教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

親は子どもを番犬やペットにするな(1)

2009年09月09日 | 教育全般

親は子どもを番犬やペットにするな(1)

▼事実をリアルな眼差しで
 前回、「親は子どものパシリやメイドになるな」と書いたが、正直なところ不登校問題は──親子の問題に限っても──そんな言い方で簡単に解決できるほど容易な問題ではない。偏見にまみれた多くの人が考えるように「うちの子が不登校になったどうしよう。世間に向ける顔がない!」なんて救いようもない事態になったように落ち込む必要もなければ、一部の○○派の人たちのように「不登校ばんざい!」なんて飛び跳ねる必要もない。まずは淡々とした気持ちで(今回の衆議院選挙を見ても「失意泰然得意端然」の大事さを思う)事実のありようをリアルな眼差しで見つめること肝要だ。

▼親は子どもを番犬やペットにするな
 そこで、今回は前回とは別の角度から不登校の問題を考えたいと思う。題して「親は子どもを番犬やペットにするな」。前回の表題もそうだったが、親と子のあり方が今、流行りの言い方で言えば、とても「微妙」な関係にある。いや、もっと深刻な事態に突入している、と言った方がいいかもしれない。

▼「訳の分からない若者達」の登場
 映画史上にジェームス・ディーンという若い名優がいた。『理由なき反抗』とか『エデンの東』などが彼の代表作として知られている。それらの映画には、大家族制度や家父長制度が崩れ、「訳の分からない若者達」が登場してきた時代が描かれている。「訳の分からない若者達」と見たのは勿論、当時の親や大人たちである。この夏休みに多少の訳ありで埼玉新都心の「ジョン・レノン・ミュージアム」を訪れたが、日本で言えば、まさにビートルズがやって来た時期がそれに当たると言えるかもしれない。

▼急激な世の中の変化
 「あんなマネをする奴は不良だ」と当時の教師達は言っていた。若者達が教師や大人の理解を超えて活動し始めたことに少なからず不安を持っていたことの証である。しかし、事態はまさにそういう不安の方向に進み、学内や社会の場で子ども達や若者達の反乱が次々と起きた。さらに時代の流れは加速度的に進み、やがて新人類と言われる若者達が登場し、さらにその域を超えた新々人類が生まれ、世にPC88やPC98シリーズというパソコンが登場し、アルファベットやカタカナだけでなく漢字が使えるようになったと思ったら、瞬く間にITが席巻する世の中となった。パソコンを使えない首相がマウスを握り「イーティー」などと言ってにっこりしている場面が若者の失笑を買ったのもその頃である。そして、かつての不良音楽&ファッションの権化であったビートルズ現象はやがて学校の教科書にも登場するようになり、そしていわば古典の仲間入りをしてしまった感がある。

▼保守という名の変革・革新という名の保守
 こういう時代の変化の中を、戦後の日本の社会は欧米に「追い付き追い越せ」「乗り遅れまい」として必死に走ってきた趣がある。それを政治がらみで見れば、「保守」と「革新」による「55年体制」でやって来たということになる。だが、奇妙なことに、実際の政治力学の中では、「保守」と呼ばれた側は絶えず技術革新を初めとする社会の変化をはかり、「革新」と呼ばれた側は社会の様々な変化の中で戦後GHQなどを媒介として獲得した権利や価値を守り続ける運動を展開してきた趣がある。「保守」勢力は、良くも悪くも、絶えず脱皮し変わり続けることで社会的適応や伝統の延命を図ってきたのであ。単に墨守して来たのではない。

▼保守という名の実際のベクトル
 ところが、この不思議な捩れ現象が今回の選挙で遂に終わりを遂げた。そんな感じがする。55年体制の完全な終焉である。その意味では、麻生首相が選挙で連発した「責任」や「保守」という言葉は感慨深い。「保守」を標榜する者が完全な「守り」に入ったとき、その先はない。「保守」という名の改革の実践が日本の社会の原動力であったのだから。「戦後レジームからの脱却」と言ったのは、先に首相の座を投げ出した安倍晋三氏だが、彼は完全な倒錯の世界にいたようだ。彼はただ戦前への回帰だけを夢見ていたように見える。だが、これは保守が実際にやって来たこととは逆のベクトルなのである。

▼せめて我が子にだけは…
 このような現象を、日本の親子の問題、世代間の問題に置き換えたとき、どんなことが見えてくるか。戦中・戦後の辛酸を舐めてきた世代は、あの映画「Always夕陽丘3丁目」や「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン」のように貧しい中でも復興への希望を持ち、「せめて子どもにだけは…」という思いで頑張ってきた人が多い。そして子どものまたそういう親の思いを痛いほど感じて生きていた。が、その関わり方には今多くの親達が子どもに向き合うやり方と大きな違いがあるように思う。

▼自分で出来る人間になること
 親たちは戦争などのドサクサで自分達が出来なかったことを子どもに託し、その無念の思いを代わりに子ども達に実現させようという秘めた魂胆がなかったわけではない。右肩上がりの社会の中で子どもの学歴や進学がもてはやされたのもその一つである。しかし、どういう大人の思惑があったにせよ、本来的に保守的な志向であった親や大人達が子ども達に願ったのは、自分達の努力で「できる人間」になることであった。そして、その根底には、努力すれば必ず報われるという日本の社会に対する暗黙の信頼もあった。そしてさらに幸いなことに、親達は自分達が生きることに一生懸命で、子ども達のことを面倒見る余裕があまりなかったということがあった

▼貧しさの中での自己実現 
 だから、子ども達はあまり親達に干渉されずに自分の思いで行動し、自分の思うように自己実現できる選択決定権を自然に与えられていた。そして、一部の例外を除き、自分の人生をどう切り開き、どう実現していくかということは、経済的な問題は大きな課題であったが──誰もが経済的にゆとりがあるわけではなく、まだ誰でもが望み通り進学できるわけではなかった──子ども達は自分の人生の主人公は自分である生き方を模索することが出来た。しかし、子どもにとっては恵まれたこのような状況は、皮肉なことに日本という国がまだ途上国であり、貧しい国であったから可能であったことでもあった。そして、教育がその後押しをしていた。

▼モデルのあった戦後復興
 しかし、高度成長の波に乗り、経済事情が好転して家計が潤うに伴い、日本という国が壊滅的な敗戦から奇跡的な復活を遂げて、次第に国際社会の中で先頭集団の仲間入をするようになってくると、日本の社会の中に今までにはなかった現象が起きてきた。実のところ、日本という国はまだ国際社会で先頭集団の仲間入りをする内実は備えていなかった。今まで日本という国や社会は外部にモデルを求め、それに追い付き追い越すことを目標に進んできただけだった。だから、気が付いてみるといつの間にか先頭集団の仲間入りをしていたということで、逆に日本という国はいまだかつて経験したことのない未曾有の困難に直面することになったのである。

▼モデルなき社会に突入
 進むべき道を照らし出すモデルはもはやなく、指導者も国民も国が進むべき羅針盤を持たない。手元にあるのはかつての推進力となった物差しであり、感覚である。あまりに早く進み過ぎたために新しい社会に相応しい価値観を熟成させ発酵させる時間がなかった。が、古い物差しはもはや役には立たず、さりとて新しい社会のモデルはまだない。そういう社会状況の中に私達は突入したのである。だから、今日本を支配しているのは、取り敢えずは出来合いのもので間に合わせようという意識である。これは至るところにある。教育も子育ても社会のありようもまたしかりである。

(続く)

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