、
ご自分の主義主張のために論理を曲げ、
ご自分の好悪により評価基準を変えることがあるからです。

 荒唐無稽なのは、神門教授の提唱なさる
”社会保険料(消費税)の食生活連動制”
”転用権入札・課税自己評価”
”低GDP国からの高GDP国への参政権の行使”
あるいは”農業への外国籍労働者の導入”
すべて独善的で、実効性の検討がないからです。

 神門教授は、かっこいいことをいっていますが、だからといって妥当なことを言っている訳ではありません。

神門教授の評判① サントリー学芸賞受賞時の選者評

2009-08-10 | 凡例
 サントリー学芸賞(2006年度 政治・経済部門)受賞時の選者の評です。
(失礼ながら、太字ならびに《 》内は引用者がつけました)

  本書は神門氏による食糧問題・農業問題の政治経済学的分析である。戦後の農業政策の政治経済的側面の歴史が興味深く語られた後、1990年代半ば以降の変容が詳しく分析される。その分析は農業問題を語りながら、同時に安易な規制緩和論に対する警告にもなっている。さらに、筆は日本社会における市民意識の低さにも及び、幅広い観点から日本の政治経済社会について読者に再考を迫る好著である。

 著者によれば、農工間の所得格差を基礎に、1960年代までの農業政策は農産物価格支持制度等による農業への所得移転を意図したものであった。これが零細農家の支持を勝ち取り、自民党政権の安定性を保証、また、それが推進する経済成長政策の支援にもなった。他方、財界と自民党との関係は密接であっても、個別企業が票田となったわけではなく、特定企業肩入れ策が大規模に発動されてはいない。このため、企業間の競争、浮沈は激しく、高度成長の原動力となった。多くの発展途上国と鋭い対比をなしていて、興味深い。
 1970年代に農工格差がおおむね消失したときに、こうした農業保護政策は止めるべきであった。しかし、自民党政権基盤の弱体化を気にした政府は、JAの地域組合化の下での農村にかかわる広範なサービス提供の方向に舵を切った。JAは共同利用施設の提供などを通じて零細農家を保護し、その離農や大規模先進農家の突出を食い止めてきた。さらに、極め付きの零細農家保護政策は、公共投資による農地の改良、その上での転用規制の恣意的な緩和による農家への(農業生産収入の6割もの規模に匹敵する)転用収入の確保であった。この政策による恩恵は土建会社にも及んだ。
 以上の零細農家保護政策の構造は1990年代半ば以降、公共投資の減少、金融自由化によるJAの不振等の下で、維持が難しくなってきた。そこで企業による農業参入自由化のような規制緩和策、また土地転用制限策の地方委譲のような地方分権策等、時流に乗った対策が登場した。しかし、多くの場合、農業に参入する企業は農業を主目的とはせず、産廃業への転換などを考えており、また地元エゴに甘い地方自治体ほどこうした要求を認めやすい。結果として、こうした規制緩和は農業生産性の向上に資するのではなく、行政、零細農家、土建業者等の旧態勢力を利することになっている。市民意識の欠如する日本人が、自ら土地利用のルール作りに参加しようとせず、「お上」任せであったこと、さらに規制緩和万歳のポピュリズム的風潮がこうした傾向を助長した。

《”著者によれば、から助長した”までは 神門教授の説を、植田教授がまとめてくださったもので、評価はこの後なのですね》

 戦後日本の政治経済構造の一つの核となった部分に関するきわめて歯切れの良い指摘の連続であり、個別の論点は著者によるより専門的な研究で裏付けられている。また、最近の政策、それについてのマスメディアの論調に対する貴重な批判にもなっている。
 ただし、もう少し著者の主張を聞いてみたいと思った箇所も多い。本書の中核である農地の非農地への転用の点だが、それは本当にいけないことだろうか。生産性がそれで上昇するなら経済原則どおりではないだろうか。多分、公共投資等の「補助金」をつけて生産性を上げていること、そのやり方、転用規制緩和が恣意的で分配面からも大規模農家へのインセンティブからもマイナスだ等が指摘できるのだろう。あるいは、安定的食糧供給・国土保全等の経済効率性の範囲を超える目標へのアプローチの仕方が問題なのかもしれない。また、日本人の市民参加意識の欠如、食における利便性の過度の追及による食生活の乱れ等についても、単なる批判、あるいは非合理的行動だという以上の分析が必要のようにも思える。事態改善のためのいくつかの提案にもやや唐突に感じられるものがあった。もう一歩の分析、あるいは詳しい説明を聞きたいと思ったところである。

植田 和男(東京大学教授)評
(所属・役職は受賞時のもの、敬称略)



 丸谷才一さんが、林達夫さんの文章を評して
「頭のいい人の書いた論旨の通った文章を読むと、度の合った眼鏡をかけた時のように物事がすっきりと見える」
とおっしゃった事がありますが、この植田教授の文章を読んで
「丸谷さんのお話は本当だな」と思います。

 神門教授の文章は、
黒い感情みたいなものが立ち込めて、むしろ物事が見えない。
と思っているのですよ。



 植田教授が要約してくださったこの本の概要で、
この本の鳥瞰が得られたような気がいたします。

 それに、

・農地の非農地への転用の点だが、それは本当にいけないことだろうか。
・日本人の市民参加意識の欠如、食における利便性の過度の追及による食生活の乱れ等についても、単なる批判、あるいは非合理的行動だという以上の分析が必要
・事態改善のためのいくつかの提案にもやや唐突に感じられる

 これこそ私の言いたかったことです。
私が素人だからわからなかったんじゃないんだ。よかったな。


 ところで、神門教授はこの評をどのように受け止めたのでしょうか?
最近の言動や、「偽装農家」という題名の出版物などから考えるに
この植田教授の評は、神門教授には届いていないのでしょうね。

残念ですね。

神門教授の評判② Wikipediaのノート

2009-08-09 | 凡例
 Wikipediaの「食の安全」のノートタグにあった、神門善久 教授の評判です。

 「神門教授は、未熟な文章を書く人ですね。京大出の大学教授なのに、この程度なのかな?
(零細兼業農家への補助金などとは桁違いの)公費を使った知的アリストクラートのはずなのだけれど、
この人の教育にかけた補助金が、一番無駄で役立たずな補助金なのかな?」
とは思っていますが、私はここまでは言いませんね。

神門教授って、わりと評判が悪いのかしら。

”正確性 [編集]

現状では神門善久による個人的な意味づけ、感情的な責任論、非科学的な原因論が、冒頭部に大量に展開されています。このような文章は決して百科事典的な「事実に関する記述」ではありません。さらに、神門善久の感情的な文章が引用文としてですらなく地の文として、まるで絶対的な事実であるかのように掲載されています。また、他の書の情報や最新情報あるいはこの記事の他の事実系の文章と照合してみると分かりますが、神門善久の言っている内容には誤謬も数多く含まれています。いずれにせよ記事冒頭に神門の文章が大量に配置されていると、読者の誤解を招きます。したがって正確性のテンプレートを貼っておくべきです。

基本的にWikipediaには神門善久のような感情系の文章はあまり載せるべきではありません。また神門善久の書を模倣して記事の骨格づくりをするべきでもありません。それでもどうしても感情系の文章を載せたい人がいる場合は、記事の冒頭などではなく、最後部に「批評」という節を設けてその中に文章を配置するべきでしょう。Wikipediaでは少なくとも前半は淡々と事実を記述するべきです。削除もしくは「批評」の節への移動を実行するまでは正確性のテンプレートを貼っておくべきです。--F3wiZ6np5q 2007年11月18日 (日) 13:18 (UTC)


うーん、まず、正確性テンプレについて、以下のとおり要件は満たしていないかと思います。

  • 参考文献が提示されることなく、多くの疑わしい情報が記載されている。参考文献(この場合は、『日本の食と農』ですね)は示されているので、これには該当しません
  • 立証することが非常に困難な情報が記載されている。参考文献として『日本の食と農』がまずあり、『日本の食と農』は新聞記事の引用等により作成しているから、少なくとも立証困難、ではありません
  • 記事中の一覧表の中にいくつかの誤りが指摘され、表全体に対して過去にさかのぼって確認を行う必要があると提案されているような場合。一覧表に誤りがあれば、ご指摘をお願いします。
  • 不正確な記事を書くことで知られる利用者によって執筆もしくは編集されている。え~と、そのつもりはないよう心がけているのですが、私が執筆・編集した記事の中で不正確だなぁと該当するものがあれば、教えてもらえるとありがたいです。

あと、F3wiZ6np5qさんが神門善久をどう思っているかは分かりましたので、あれだけ参考文献を提示していただけたのですし、ぜひ記事の執筆に参加していただけるとありがたいです。--Etoa 2007年11月18日 (日) 14:28 (UTC)

特に反論が出なかったので、正確性のテンプレは削りました。--Etoa 2007年11月22日 (木) 17:57 (UTC)

Etoaさんは中立性も正確性も欠いていることがよくわかりました。何かしらねじまがった感情を持ってこの記事の編集をしているようですね。Etoaさんは食の安全に関して、どの本を読みましたか? ちゃんといろいろな立場の本を7~8冊読んでから執筆しましたか? Etoaさん、正確性のテンプレートを絶対に勝手にはがさないように。次にはがしたら、コメント依頼なり、投稿ブロック依頼に出します。--F3wiZ6np5q 2007年11月23日 (金) 14:57 (UTC)

え~とまぁ、「依頼出すな」と言えるものでもありませんので、コメント依頼なり、投稿ブロック依頼なり、出す必要があると感じたときにはどうぞ出して下さいませ。で、「正確性テンプレの要件を満たしていないんじゃ?」と私は上で言っているんですが、それに対しての返事はどうなんでしょうか?--Etoa 2007年11月23日 (金) 15:56 (UTC) ”





F3wiZ6np5q さんは、
○神門善久による個人的な意味づけ感情的な責任論非科学的な原因論
○神門善久の感情的な文章が(引用文としてですらなく地の文として、)まるで絶対的な事実であるかのように掲載。
○(他の書の情報や最新情報あるいはこの記事の他の事実系の文章と照合してみると分かりますが)神門善久の言っている内容には誤謬も数多く含まれている。
ということなどを、問題にしているのに対し、

Etoa さんは、
形式論で、出典を明記しているから問題ない。


神門教授も応援団がこんな人ではご苦労なさいますね。


使用するテキスト

2009-07-31 | 序章 日本の食と農
 テキストは、誤植などの訂正もあるかと思い最新版と思われるもの、
(2006/6/28に初版第一刷が発行されていますが)2009/4/13の初版第一五刷を使用します。

 NTT出版の 日本の〈現代〉 シリーズの第8巻です。
「日本の食と農  危機の本質」という題で、2,400円+税 の値段です

 帯(腰巻)には、
表には「すさむ食生活/荒廃する優良農地/明るい未来への処方箋を探る」
裏には「問題を直視することは辛いことだが、/目をそむけずにじっと見ていれば/必ず解決策はある」とあります。

 なぜか読後に農家バッシングに目覚める人が見受けられます。
神門善久 教授の使役なさる言霊「農地の転用期待」が悪霊化しているのではないでしょうか?

  2009/6/20に『農業問題の本質 ―言霊の跋扈がもたらした混乱― 』 という講演をなさったようですが、ご自身が混乱をもたらす言霊を発しているとはお気づきになられないのでしょうか?
 神門教授も11ページに書いていらっしゃいますが、「バッシングは気休めにはなるかもしれないが、問題の解決ではない」でしょう?

  「農地の転用期待」というのは悪霊化しやすい言霊です。

 認識を捻じ曲げる言葉というものがあります。
例えば「性行為機会の期待による異性の獲得行動」という風に恋愛や結婚を規定したとします。
間違っては居ないかもしれませんが、まともなお話にはならないでしょう。

 取材をしたからといって正しい認識が得られるとは限りません。
例えば高校で野球をしている生徒に「将来 野球で食べて生きたいか?」と質問すれば多くの選手は、「できればそうしたい」と答えるでしょう。
「プロであれ、ノンプロであれ、学校で野球の指導員であれできれば野球に関わっていたい」そう答えるでしょう。
だからといって「高校で野球をやっているのはプロ予備軍である」と断じたらむしろ野球がわからなくなるでしょう。

 零細であれ大規模であれ、農家に「農地が高く売れたらうれしいか?」と聞いたらたぶん多くの正直な農家は「うれしい」というでしょう。
「これで、暇倒れだけでかえってお金をつぎこまなくはいけない農業を辞められる」
「規模拡大のために作った借金から逃れられる」そういって喜ぶでしょう。
 でもそれを、農家は「農地の転用期待」を持っていると断じたところで農家をわかったことになるのでしょうか?

 農業における「農地の転用期待」というものは取り扱いの難しい言霊です。
素人さんに使うには、効き目がすぎるのではないでしょうか?再考をお願いしたいところです。

序章-1 食と農を語る意味 (集団的誤解とは何か?)

2009-07-30 | 序章 日本の食と農

 神門善久 教授は本書は、われわれ自身の集団的誤解をあきらかにしようという野心的な取り組みである」とおっしゃられます。
ですが集団的誤解という言葉の、用語としての解説はありません。神門教授にすれば説明の必要を感じない普通の言葉なのでしょうが、浅学非才の私は、わかりません。索引にも、「集団的誤解」という項目は立てていらっしゃいませんしね。
 どのような意味なのでしょうか?

 人間というのは集団的誤解をする動物である。〈中略〉
 しかし、集団的誤解をしていたのは、かつての日本社会だけなのだろうか?〈中略〉
 今日において、世界各地やいろいろな宗教団体で、集団的誤解といわざるを得ないような道理のない盲信を感じる。〈中略〉過去の日本人や、他の社会の集団的誤解を指摘するからには、自分たち自身もまた、集団的誤解の中にいる可能性を認めるべきである。
 集団的誤解を全面的に否定する気持ちはない。それが社会の潤滑油になる場合もあるからである。たとえば、よく指摘されるように、途上国ほど多産なのは、社会保障が未整備であるため、老後や病気のときの一種の保険として子供を持ちたがるからだといわれる。しかし、途上国のお母さんたちにインタビューすれば、信仰とか文化に関連づけてこたえるであろう。そのときに、あえて「経済的動機があるはずだ」と問い詰め、その経済的動機を暴いて、お母さんに突きつける必要があるだろうか?人間に利己心があるのは当然であって、その利己心をわざわざ詮索するのは、無用の不快感・緊張を招く場合もある。信仰とか文化とかということにしておいたほうがよい場合もある。
 しかし、集団的誤解の中には、有害なもの、危険なものもたくさんある。昭和前期の日本社会の集団的誤解がまさにそうである。〈中略〉
 集団的誤解が怖いのは、邪な動機がオブラートの中にしっかりと包まれてしまうことである。


 
 集合的無意識みたいなものかと思いましたが、そうでもないようですね。
集団的誤解が怖いのは、邪な動機がオブラートの中にしっかりと包まれてしまうことである」というのはどういうことなのかな。
 そもそも邪な動機とは何でしょうか?何を持って邪とお決めになるのか。
 この動機を本人が意識しているのかな?
 意識してないとしたら、識域下にあるものを邪といわれてもね。倫理研究会や宗教をやっているのではなく、経済学の本なのでしょう、この本は。
 意識しているとしたら、それは単にモラルハザードが起こっているという事でしょう。

 「多くの人が持っていた常識が、後の時代には否定されることがある」または
「集団の中で自明であると理解されていることが、実は誤りである」というのならわかります。
 ですが、なぜ「理解が間違っている」といわないで集団的誤解というものが有るかの様におっしゃるのでしょうか?
 ”単なる状況にすぎない事も、名前をつけて繰り返し言及すれば現象として認識する者たちがあらわれる”これは宣伝戦の基本です。
神門 教授は『集団的誤解』・『農地の転用期待』や『偽装農家』といった言葉を作り上げ宣伝戦を行っているのでしょうか?

 それに、集団的誤解を全面的に否定する気持ちはない。」これでは、実際には妥当であることも、集団的誤解である場合があるかのようです。神門教授の理想とは異なる理解の方が世間では多いが容認せざるを得ない、という事ではないのでしょうか。その場合は神門教授の理想の妥当性を見つめ直したほうがよろしいのじゃないでしょうか?

 昭和前期の日本社会の集団的誤解がまさにそうであると言う事ですが、世の中の認識って色々な認識が同時に並立しているものじゃないでしょうか?認識がステロタイプで浅薄じゃないですか?この辺から神門教授の認識は「借り物で通俗的」であるという印象を持たれたら不都合じゃありませんかね?老婆心ながら。

 解かりにくいな。

「過去の日本人や、他の社会の集団的誤解を指摘するからには、自分たち自身もまた、集団的誤解の中にいる可能性を認めるべきである。」
とおっしゃるのなら、自分が「誤解を解いた」と思ったことも「新たなる誤解」の始まりと考えるべきじゃないのかな。

 厳密に考えた言葉じゃなくて”フィーリング言語”みたいなものなのかも知れませんね。案外「私の看破した真実以外は、皆間違っている」とおっしゃっておられるだけなのかもしれませんね。


 では、集団的誤解という言葉の使われ方をみてみましょう。

 集団的誤解を全面的に否定する気持ちはない。それが社会の潤滑油になる場合もあるからである。」という処から、その後の文章の中に潤滑油になるような集団的誤解があることになります。神門 教授は何が集団的誤解かあきらかにはなさいませんが。なぜはっきりと言えないのかな?
 誤解というからには(間違っているにしても)認識の一つには間違いないわけで、この文章の中にはどのような認識が含まれているのでしょうか。
①途上国ほど多産
②途上国ほど、社会保障が未整備
③老後や病気のときの一種の保険として子供を持ちたがる
④途上国ほど、老後や病気のときの一種の保険として子供を持ちたがる
⑤途上国ほど、社会保障が未整備であるため、老後や病気のときの一種の保険として子供を持ちたがる
⑥上記の①~⑤までの事がよく指摘される
⑦途上国のお母さんたちにインタビューすれば、信仰とか文化に関連づけてこたえるであろう
⑧多産なのは信仰とか文化とかのため

 この中で、潤滑油になるかもしれない認識は、 ⑧の「多産なのは信仰とか文化のため」しかないでしょう。するとこれが集団的誤解ということになります。

 そうすると(神門教授による)誤解でない認識というのは、「途上国ほど、社会保障が未整備であるなどの経済的動機により、老後や病気のときの一種の保険として子供を持ちたがる」ということになるのでしょう。

 ですが、避妊や堕胎が罪であるという信仰があることは周知の事実です。
また幸福モデルとして、沢山の子供や孫が居る事という社会がある。

 これらを考えると、⑧の「多産なのは信仰とか文化とかのため」がありのままに対象を見ている認識でしょう。

 なぜことさらに「途上国ほど、社会保障が未整備であるなどの経済的動機により、老後や病気のときの一種の保険として子供を持ちたがる」などと、
物事の一面に拘泥し、他罰的・露悪的および非寛容的に偏狭にみるのでしょうか?
 あげつらい、貶め、毛を拭いて傷を求めるような捻くれた物の見方を、集団的誤解をとくとおっしゃるのでしょうか?

 神門教授のおっしゃる集団的誤解とはどのようなものなのでしょうか?




 神門教授には、教授が高校生であった時代の名曲
中島みゆき「世情」の2番を送りたいと思います。

”世の中は とても 臆病な猫だから
他愛の無い嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて

時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため”


序章-2 行政バッシングの時代 (強者の論理あるいは春秋の筆法を持ってすれば学識経験者の責任)

2009-07-29 | 序章 日本の食と農

 この節は、佐伯氏・山口氏の著作の紹介の域を出ないと思います。

 それはさておき
「民主主義国家において、一般に、市民は立法府や行政府に政策の策定と実施を委ねている。市民は投票によって政治家を選出する。政治家が政策を策定(立法)し、行政がそれを実施する。市民は法律を遵守する義務を負う一方、法律の制定やその実施が不適切であるとき、市民は、立法府や行政府を批判する権利を持ち、また批判することが健全な社会を構築する。」
はしごく真っ当なご意見であると思います。

 ですが、それに続く
「しかし、ある種の政策については、市民自らが政策の策定と実施の責務を分担しなければならない問題もある。」
ま、ここまでもいいですけれど、
「善悪の判断の個人差が大きく、かつ、市民間で直接的な利害対立のある問題がそのケースである。それが、市民参加であり、市民参加があってはじめて、民主主義は成熟したものといえる。」
とはなんのことでしょうか?

 善悪の判断の個人差が大きく、かつ、市民間で直接的な利害対立のある問題
をその当事者に解決させようとなさるということでしょうか?
 「犯罪には、被害者が自分で解決に当ること」とでもいうのと似ています。
これは行政の責任放棄です。
市民間で直接的な利害対立のある問題を市民同士で解決させようとなさるのなら、それは強者が勝ち、短期的には解決したように見えるでしょうが、問題は地下に潜り見えなくなっただけです。

 これは、政治家なり学識経験者なりが一定の指針
つまり問題を解決・議論するためのルールというものを一応お示しにならないことには、
市民間の論議は、水掛け論に終始するでしょう。(これは圧倒的強者がいない幸運な場合でしょう、圧倒的強者がいた場合は議論にもならないでしょう)
なにしろ善悪の判断の個人差が大きくと言うことで
しかも市民間で直接的な利害対立のある問題なものなのですから。
 ここは学識経験者の登板といきたいところです。
 その上で、その示されたルールの正当性・妥当性まで議論できるようになれば、
はじめて、民主主義は成熟したものといえるのじゃないでしょうか?

 でも、学識経験者の中には信用されてない人もいるでしょうからね。
「はじめに結論ありき」でそれに話を合わせている。
「頭のいいやつは、口もうまい」「曲学阿世」
そんなふうに思われているかもしれないでしょう。

 市民が納得できるような指針を示すことが、お出来にならない。
 これは(神門善久 教授もその一員であるところの)
行政から諮問を受ける学識経験者の怠慢であります。




 うがった見方をすれば、
(学識経験者同士の間での)議論に耐えうるような提案をできないので、
素人を扇動して、輿論をバックに議論を抑えようとしているとも考えられます。

 以前いましたよね。

 郷ごとに溶鉱炉を造り、燃料のために山を裸にし、
鉄鉱石は無く、使っている金物を溶かしてクズ鉄を作ったあげく、
若者を扇動して政敵を葬り去り、国民の多くを飢え死にさせた人。

 長年の持論なのに、同僚を説得する理論も構築できず、
議論を挑んでくるものは「抵抗勢力」と名づけて切捨て、議論から逃げ、
権道をもって同僚に刺客を送り、政策をごり押して、混乱の責任はとらない人。


序章-2 行政バッシングの時代 (食の再生は火急の問題ではないのか)

2009-07-29 | 序章 日本の食と農
 神門善久 教授は以下のようにおっしゃっています。

「民主主義国家において、一般に、市民は立法府や行政府に政策の策定と実施を委ねている。市民は投票によって政治家を選出する。政治家が政策を策定(立法)し、行政がそれを実施する。市民は法律を遵守する義務を負う一方、法律の制定やその実施が不適切であるとき、市民は、立法府や行政府を批判する権利を持ち、また批判することが健全な社会を構築する。
 しかし、ある種の政策については、市民自らが政策の策定と実施の責務を分担しなければならない問題もある。善悪の判断の個人差が大きく、かつ、市民間で直接的な利害対立のある問題がそのケースである。それが、市民参加であり、市民参加があってはじめて、民主主義は成熟したものといえる。」

 考え方によっては、とても理想的な民主主義の形かもしれないのですよ。

 善悪の判断の個人差が大きく、かつ、市民間で直接的な利害対立のある問題について、
市民自らが政策の策定と実施の責務を分担する。

 素晴らしいですね。これぞ理想の民主主義ですね。
でも緊急を要する場合は大変な事になりますね。
火事現場において水利を消火栓からとるか河川からとるか議論しているようなものですからね。

 でもね、この場合はそれでいいのでしょう。解決策を模索するためではなく別の目的がおありになるようだからです。

「目のくらむような高い理想を掲げて、一気に現状を全否定させる」

 その高い理想は、できることなのか どうなのかはこの際関係ありません。
この場合はおそらくできないでしょうね。
なぜなら、議員という議論をすることを国民に託されている人が、
自説を述べると「抵抗勢力」として刺客を送られる国なのです、日本って。
とても市民自らが政策の策定と実施の責務を分担など無理というものでしょう。

 むしろできないことのほうが、都合がよろしい。

 なぜなら、これは指導者みずからの行動規範になるものではなく、
指導される側をコントロールするための手法なので、
簡単にできる理想だと、簡単にコントロールから外れてしまうことになるからです。

序章-3 蟻の目からのアプローチ(お金でつる事を市民参加というのか)

2009-07-28 | 序章 日本の食と農
 神門善久 教授は、以下のようにおっしゃいます。

 本書の目的は、食と農という、誰もが知っているはずの身近な問題を手がかりに、日本社会が陥っている集団的誤解を衝くことである。わかったつもりになって仕立てられた悪者をバッシングしているうちにとんでもないことが起こりうる。バッシングしている市民自身が損をしている。それは市民自身の責任放棄が問題の根源である。



 神門教授は、仕立てられた悪者とおっしゃいますが、教授の悪者【旧態勢力】も官僚・土建会社・零細農家と随分とステロタイプですね。教授のおっしゃる事こそ”悪者を仕立てる”ことそのものみたいに見えますが?

 神門教授の文章は、おっしゃったばかりの批判がそのままご自分に当てはまる事がおありになるので、「この教授の話は何なんでしょうね?」と不審に思う事があります。「筆者は「市民は○○であるべきだ」という単なる精神論には与しない」とおっしゃってすぐに「市民の責任放棄が問題の根源である」とおっしゃいます。これって”市民は責任を痛感する者であるべきだ」とおっしゃっているのじゃないですかね。
 「市民としての責任分担(あるいは市民参加)することに経済的インセンティブを与えるから単なる精神論ではない」と述べられていられるのでしょう。ですが、経済的インセンティブがあるからすることを市民参加というのでしょうか?”金が儲かるからする”というのを、市民参加とは言いませんよね。神門教授のおっしゃる事は市民参加というよりは、市民動員じゃないですかね。
 それから、経済的インセンティブとは”費用便益を比較する人々の意思決定や行動を変化させるような誘因をいう”そうですが、これは人々が経済学的に合理的に行動すると仮定した場合成り立つことですよね。食という人間くさい事がそんなに合理的なものなのでしょうか?
 

 それに、”本当はもっと別のことをいいたいのだが、とりあえず食と農とに仮託してお話しよう。” そういう事ですよね。同じ事を6ページ(食と農を語る意味)でもおっしゃっています。 あまりこういうのって、話題にされる方にも、仮託される方にもよろしくないような気がします。
 話題にされるほうは、自分のことはきちんと見ないで、無理やり仮託するものを彷彿させる所だけ肥大化したイメージを流布されるように感じられますでしょう。
仮託される方は、無理やり卑小なイメージを構築されると思うでしょう。
 食と農を狂言回しにして認識を歪めるよりも、ストレートに言いたいことを言ってもらった方が、お互いにいいのじゃないでしょうか?

 わかったつもりになって仕立てられた悪者をバッシングしているうちにとんでもないことが起こりうる。バッシングしている市民自身が損をしないようにお願いしますよ。

序章-4 日本なのか日本人なのか?(農業の国際貢献とは?)

2009-07-27 | 序章 日本の食と農

 神門善久 教授は
「このように、本書は、圧倒的多数派の隊列に与せず、市民(消費者、農民)の責任放棄を追及していく。」
とする中で、市民と日本人(日本民族)は同じものかという疑問を投げかけます。
 その後以下のように話は、進みます。
①今日の日本社会には、いわゆる外国人がたくさんいる。
②彼らも日本の食の一員である。
③農場や食品産業で働くいわゆる外国人も増えている。
④食材の多くは輸入品である。
⑤日本の食と農を通じた世界(とりわけFTAに向けての動きが進みつつあるアジア)への貢献も、真剣に考えるべきである。


 ”世界への貢献も真剣に考えるべき”と言うことですが、すでに貢献しているのじゃないですか。食材の多くは輸入品であるというのがその証拠じゃないでしょうか?これ以上の貢献とは何をしめすのでしょうか?

 国際競争力とは無いものねだりというものでしょう。農業と言うものは(工業製品のように)遠隔地の産地と対等に競いあえるものじゃありません。同等の現地生産物がある場合、鮮度の低下と輸送費によるコスト増で、遠隔地では勝負にならないのが農産物と言う商品です。つまり本来なら、気候風土を活用した特産物以外は輸出にもっとも向かない産業なのです。
 しかし、その中で国際競争に価格で勝ち抜くものがいる。唯一無二の特産物やブランド力で売れるのならわかりますが、価格で勝つというのは農業としては畸形的な生産をしているということでしょう。(食の安全という問題もここから始まるのでしょう。在来型の農業をしている生産者が、自分で食べる農産物の安全性に不安を抱く事があるでしょうか?安全性が問題になるということは、他人が食べるものだから金になればどうでもいいとして作った、見た目は農産物ですが、農産物に非らざる物という事ではないですか?そのような物が、農産物を駆逐したということが問題じゃないんですか)それは低賃金国での工場的なプランテーション型になるのでしょう。あるいは戦略物資とする国があれば、その国の一人勝ちになるかもしれません。国際競争をどこまでも進めていけば、誰かの一人勝ちになり、その後は価格の決定権はその生産者側が持つようになるのです(日本の場合はきっと外国の誰かです)。冷戦時代のソ連のアネクドートで「書記長同志は、いずれはアメリカも共産化するとおっしゃいますが、そうすればわが国は小麦をどこから買えばいいのでしょうか?」というのがあります。冷戦時代にさえ敵対国から食料を買わなくてはいけなくなるほど、偏った生産になるのが国際的な産地間競争というものです。農業分野における自由貿易とは、日本の場合は、自前で食料が手に入らなくなるということです。

 産業育成の国際戦略と言う点で、日本はお話にならないくらい不利です。
 国産OSトロンを覚えていらっしゃるでしょうか?なかなかすぐれたOSだったようですが、アメリカ商務省の横槍で潰えてしまいました。国家戦略として産業を育成する外国と、そんなことは頭の隅にも無い日本とでは、勝負にならないでしょう。フル装備の正規軍と、その辺で拾った棒を持った自警団が対峙しているようなものです。勝負は初めからしないほうが怪我が少ないというものです。農業においてはもっと酷い。

 また床屋談義のように、農産物の国際価格などという数字を持ち出す方がいらっしゃいますが、この場合の比較はどのようにしていらっしゃるのでしょうか?為替レートで換算していらっしゃるのでしょう。
 ご承知のように経済の形というものは、その国々・地域により違います。賃金の安い国・土地の安い国・工業製品の安い国・命の値段が安い国それら色々な経済の形がある中で通貨の交換比率を決めるわけですから、政府・中央銀行が機能していれば、自国の産業全体でみて有利になるようにレートを誘導しているはずです。 国費を費やして、為替レートが日本の産業全体で有利になるように政府日銀が調整・市場介入しているのに、(産業の一番隅っこの味噌っかすみたいな)農業に有利な数字が出たら、それは日銀の怠慢や政策の誤りというものではないですかね。日本という国の破綻ですよ。
 各国の経済は色んな形をしています。たとえてみれば、丸や四角や三角の形をしたものがある。それぞれの重心を結んでバランスをとるというのが、為替レートによる通貨のバランスでしょう。そんななか「三角の角が丸よりはみ出している」と怒っているのが農産物国際価格論者です。農業のような場末の産業がはみ出しているのは当たり前です。それの調整のために関税というものがあるのでしょう。主義主張のほうが大事で、関税というものをお認めになりたくないのでしょうか?

 日本という国は、なんといっても土地が高い。そのように経済の形が特異な形をしているのに、その土地というものを絶対に必要とする農業というものが、国際標準と同じはずがありません。そのうえ「廃業して土地を明け渡せ」という圧力が常に農業を歪めています。神門教授が唱える「農地転用転売期待説」「偽装農家説」もそのようなものでしょう。
 バブル経済の全盛期に、東京の土地の総評価額とアメリカ全体のそれとが同額であるというようなことがいわれました。愚にもつかない事と思いますが、当時は真面目に、したり顔でおっしゃる紳士方が大勢いらっしゃったものです。今また同じ顔をして、農地を農家が独占しているのは犯罪だ とおっしゃっていらっしゃるみたいですね。どこまでも、飢(かつ)えた人たちだ。

 また、とりあえず現地での値段が現在安いからといって、実際に他国が大量に買い付けに来た時に価格が高騰しないものか。損しちゃうじゃないですか。
 それに安いからと買い漁る事が妥当なことなのでしょうか?たとえば幕末の日本では銀と金との交換レートが国際的な相場と違っていました。諸外国は競って、持ち込んだ銀と日本の金との交換を行い莫大な利益をあげました。それは日本を揺るがすほどの物価の高騰をまねき、攘夷論が席巻する基礎となりました。今、日本が強い円を使って外国の食糧を買い漁る事は、その国の庶民を飢餓に追い詰め排日論を起こさせるのではないでしょうか?

 外国籍の方の農業への参入を考えていらっしゃるようですが、これは単にもっと安い労働力が欲しいということにすぎないのじゃないですか。
昔日本の零細農民が満州やブラジルに移民して、結果としては棄民されたようなことをまたするのじゃないでしょうね。長い目で見るとむしろ近隣諸国との関係をギクシャクしたものにするのじゃないですかね。
 なにしろ、現在自営している零細農家をも駆逐せんとなさる神門教授では、外国籍の方をは”使い捨て”以外の処遇は考えていらっしゃらないのではないですか?
 「まず、槐より始めよ」
今居る人を大事にできない人が、新しい人を大事にできるとは信じられないですよ。


2-1 基礎学力問題と食の問題の類似性(消費者の責任とはあるのか?)

2009-07-26 | 第2章 食の議論の忘れもの

 表題の「基礎学力問題と食の問題の類似性」 というのは さしみのつま ですね。
神門善久 教授がおっしゃりたいことは、以下のことですよね。

”食について色々な問題が起きていて、何とかすべきだという危機感を持っている消費者は多いだろう”
「近年の食生活の乱れの背景には、消費者の利便性追求がある。
消費者の利便性への要求が、結果的に安全・安心を犠牲にしてきたという側面もある。」
「利便性追求のツケを政府・企業・生産者・学校に押し付けるのは消費者エゴである」

 ここで、消費者エゴという言葉が出てきて、政府・企業・生産者・学校と対比するような存在として消費者というものが現れます。

 ですが、消費者というものは、政府とか企業とか生産者とか学校とかの様に責任を負える実態というものがあるのでしょうかね。

 人類はみな消費者であるのですから、消費者という立場があるだけなのじゃないですか?
 集団としての実体が無い市民に”消費者”という名前をつけて責任を負わせる事は、
そしてその行動を”消費者エゴ”と呼ぶ事は、いかなる論理なのでしょうか?