遥かなる旅路(心臓バイパス手術手記)+(糖尿病日記)

実名で語る心臓バイパス手術手記+匿名で公開する糖尿病日記

終わりによせて

2007年04月14日 | Weblog
 あれから9年が経過する。あの時の、心臓の検査
では、医師は、問題ないと断言した。
 しかし、私は、心臓バイパス手術をしてしまった。

 でも、神様は、まだ私を生かせてくれた。そして、
死を覚悟しながらも、この世に戻ってきた。

 胸の左が引っ張り、寒さには弱く、背中が痛む。
 そんな私でも、九州と、北海道をマイカーで旅
した。そして、今、4月の中ごろ、後少ししたら、
もっと暖かくなる。今回は、近畿方面へ旅をしよ
うと計画している。源泉を求めて、そして、そう
とうな年齢になった私の姉兄に会いに行く。
 私が、車で会いにいける今、姉兄に会う為に・・・。

 そして、チョッピリの妻への源泉の旅をプレゼント
しようと・・・・・・。

 旅から帰ったら、今度は、「肺化膿症」を公開します。
 それでは、それまで、・・・・・・・。

日記(8月6日~最終章まで)その2(最終章)

2007年04月14日 | Weblog
平成10年8月10日 (月曜日)    
 
 すっかり自分は忘れていた。例の事件をである。
 しかし、今朝いつもとは違った態度で朝一番に
我が主治医は私の前に現れた。叱られた。仕方が
無い。

身から出た錆と言うもの。もっとも主治医とし
ては、私を預かっているのだから仕方が無いのだ
ろう。世の中、計算通りにいかないものだ。

 家族には邪険にされるし、担当看護婦さんには
叱られるしその上今朝は、主治医にお灸を据えら
れる。採血の日でありおっくうであったが、看護
婦さんは例によって、「お通じとお小水の昨日の
回数を教えてください」。と自分の仕事を済ませ、
何事も無かったようにさっさと別のベッドに行っ
てしまった。後から尋ねたところ、「明日、ター
ゲス7回法とMTTをやる」との事であった。明
日は、1日に8回、採血をするというのである。

 絵を描き始めたのであるが、それなりに反省し
ながらもイヤーな気分なので、描くのを止めよう
かと考えていたら、隣のベッドで私の主治医が隣
のKさんに、

「よかったね、足を切らなくてもいいよ」

と言っている。今描いている絵をKさんにお祝い
のつもりであげよう。決して上手ではないが、私
の気持ちである。(ホームページの絵がそうであ
る)糖尿病患者は、良い話を聞いてもお祝いに酒
を飲めるわけでなし、甘いものを食べられるわけ
でもない。せめてもと赤飯炊いても腹いっぱい食
べられない。何と言う情けない病気なのだろう。

 だから下手な私の絵でもプレゼントしようと気
を入れて描き上げたのである。

 忘れていた心臓が私に呼びかけ始めた。

「俺、ここにあるよ」

と、呼んでいる。きっと病院逃走事件に動揺した
のだろう。血糖値も200(mg/dl)を超えた。

  血糖値と環境の変化というのは密接な関係が
あるようだ。
しかし、心臓検査で、

「今、直ぐに心臓がどうこう言う事ではない。心
 臓の事については、忘れてもいいよ」

という私の心臓のエコー検査をした先生の言葉を
思い出した。



平成10年8月11日 (月曜日)
   
 今日は、ターゲス7回法と畜尿、それにMTTとい
う検査を1日かかりで行う。どのような検査か判ら
ないがともかく一時間おきくらいに採血をする。

全体で、7回の採血。採尿は朝起きたらすぐす
るということらしい。4時に目が覚めたので直ぐ
に蓄尿をする。今日は運動ができないようだ。

治療日誌

退院前の検査のため、血糖値の自己測定はやらない。


運動量 検査の為なし

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

平成10年8月12日 (火曜日)
   
 今日は、最高の日だ。検査は昨日全部終わり、
今日から2日間の私の仕事は蓄尿だけである。
注射から開放されたのだ。昨日は歩いていな
いので血糖値が上がっていると思う。しかし、
結果は10時過ぎでないと判明しない。時間が
きたらナースステーションに尋ねに行こう。

今までは自分の行動をメモにしてテーブルの
上に残して運動に行っていたが、例の事件があ
ってからは、運動に出る前、帰ってからはいち
いちナースステーションに連絡をするように変
えた。

 面倒ではあるが、管理する側からみればそれ
が当然だろうし、管理される側からみても義務
であろうと考えたからだ。

 多少照れくさいが、

「運動に行ってきます」

そして、

「帰りました」

非常に簡単な短い言葉である。

 こうして何時ものように、JRのX駅の側にあるデ
パートまで運動をかねて飲料水を買いに行った。

 私は面白い性格で、本やコンピュータの周辺機
器等、部品を買うのにかけるお金はなんとも感じ
ないのであるが1本、240円の烏龍茶がもった
いなくて買えないのである。そこで安売りを買う。

 烏龍茶が198円で安売りをしていれば買い、
水が198円なら水を買うと毎日わずかのお金を
ケチって1日、2リットルの飲み物の補給をする
のである。私が2リットルのお茶を毎日飲み始め
てから、211号室の患者さんは、ベッドの側の
小さなテーブル(と言ってもテレビの台がテーブ
ルを兼ねている)の上にペットボトルを置くよう
になってきた。全員が糖尿病患者であるから他人
のやっていることで良いと思えることは皆がする
のであろう。

 入院1ヶ月中に購入した雑誌代は、およそ1万
8千円。198円のお水、お茶ならたくさん買え
る金額である。いつも運動するデパートの建物は
階段の幅が広く、運動に最適である。確か、6階
建てであるから階段を一往復すれば適度な運動量
となる。ただ、一気に上れるのは1階から3~4
階ぐらいまで、そこで息が苦しくなるし、足が動
かなくなる。そんな時はその階で途中下車し、売
り場をひとまわりして又、階段を昇る。私は、絵
の用具や、雑誌などをついつい買ってしまうので
ある。

 また、バッグを買ったり、キャンプ用具を買っ
たりと運動をしながら結構に楽しめる場所であった。

 運動療法を仕事のようにしていると、いろいろ
とバリエーションを付けないと続けるのは難しい
のでJRのX駅付近と、W駅付近の本屋さんには毎回
行っている。


診療日誌

今日、採血はないので自己採血をする。

血糖値

7時00分 89( mg/d)
  11時00分 205(mg/dl)
 17時00分 98(mg/dl)

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

平成10年8月13日 (木曜日)
   

 10時から11時頃まで運動に行ってきた。
 例によって、本屋さんに引っかかって30
分ぐらいロスをする。帰ってくるとまた、新
しい人が入院していた。

今日、211号室のベッドはまた、満員御
礼となった。ちょうど1ヶ月、明日は退院の
日となった。私は結構時間をつぶすのがうま
いので退屈をしなかった。この日記を付ける
事も時間つぶしのひとつであったのだ。

 もっともパソコンがなければうまく時間を
つぶせないという不器用さはあるが...。

 これで、入院日誌を終える事になる。今回
の緊急入院をS先生に言い渡されてもまだ、

「俺は、大丈夫、糖尿病で倒れない」

と思い込んでいたのも事実であった。入院して
も今回のデータのような良好な結果は期待して
いなかったし「程々に血糖値を下げるか」。

 ぐらいのつもりであったことは述べたが、食
事制限と運動療法を守って10日目ぐらいから、
空腹時の血糖値が下がり出したのには驚いた。

 その後、食後5時間の血糖値が下がり出し、
さらに食後、4時間に変化が現れた。このよう
に、確かな手応えを体験して、コントロールが
実行できると信じ始めたのであった。しかしま
だ2時間後の血糖値は正常値の2倍はあるので、
今後の課題となると思う。糖尿病は対症療法し
かできない。

 この重要な現実を糖尿病患者自身が認識でき
ないでいるとすれば非常に不幸な事である。怖
さを知っているが、「まさか、自分が...」と考
えている人の多いことも事実である。

我々、糖尿病患者は、

「贅沢したからだ、糖尿病は贅沢病だよ」

と健康な人に簡単に言われるし、糖尿病患者を
見舞いにくる健康な人が甘いものを土産に病院
を訪れる。

「1つぐらい、いいよ。食え食え」

と持ってきた甘いものを薦めている見舞い客も
いた。こんな状態を病院の1室で見ている私は
非常に悲しくなる。「俺たち、糖尿病患者は甘
いもの食いたいんだよ我慢しているんだよ」。

 とその人たちに叫びたい気持ちでいっぱいで
あった。 明日、平成10年8月14日、お盆に
私は帰宅する。

女房は、

「盆に帰ってくるのは、死んだ人だけだよ」

と嫌ったので、先週の金曜日にいったん帰宅をした。
  大事に至らなかったのは、一重にS先生と、主治
医ならびに、病院関係者の皆様のお陰である。

 それに私についている幸の神と、ほんの少しの
私の努力、家族の私に対する思いやりも忘れては
ならない。

「よし、これでもしかしたら、おやじの年齢72歳
 までは生きられる可能性が出てきたぞ」

と、思いを膨らませて、明日の退院を待つ。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

平成10年8月14日 (金曜日)


 今日は退院の日である。とうとうその日が来た。
家族が11時過に病院へ来た。長男、次男と女房
が1ヶ月間お世話になった我が211号室へ入っ
てきた。

 昼食までまだ少しある。妻は荷物を片付けて、次
男と女房と私は、ベッドに座って食事時間まで待っ
た。本当はすぐに帰宅したい気持ちもあったが、大
体において退院する人たちは昼食を食べてから帰る。

 これは会計がそのくらいの時間までかかるからで
ある。JRと私鉄を乗り継いで、1ヶ月ぶりに社宅に
帰ったのは日中の一番暑い時であった。家に帰ると
何故か無性に疲れが出た。

  恐らく張っていた気持ちが解けたからだろう。
  夕方まで眠ってしまった。目が覚めると、これか
ら始まるストレスと仕事による食事の不規則で以前
の状態に逆戻りするのではないかと考え込んが、仕
事していれば、当然これから逃げることはできない。

糖尿病患者が合併症を併発せず、良好な血糖値コ
ントロールをするには、自分で管理ができなければ
ならないが、それにも増して、周囲の人々の理解が
必要であろう。

自分と自分の大切な人を守るためにも糖尿病と
戦って行かなければならない。それぞれがそれぞ
れの方法でがんばれば、普通の生活ができるのだ
から。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

「もう、約束の72歳じゃ、これ以上生きると妻が
体を休める時が無くなる。2人の子供たちも私に
似合わず良く頑張っているわい。そんじゃ妻よ、
ゆ っくりと余生を楽しみな」

 「... お先に!」

と布団に入って眠るがごとき人生を全うしたい。


日記(8月6日~最終日まで)その1

2007年04月14日 | Weblog
平成10年8月6日 (木曜日)
   
 昨夜、10時の採血時は超ベテランの看護婦さん
であった。しかしである。

「あら、届かなかったわ!」

 すこしも騒がず注射針を少しもどして、方向を
変えて再度針を差し込むところなどは、いつかの
大阪弁の看護婦さんと同じだ。すごい早業である。

さすがに、

「痛い!」

と言う時間も与えてくれなかった。針が血管に届
かなくってグリグリまさぐり、考えあぐねている
あの新米の看護婦さんが懐かしく思えた。もっと
も痛さの違いには相当な差があるが...。

今、私の右腕には刺しそこなった注射針の跡が
2~3ミリの長さで、小豆色の細長い線として
くっきりと残っている。今日、主治医が回診に
来られた。

「うん、どうかな?」

私が答える。

「今朝80(mg/dl)です。もう完全に80台に
 落ち着きました」

「運動が効いているネ」

と言われた。

「今日は1日中、運動していいですか?」

「いいよ」

と返事が返る。

「昼ご飯は外で食べます」

と言うと、

「駄目だよ、ここのご飯をたべなければ」

と、返事が返ってきた。

「1日中、歩いていると病院へ昼には戻って来  
 れません」

と切り返すと、

「だ―め」

と何か諭すように言われた。

仕方が無いので、

「わかりました」

と返事をする。

 ほんのチョピリ外食を期待して持ち出した1日
がかりの運動は、このように無残に主治医に打ち
砕かれてしまった。さすが主治医、私の考えてい
る事を十分お見通しであったのだろう。

今回のゲームは負け。しかし、「信じてもらえな
いのかなあ」と、少し寂しい気持ちでもあった。

 9時から(昨日は10キロのバックが重過ぎた
ので、5キロに減らして)、病院からJRのW駅ま
で運動に出かける。片道約1時間、正確には、
50分ぐらいで行ける。

 W駅前のベンチで休んで帰ってきた。X駅の近く
で病院の看護婦さんと出会った。やさしいしゃべ
り方をする看護婦さんで、少しぽってりとした体
格の人である、主任さんらしい。自転車を降りて、
びっくりしたように、

「どうしたの?」

とあのやさしい声と、しぐさで尋ねてくれた。

「W駅まで...」

「そう」

 それだけの会話である。しかし私の心は凄く和ん
だ。ありがとう主任さん。食後、直ぐなら、歩くに
まだ元気がある。でも1時間も5キロの荷物をかつ
いで歩いていると、食事制限をしている身にはつら
い。歩く姿は、蛇行歩行である。機械的に足を前に
送ろうとするのであるが、進むのは気持ちだけ、な
かなか前進しない。向かい風でも吹こうものなら、
1歩、2歩後戻りである。この姿は以前の散歩の時
と変わっていない。運動を続けてから今までの間に
変化が現れた。血糖値が下がると目が霞んで、暗く
なったが、最近は長い時間歩いても目の霞みが少な
くなってきた。血糖値の変化に身体が順応してきた
ものだろう。

 血糖値が高かった時期は身体がそれに慣れていた
のである。血糖値が正常である日が多くなったので、
身体が違和感を感じなくなったのだろう。

 今日は大事件を起こしてしまった。自分は、単
なる悪戯のつもりであったのだが...。

 事の起こりは、外泊予定日が検査日に当たった
ことである。

つまり、主治医にお願いして、先週から外泊の準
備をしていた。先生いわく、「土曜、日曜は検査
がないから来週の土曜日、日曜日に帰ったら」と
いうことで大方の外泊日は決定していた。

 しかし、実は外泊日の日曜日は心臓のエコー検
査の日であったのだ。この日もいわく付きの日で、
最初の検査の予定日は7月の25日の土曜日であ
ったと記憶している。

 当日の午前、突然に看護婦さんが私に、

「今日の午後エコーの検査がありますから」

と伝えに来た。(毎回そうであるが、突然に言う
のである)私は元来、見舞客にきていただくのは
あまり好きでない性格であり、出来るだけ遠くの
場所にある病院に入院先をお願いした。

女房に対しても、

「入院中は病院に来るな」

と堅く言ってある。しかし、ナップザックのファ
スナーが壊れたり、どうしても女房の力を借りな
ければならない事態が生じた。その為もあって妻
が土曜日に長男と一緒に病院へ来ることになって
いたのである。
 そのような事情も知ってか知らずか、ただ事務
的に検査を当日に伝えられた私は不満があった。

入院患者で総ては病院にお任せします。という
約束はしているが、だからと言って、検査の当
日の朝伝える事はないだろう。まして、土曜日、
日曜日は検査がないと主治医が言っていたし、
常識として患者の都合も聴いてもらいたい。毎回、

「今日の午後、検査をします」

では困る。昨日連絡してくれていたら、昨日のう
ちに電話で面会日を変更できるではないか。

もう家族はこちらに向かっているのだ。と思った
ら、急に怒りが吹き出した。その結果、看護婦さ
んに逆らってしまった。

「今日は、家族が面会に来ます。楽しみにしてい
 たのです。家族と一緒に外出することを」

そうしたら、

「なぜ、外出するのか」

と詰問された。

「土曜日であるし、検査がないと考えていた。急
に検査といわれてももう家族がこちらに向かって
いる。外出できるのか出来ないのかハッキリして
くれ」

といつになく私の声はうわずっていたと思う。
 看護婦さんは、命令に従わない私への苛立ちと。
それに、患者である私の、

「モルモットじゃない」

人間としての意志が在るのだという腹立ちが一瞬
火花を散らした。結局最後は先生に尋ねてみると
いうことで落着した。そのような経過から、8月
9日の日曜日に検査日が変更されたのである。

冷静に考えると、予定があれば私が病院側に都合
を聞くべきだったと思う。しかし、当日に周知す
る病院側の対応が度重なっていたのでイライラし
ていたのだと思う。その後も検査などの予定を前
もって知らせてくれたことはなかった。そんな事
があった後、「魔がさす」というか年甲斐もなく、
子供のようないたずら心がでたのである。それが
大きな問題となってしまった。

ちょうど金曜日は主治医は医大の方に1日行かれ
るとのことがわかった。金曜日は採血の日ではあ
るがまあ、先生も留守にされるし、いいだろうと
看護婦さんが言ってくれたので、採血から逃げら
れるとの嬉しさも伴って外泊予定の土、日曜日を
1日シフトして金曜日から外出願いをだした。

そこまでは全く問題がなかった。しかし、一瞬、
次の考えが頭をよぎった。

「金曜日は午前9時30分から外出願いを出し
ている。しかし木曜日は畜尿だけで採血も何
もない。畜尿は午前零時にデーターをとる。
いつもの2、500CCに近い尿をすでに畜尿
しているし、それなら、今日すべき患者とし
ての仕事はすべて終わっている。明日朝9時
過ぎに外出するのも、今夜の夕食後外出する
のも同じことだ。病院にいても単に、ベッド
で一夜を明かすだけである」いわゆる、私独
自の合理性がでたのである。今までの入院生
活が患者として、模範的であった事も災いした。

いつもいいかげんなことをしていればこんなに
大きくはならなかったかも知れない。それに、事
情を把握している看護婦さんも交代してしまった。

悪い事が重なる時は重なるものである。

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 置き手紙には、

「畜尿も終わったし、体の調子もよい。日曜日の
朝10時30分頃には帰って検査を受ける」

「ごめんなさい。今から出発する。主治医の先生
には知らせなくていいですよ」

「私を探さないで下さい」

と書き置きをして出発した。病室の出口で当直の
もう1人の看護婦さんに見つかってしまったのも
運の尽きであったろう。こうして、予定していた
時間より早く無断外出が発覚してしまったのであ
る。

 車中の人となった私は、当直看護婦さんの追求
の電話に女房が平謝りをしている事すら知らず、
3時間余りの夜行列車の旅を楽しんでいた。車中
は、通勤客の汗の臭いがして、無性に懐かしい。

わずか3週間余りの俗世間からの隔離なのに。普
通私は、家族に心配をかけないために自分の行動
を逐次連絡している。が今回は突然ドアの前に立っ
て驚かせてやろうという気持ちと、雨が降っているし、
10キロ以上の荷物を担いでいるなどで早く家にた
どり着きたい気持ちから電話を入れなかったのである。

 私が夜汽車の中で感傷に浸れたのはせめてもの神
様からの贈り物だったのかもしれない。もし、電話
をかけようものなら、電話口で女房に説教され、家
に帰る気持ちは吹っ飛んでいただろう。

何も知らない私はただひたすら重い荷物をかつい
て一生懸命に家路を急いだ。早く家族に会えること
を楽しみに...。家に着いたのは夜の10時を過ぎ
ていた。妻がにっこりと笑って出迎えてくれるはず
だった。

しかし、玄関のベルを鳴らすと、いつもの返事が
なく、ソーとドアが開いて長男がノソットした声で、

「どうしたの?」

とただそれだけ。家の中に入ると追い討ちをかけ
るように女房が、

「いったいどうしたの、今看護婦さんに散々しか
られた。何があったの?」

つづけて、

「私を探さないでください。と手紙に書いてあった
らしいけど、どうしたの!」

 散々な結末となってしまった。

「冗談は時と場所を選べ」

と、神さまが笑っておられる。間抜けな私の失敗で
ある。


診療日誌

血糖値(自己測定)

7時00分  80(mg/dl)
11時00分 122(mg/dl)
17時00分  87(mg/dl)
22時00分 175(mg/dl)

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

平成10年8月7日 (金曜日)
   
 昨夜は久しぶりに4方をカーテンで仕切られた
畳一枚にも満たない空間から開放された。
やはり家族と一緒に居るのは良いものだ。なか
なか寝付かれなかったのは興奮していたせいだろ
う。

 それでも女房から、看護婦さんに電話で叱られ
たことを聞きながらいつの間にか眠ってしまった。

 今朝は晴天で暑い。やはり気だるい気分はあま
り変わっていない。空腹時の血糖値が93(mg/dl)
でありこの値は正常値の範囲にある。このだるさ
はどこから来ているのかわからないが正常の血糖
値を身体はまだうけつけないのだろう。決して夏
バテはしていない。しかし起床後、少しすると元
の状態に戻る。

 日中の暑いさなか、1時間ばかり散歩した。11
時の血糖値は202(mg/dl)といつもより下がっ
ている。運動や外泊期間中での食事はうまくいっ
ているようだ。「かつお」の刺し身や、トロの寿
司など、パックで買って行く人を見つめて羨まし
かったが、今日は、「かつお」の刺し身を自分で
買って食べることができるのだ。北習志野にある
Sストアに妻と行き、「かつお」の片身を買った。

 本当は3~4切れしか食べられないのだろうけ
ど、少し刺し身の厚さを薄くして量を多く見せて
いるのは女房の思いやりであろう。

 昼、晩続けて「かつお」の刺し身を食べた。幸
せを感じた瞬間である。夕方の散歩は、車で、パ
ソコンとその周辺機器などを販売している店に行
った。

夏だから夜8時ぐらいまでは営業しているのだ
ろうと思っていたら7時半に閉店であった。

 道路が混んでいたため、店についたのは7時1
5分、もう店員さんが入り口を閉める準備をして
いた。プリンターのインクが無くなっていたので
どうしても購入しなければならない。

 急いで3階まで階段を駆け上がった。胸の鼓動
がけたたましく騒ぐ。しかし、階段を駆け足で登
れるまで心臓が良くなっているのだ。目的のイン
クを買い閉店の店内放送があったとき、スキャナ
が目に入った。欲しかったものが1万3千円で売
っていた。

 目玉商品だったのだろう。通路に山積みしての
販売であった。病院の近くにパソコンショップが
あるが、そこと同じ値段であった。製品は2世代
前ぐらいのものであるが、本の白黒コピー程度の
ものであれば十分使えると判断し、購入すること
にした。

(カラースキャナであるが、白黒印刷にすればこ
のぐらいの値段でも十分に使えると考えた)

 大体、私は流行を追わない性質である。しかし、
今回の購入したコンピュータにはお金をかけた。

 これは、帰国するとき、

「外国で一生懸命稼いだのだから、退職金代わり
 に100万円くれないか、コンピュータを買う
 から」

と以前に妻に了解を得ていたのである。今また、
思いがけない衝動買いをしてしまった。

 これで、我が部屋もさらに狭くなる。

診療日誌

血糖値(自己測定)

7時00分 96(mg/dl)
  11時00分 143(mg/dl)
  17時00分 82(mg/dl)
22時00分 201(mg/dl)

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  

平成10年8月8日(土曜日)

 なぜか、今日は日記を書いていない。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

平成10年8月9日 (日曜日)
   
 昨夜は、コンピュータのソフトをインストール
(コンピュータのハードデスクという大きな記憶
容量を持つ入れ物に買ってきたソフトや周辺機器
を動かせるためのソフトを入れて、コンピュータ
でそれらのソフトや、周辺機器を使えるようにす
ること)に時間がかかり遂に今朝の2時までかか
ってしまった。

もう寝なければ7時には起きられないと感じ、
パソコンだけ動かしたまま、自分は布団に入った。

 うつらうつらと眠ったのだろか朝6時に目が覚
めた。女房の作った朝ご飯をたべて7時10分過
ぎにハイキング用バックにノートパソコンと本を
入れ家を後にした。駅の階段は運動のためすべて
を歩くようにした。エスカレーターを使ったのは、
総武線フォームから中央線フォームまでの間だけ
であった。

 今日は血糖値の降下が原因で目の前が暗くなる
事はなかった。
これは、電車の乗り継ぎで連続に歩く時間が少な
く、疲れる頃に電車の座席に座って休息をとること
ができたため低血糖に至らずに済んだのだろう。

 家での食事コントロールもうまくいったようだ。
90(mg/dl)台と101(mg/dl)が最高値である
からこの範囲でのコントロールができれば問題はな
い。

 少しではあるが環境の変化で気分転換ができたと
思う。パソコンにスキャナは接続する暇が無かった
けれど。それなりに楽しい外泊であった。病院の関
係者には先刻のトラブルで迷惑をかけたが、家族と
共に過ごせる時間がその分長く取れたのも嬉しかっ
た。

 入院中に、こまめに記録したデータの整理ができ
たのも非常に嬉しい。さあ今日から金曜日の退院ま
で、俗世間から隔離された生活に入ろう。

治療日誌

約束通りいよいよ検査だ。 検査が済むまで水も飲
めない。検査は、午前中との事であるが何時ごろだ
ろう。

 金曜日の夜から日曜日の朝までのわずかな間に2
11号室の住人は大分入れ替わってしまった。それ
にベッドも満席になっているようである。

血糖値(自己測定)

7時00分 101(mg/dl)
11時00分 173(mg/dl)





日記(平成10年8月5日)

2007年04月12日 | Weblog
平成10年8月5日 (水曜日)
   
 朝から太陽が出て気持ちの良い1日になりそうだ。
  また、昨日救急車で患者さんが運ばれた。

  私のベッド左側の患者さんは遠慮深い人である。
  入院の時の状況を思い出して、自分の足を、

「臭くって、臭くって、肉が腐るとあんなに、臭
 いものかネ」

といっていた。夜も眠れないようだが、夜中もじっ
と静かに我慢しているようだ。朝、看護婦さんに、

「昨夜、足が痛かったが辛抱できないほどでなか
 ったので呼ばなかった」

といっていた。昔気質の人である。今日も、Y医大
で、足の切開をするのだといっていた。

「もう嫌だな、メスを入れられると痛いんだよな」

 看護婦さん曰く、

「痛いのは、神経がある証拠よ、痛い方がいいんだ
 よ」

壊疽の場合、切開をして、菌を空気に触れさせな
い事にはいけないらしい。だから、次から、次へと
切開し、足の上の方まで切断していかなければなら
ないのだ。見舞いにこられた方が、

「足の指1本無くても力が入らないから、お医者さ
 んに頼んで1本でもいいから残してもらう
ようにした方がいいよ」

と何度もいっていた。でも、実際はそんな簡単なも
のではない。静かに、長い時間をかけて忍び寄った
糖尿病は、神経障害それに、壊疽という合併症を引
き起こし、足が腐ってしまった今、足を切って、足
を腐らせている菌を絶滅させる対症療法しか医師の
ほどこす医療技術はないのである。

 医療関係者つまり、医師や看護婦さんは、最初は
患者に、

「これとこれは駄目ですよ」

と教えるのであるが、患者が彼らの目を盗んで甘い
物を食べたり、飲んだりする。これを見つけて、注
意していた医師達は、だんだん注意しなくなってく
る。一種の諦めである。最初は、隠れて食べていた
患者も、段々とエスカレートして堂々と食べるよう
になる。当然、あんな面倒な運動療法なんてしない。

 インスリンを注射する事により、血糖値が降下する。
 血糖値が下がったことを良いことにして更に食べる。
 結果として血糖値が上昇する。インスリンの量を増
やす。この追いかけっこを繰り返しながら静かに、糖
尿病は悪い方向に向かっていくのである。一応、血糖
値がインスリン注射によって安定すれば、主治医から
退院を許可される。大体、糖尿病患者でよほど重症の
合併症が無い限り、白内障などの手術を含めて1、2
週間ぐらいの治療で退院して行く。

 医師達の目から開放された糖尿病患者は思う存分飲
み、食べそして、インスリンを自己注射して、自分で
は血糖値コントロールを上手にやっていると錯覚しな
がら5年、10年と過ごすのである。

 人によってはこの状態が7年ぐらい続くだろうか、
普通は、糖尿病の初期の頃は、医師の指導により運動
療法と食餌療法が行われるだろうから、発病してから
およそ10年から15年は経過しているかも知れない。

 その後、何らかの異常を感じるようになる。

 そして再度入院し、医師に病気の悪化を告げられる
事になる。患者は「そんな筈が無い、インスリンを指
導どおり注射していた。通院もきっちりとしていた」
と。患者にとっては寝耳に水という事になるのだ。こ
のとき、糖尿病の怖さがほんの少しわかり始めると同
時に、糖尿病に対する諦めの気持ちが出てくる。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 これは、ある患者さんの述懐である。

「どれだけ努力をして糖尿病のコントロールをして
もどうにもならない。俺は、一生懸命コントロー
ルをやってきたじゃないかなのに、ぜんぜん良く
ならないんだ」

 この呟きが糖尿病患者の本当の叫びではないだ
ろうか。医師が、

「言う事を守らないから、こんな事になるんだ」

と患者に対していう言葉を何度も聞いた。

 しかし、患者は何故叱られているのかさえもわか
らなく、足の指3本を含めた半分近くがえぐり取ら
れて無くなっている現実だけが残るのである。医師
と患者の食い違いは初診の時から生じているのかも
知れない。糖尿病が現実のものとして患者の身体に
現れ始めるのは、年齢的にも50歳代に入るか、4
0歳代の後半で働き盛りの時である。この事は、自
分の人生環境を変えるという大変な時期である。

 即ち、入院生活が1ヶ月以上になり、休職、退職
を考えなければならない時となるのである。

 隣のベッドの患者さんも、見舞いの人と話していた。
見舞い客曰く、

「足が無くなったら、もう働けないな」

 患者さんが答える。

「その時は、会社を辞めるさ、ただ、この歳で娘に
世話になるのは嫌だな、そうなったら死ぬよ」

 会社を辞められるだけの蓄えがあればよい。長い
入院生活で恐らく貯えも底をつくだろう。家
族の疲れも限界にきている。頻繁にきてくれた見舞
い客も足が遠のく。そして、場合によっては、ベッ
ドに両手、両足を縛りつけられながら大声で1日、
2日間、わめき散らして意識の無いまま死んで行く
場合もあるのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 食事を済ませ歯を磨きに行こうとしたとき、中
年の女性に呼びとめられた。糖尿病患者第一号で
妊娠、出産をされたらしい。また、娘さんも子供
さんを出産されてこれまた、糖尿病患者第一号の
子供さんが生んだ子供ということになりNHKか
ら珍しいからと取材を受けたと話された。

 当時、オウム事件が発生し放映はそちらの方が
ニュース性があるということでオウム一色になっ
たが、その後5分ほど放映されたとの事であった。

 幸いにして彼女は還暦を過ぎたとおっしゃって
いたが、合併症が出ていないということであった。

 若い頃、糖尿病になったから真性糖尿病即ち、
インスリン依存型である。当時はインスリンの種
類が一種類で速効型しかなかった時代であったと
いう。最近になって目の治療を行ったとの事であ
った。

 45年の間、糖尿病という病歴の中で最近まで、
合併症が出ていない事はすばらしい事であり幸運
であったといわなければならない。

「食生活が生きるための楽しみの一つであるなら、
病人に糖尿病食をたべさせるのはどうかと思う」

と話された。病院の糖尿病食に不満を述べられたの
だと思う。糖尿病食といえども、もう少し患者が楽
しんで食べられるよう配慮すべきではないかとも言
われた。案外、食べる物は自由にやって来られたの
だろう。

 糖尿病経歴30年の私より更に長い糖尿病生活を
している方もおられるのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 部屋の隅のベッドのご老人が大声で何かわけの判
らない言葉を発した。突然に大声で何かを発するの
で慣れるまで大変であった。彼は、仕事をしてテレ
ビを見て、普通のように喋って。

 ぜんぜん精神にも異常が見受けられない。突然大
声で2~3回わめく事と、テレビの音量が大きい事、
後はご自分の目の手術をしたということ、水晶体に
レンズを入れたため10人に1人は硝子体が敗れる
ということを眼科医から聞いた事が気になり、自分
もその1人ではないかと心配している事(硝子体が
敗れる確立は各眼科医によってその意見が異なるら
しい)ある先生は、1、000人に1人ぐらいでは
ないかという)。ぐらいであろうか。

 例によって、看護婦さんの甲高い声が私の鼓膜を
震わせた。

「検温の時間です」

 隣の患者さんが点滴を4時間かけて注入してる。
もう本人は相当にイライラしている様子だ。

「看護婦さん!」

と小さな声で呼ぶので、ナースコールのボタンを押
せないのかと見にいってみると、点滴が遅いのでい
らいらしているとの事。「看護婦さんを呼んでもだ
めですよ。看護婦さんはあなたの主治医の言う言葉
しか守りませんよ」と納得させた。

 窓際の患者さんが氷を欲しがったので、買いにい
って来た。

「氷を食べる前に看護婦さんに食べて良いかどうか
尋ねてください。私は、あなたの病気を悪くする手
助けはしたくないから」

といったが、本人が大丈夫というので買いに言った
のである。糖尿病で氷が悪いと聞いた事はないから
いいだろうという気持ちもあった。「冷たいコーヒ
を飲みたい」というお隣の患者さんの気持ちに負け
たのだ。本当はコーヒも良くないが、砂糖や、ミル
クを入れなければ、カロリーもあがらないだろう。

診療日記

 今日は看護婦さんがいつもの時間よりも早く採血
に来た。6時30分である。決められた時間は7時
15分だから相当に早い。時間通りに処置する人、
時間にルーズな人。看護婦さんも各人各様である。

 まあ、朝の空腹時であるから昨夜からすでに10
時間はたっているし血糖値測定には問題ない。

昨日夜から薬を止めた。血糖値が今朝、80(mg/dl)
であった。今朝はそう快に目が覚めた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 嫌気性菌、生まれて始めて聞く言葉である。壊
疽の隣の患者さんに主治医が言った言葉であった。

採血のために病室に入ってきた看護婦さんに尋
ねたのだ。

「看護婦さん、ケンキセイキンは漢字でどう書く
 の?」

看護婦さん曰く、

「嫌う空気の菌だと思うが、調べといてあげる」

 この菌は、字のごとく、空気を嫌う。従って、こ
の菌が入ると切開して空気を入れ、繁殖を防がなけ
ればならないのだそうだ。糖尿病で壊疽になった時
の足の切断はこの為に行われるのだろうか。

これで足を切り開いて患部に空気をあてる理由が
理解できた。菌は、空気を嫌って徐々に肉体に浸
透していくらしい。

 最悪の場合は患部の切断だ。ほおって置くと足が
腐る。あの有名な役者、今は亡くなられたエノケン
さんが舞台出演中のため、治療を断り、手当が遅れ
て足を切断したという話は有名である。

私は、運動の為にハイキング用リックサックと定価
1、000円を切ったちゃちな折り畳み椅子を買って
きた。いつもは開けている仕切り用カーテンを閉めて
ごそごそしていた時であった。

カーテン越しに、

「血糖値が120(mg/dl)にさがったよ」
「この分じゃもっと下がるゾ、もっと運動しなさい」

主治医の声がした。カーテンを開けると、私の大き
なバックをみて、

「バックに水をつめてね」

と指示された。その後、約10キロの重さのバック
を背負って病院からJRのX駅まで運動に出たので
ある。

 私は主治医の、「この分じゃもっと下がるゾ」の
言葉を受けて、200(mg/dl)以下になればいい。

と先生にいうと、

「下がるよ、絶対さがるって」

と言われた。「その言葉を信じて私は、また明日か
ら10キロ(Kg)の重さのリユックを背負ってX駅
周辺をうろつく事になるだろう。

 少し恥ずかしいけれど、『私は糖尿病患者です。
 運動中です。もし意識不明になりましたら、
リユックの中の缶コーヒを飲ませ、至急以下の場所へ
連絡してください』というメモをリックサックの名
前を付けるところにはり付けて、退院の日まで運動
をし続けると思う。人との相性は大切である。この
病院に送ってくれたS先生が私の性質を正確に把握し
ていた。

 わずか1ヶ月1回の通院で、これだけしっかりと
私の性格を捉えているとは思っても見なかった。相
性の合いそうなk先生を主治医にしているところな
んか凄く憎い。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 自分の意見をはっきりと先生に伝えられる患者で
あればお医者さんの方もしっかりと受け止めてくれ
る名医が多い事に喜びを感じる最近である。それに、
医者は患者の気持ちをしっかりと受けとめる度量が
必要であるし、そういう先生も現実におられること
が、とても嬉しかった。私も30年近い糖尿病生活
の中で、幾人ものお医者さんとインスリン注射投与
の事でぶっかった。

 それは、先生側の問答無用の言葉があった事も事
実である。先生側は患者のことを考えた上での発言
であったろうと思いたいが、年月を経た今でも残念
ながらそう思えないのである。最近は、患者の言葉
に耳を傾けて真剣に聞いてくれるお医者さんが多く
なったの有り難い。

治療日誌

血糖降下剤名は「ダオニール」と言う名前である
事が本日判明。薬名を知る機会は何度もあったが、
不思議と薬に無とん着であった。血糖値コントロー
ルばかりに気を取られていたように思う。

血糖値(病院測定)

6時30分   80(mg/dl)
11時15分 122(mg/dl)
17時15分    87(mg/dl)
22時00分 175(mg/dl)

       ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

            第5章へつづく

                 

日記(平成10年8月2日~4日まで)

2007年04月10日 | Weblog
平成10年8月2日 (日曜日)
   
 日曜日、久しぶりに船橋で女房が待っている宿
舎に帰りたかったが、血糖値に変化がでたためと、
主治医が糖尿病の降下剤を半分にして経過を見た
いということになったため、来週まで外泊できな
くなってしまった。

 血糖値コントロールが非常にうまくいっている。
  しかし、起床時とてもだるい。いわゆる、倦怠
感がある。
体重も4キロぐらい痩せたようだ。昨日の血糖値
自己測定の結果から、まだ食後2時間の値が普通の
人の約2倍半はある。

3時間後の測定で2倍あるというのは、高い血糖
値である。入院時に比べれば約半分以下には下がっ
ているのだが...。

 今朝7時の血糖値自己測定が96(mg/dl)であっ
たから、昨日より少し高くなった、薬を半分に減ら
したことが原因かもしれない。しかし、値としては
正常値の範囲に入っている。今後、どのようにして
食後2時間、3時間の血糖値を降下させるかが課題
となった。

主治医は、

「もう少し時間が経過すれば自然と落ちる。尿に
排出される糖の値が段々と少なくなっているから」

と言ってくれているのであるが...。

「お熱をはかってください」

 看護婦さんの甲高い声が部屋に響いた。隣人の体
温測定の時間である。今日は日曜であり運動は止め
ようかと考えたが、せっかく血糖値も下がり始めて
いることであり、少し歩いてくるか...。 とほんの
軽い気持ちで病院をでた。

「日曜日は閉まっている店が多いものだ」

と考えながら歩いていたら、無意識の内にJRのX駅前
の例のデパートの前に来てしまった。毎日運動にこ
こまでくるから、習慣がついてしまっているのだ。

デパートの2階に上がるための横の階段から登っ
てみると、警備の方が窓の向こう側に立っていた。
腕時計をみると10時10分前になっていた。
そのまま、横断橋を渡って駅の向こう側に出た。

そこは、東京特有の狭い路地にたくさんの小店
がひしめき合っている。
私は、こういう景色が不思議と好きなのである。
方向を定めながらどこまでもどこまでも歩いて
いったのである。東京の町は、真っ直ぐ歩いて、
右に折れる。また真っ直ぐ歩いて、右折する。
と4角く歩けば大体において最初の地点に戻って
来られる。

そのように小道が作られているのではないかと
錯覚するほど路地が多い。

そんな、気楽なつもりで路地を歩いたのだが、
どこで、どう間違えてしまったのか、私鉄のS駅
に出てしまったのである。

これは、帰る道を失ってしまったという困難な
現実に直面した事を意味する。(少し大袈裟か)
一般に、駅の近くには交番があるのが常識でるか
ら、こういう場合は道を歩いている人に尋ねるよ
りおまわりさんに尋ねるのが一番である。

私自身以前、C管区警察局警備課... という部
署で働らいていたこともあり、おまわりさんには、
異常なほど親近感を持っている。だから簡単に交
番に入ってしまうのである。
もっとも、おまわりさんは、県警に所属する人
達であるから私の属した警察とは少し、組織のち
がう警察ではあるが。

ともかく、X駅はどちらの方向か教えていただい
て歩き出した。おまわりさん曰く、

「歩くと言っても少し遠いですよ」

 私は、おまわりさんに、糖尿病で入院しており
運動が日課であること、道に迷ったことを告げた。

途中で、K鉄道のX駅行きのバス2台に追い越され
た。バスの進行方向と同じ方向を歩いている事を
確認して安心をした。

しばらくして、大きな交差点を右折した。道路は
大きくきれいであった。この道は、JRのW駅前の大
通りであった。

即ちX駅をすでに通り越していたのである。今度
は道を行く人にX駅の方向を尋ねて歩いて帰るつも
りであったが、駅前には大体、大きな本屋さんが
在るものである。

そこでは、合計4千2百14円の本を買ってし
まった。本屋さんで時間をつぶしてしまったの
で、昼食までの残り時間がなくなり、JRのW駅か
ら各駅停車に乗りX駅に戻った。昼食時間に遅れ
ると迷惑をかけるので、早足で病院に戻る。

病院到着時間は、12時01分である。かろう
じて滑り込みセーフと言うところか。すでに昼
ご飯は、病院スタッフのF女史が運んで来てくれ
ていた。

「ありがとう、Fさん」

こうして、今日の運動は終わった。

診療日誌

血糖値

7時00分 96(m/dl)
12時00分 131(m/dl)
17時15分 76(m/dl)



平成10年8月3日 (月曜日)
   
 入院してからは、テレビを見ないので世の中の
出来事がわからない。(もっとも、普段から、テ
レビを見ない方だが)もう梅雨が明けたのだろう
か。

入院から今日で、3週間が過ぎた。運動療法、食
餌療法をしっかりと守った。今回の入院が先回の病
状より悪くならなかったのは、神の救いかもしれな
い。危ない時、危ないときに助けられているようだ。

私が入院した時すでに入院しておられた患者さん
が昨日また、救急車で運ばれて来た。低血糖になっ
たらしい。意識が無くなり、ある駅の階段から転
げ落ちたとのことだった。

退院の日、

「ぜったい戻って来ないで下さい」

と言ったのに。先輩の再入院に心が痛む。

 糖尿病患者は甘いものを欲しがる。ついつい甘い
物を食べてしまう。また、ある程度の年令になると、
手軽なアンパンが欲しくなるようである。

ケーキが欲しいという年配の人はあまり見かけな
い。意識不明で救急車で運ばれてきた部屋の先輩は
意識を回復し、211号室で点滴を受けながら、

「アンパンを食べさせよ」

と奥さんらしき女性を困らせていた。とうとうその
女性は要求に負けて近くの店に買いに行った。ガサ
ガサとビニール袋の音をさせながら、夜中にアンパ
ンを食べつづけた患者さん。悲しいけれど、糖尿病
患者は病状が悪くなるほど、糖分を欲しがるのであ
る。自分自身糖尿病であり、アンパンが食べたい気
持ちは十分に判るし、

「もう死んでもいい、アンパンが食いたい」

と騒げば、だまってスーパーに走り込み買って与え
てしまうのも仕方の無い事かも知れない。糖尿病も
ある程度軽いうちは、甘い物を食べないで我慢がで
きる。運動療法も実行するのである。そこには確か
に、血糖値が降下するという目に見えた結果が出る
からであろう。

しかし、目の手術、腎臓機能の低下など、糖尿病
の病状が進行し、病気との付き合いにうんざりしは
じめると、食うもの食って死んでもいい、という一
種の諦めが出てくるのである。

どうせ直らないものなら、好き勝手をしようと考
えるのは、しごく当然のことであろう。そのよう
な行為が、結局は、糖尿病をさらに悪化させる結
果となり、足の切断、腎臓透析、失明へと自分の
手で進めていくことになるのがわかるのは重傷の
合併症を発病したときであろう。

主治医が言った言葉、

「糖尿病は直る。ただ、医者はその手伝いをする
だけで、直すの患者だ」

 この言葉は糖尿病患者がいつも頭に入れておか
なければならない重みを持っていると思う。

「糖尿病は直らない、しかし、コントロールを良
くすることにより全く健康な人と同じ生活がで
きる。だからがんばりなさい」

と先生は言いたかったのであろうと私は理解した。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

歯を磨きにいこうとしたら、先輩患者さんに声を
かけられた。

「いつ、退院するんだ」

一息おいて、私は答えた。

「来週あたりではないかと思う」

先輩曰く、

「俺、失敗しちゃった。甘いものを食べても低血
糖を起こすんだ」

私が答える、

「コントロールが非常に悪くなっていると思う。血
糖値の管理ができていないのですよ。自分の管理
は自分でしなければ」

さらに私は続けた、

「それに、主治医に自分の体の状態を詳しく報告す
ること。これは、治療に一番大切なことですよ」

「甘いものを食べているのでしょう?」、「しっか
りとコントロールができるようにならなければ」

同じ糖尿病の仲間として、伝えたい事を話した。

 3度目の緊急入院であったようだ。それに「食べ
ている時も低血糖を示すから甘い物を食べて血糖
値をあげているんだ」

とも話された。

 我々、糖尿病患者が糖尿病に対する正確な知識
を得る事は、個人の問題として大切な事であるし、
自分の問題として対処しなければならない。

また、医療関係者は我々、無知である糖尿病患者
に対して、時間を割いてでも的確な指示と病気に対
する知識を与えていただけるようお願いしたい。長
年病院に通いながらもこのような悲劇が現実の問題
として、毎日のように繰り返されている事が悲しい。

主治医と連携を取って同じ失敗を4度も繰り返さ
ないように願うばかりである。一生に一度同じ部屋
で同じ釜の飯を食べて、同じ糖尿病患者であり私に
とっても他人事ではないのである。

 ひととき、その先輩患者さんとお話をして、それ
からまた私の時間が戻ってきた。

診療日誌

血糖値

7時00分  77(mg/dl)
11時15分 224(mg/dl)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

平成10年8月4日 (火曜日)
   
 昨日は、糖尿病患者で凄い人が入院して来た。そ
の時私は、例によって、病院から先日道に迷って行
ってしまったW駅まで散歩をすることにしたのであっ
た。W駅の側にある本屋さんで時間をつぶし、我が2
11号へ帰って来た時病室の雰囲気がいつもと違う
のである。看護婦さん達や病院のスタッフの皆さんは、
何かスプレーをかけたり、向こうの方では、

「くさい、くさい」

と大騒ぎをしていた。

「何か事件が起きたのですか?」

と尋ねた。

「足が腐っている人が入院して来たの、くさくって、
くさくって」

糖尿病で壊疽が始まり足が腐り始めたのだろう。
救急車でT医大病院から運ばれてきたらしい。

娘さんが病院に来た。何か話しておられる。時々
もれる言葉に、

「俺、足を切らなければならんかもな」

娘さんの小さな声、

「まだ、わからないじゃない」

 私は、こういう状況がたまらなく辛いのである。
胸が痛くなってきた。夕方は、普段は散歩しな
いのであるが、仕方なく、例のJRのX駅まで出かけ
た。駅の近くの例の店の1階のちょうど真ん中ご
ろにあるお寿司売り場では、3箱900円の時間
サービスのたたき売りが行われていた。

「食べたいな...」

と思いながらいつものように、寿司が並べられて
いる台の周りを一周して、何も買わずに6階まで
階段を登る。エスカレータは使わない。階段は私
の運動場である。夜の8時前には病院に戻ったが、
先ほどのショックからか運動をしていない静止状
態でも心臓が変である。

この患者さんも昨日は足が痛くて、あるいは不
安を感じて眠れなかったのではないか。

 足先の切断の痛みから今夜は騒ぐのではないか
と思っていたが、静かな夜が明けた。足が腐って
いるので痛みを感じないのか、それとも、よほど
我慢強い人なのであろう。今朝も、尿瓶をあてが
われているのに、自分でトイレに捨てに行っていた。

我慢の強い、封建的な性格の持ち主かも知れない。

最近の私は、朝の空腹時の血糖値が80(mg/dl)
を割るようになった。主治医に報告すると、

「糖尿病口径薬を夜は止めよう、朝だけにしよう」

つまり薬の量が少なくなったのである。糖尿病薬は
1日1回、朝だけ1/2錠となった。

診療日誌

 食後の血糖値が200(mg/dl)以下に保ちグリコ
ヘモグロビンを7(%)以下に保てば、合併症が表れ
ない。と調べた内容を確認する質問を主治医にした。

「200(mg/dl)は食後何時間後の値であるか?」

との質問に対して、

「200という値は、最大公約数的な値であり、15
0(mg/dl)以下がよい」

(測定時間については触れられなかったが、恐らく、
食後1時間と考えて良いと思う)また、ヘモグロビ
ンの値については、平均値が出るので、生活の起伏
が激しい場合即ち、良好状態と不良状態の振幅が大
きいのは良くない。つまり、平均して良好な生活習
慣をつけないとグリコヘモグロビンも正確な判断は
期待できない。という事であった。

血糖値(自己測定)

7時00分 74(mg/dl)
11時00分 208(mg/dl)
17時15分   90(mg/dl)


☆☆:平成19年4月現在の、空腹時の血糖値が
130mg/dl位の値を推移しているので、入院時の
空腹時の値は正常値である事が多くなっている。

    平成10年8月5日へ続く