教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

頑張れ! 貴乃花!

2010年01月29日 | 社会

“貴乃花つぶし”に文科省が待った!理事選に異例の介入(夕刊フジ) - goo ニュース

貴乃花、頑張れ!

▼日本相撲協会のおかしな体質
 このブログでも何回か、「朝青龍のどこが悪い?」というような内容で、日本相撲協会のおかしさ、その古い体質の改善を訴えてきた。それが今回は理事戦の話題である。
 その前に、横綱審議会委員として大いに発言し話題を集めた内館牧子さんの退任に心からお疲れ様と言いたい。やくみつる氏と同じく横綱に対して辛口の批評・批判する姿勢が印象的であった。その辺のことは、朝青龍に対して「アスリートとしては150%好きだが、横綱としては…」という感想が全てを物語っているかもしれない。ただその姿勢は日本相撲協会が今の時代の人々に親しまれ愛されるのに相応しいものであったかというと首を傾げるような発言もあったと私は感じている。

▼内館牧子さんのやり残したもの
 大相撲がこのままでは行き詰まりを見せていること、日本伝統とも言える相撲(国技と言っていいのだろうか?)が国際化しトップ陣は全て外国人が占めるようになった現実があるということ、伝統を受け継ぐこととはどういう事なのか、そもそも旧来のものをそのまま墨守することが伝統を受け継ぐことなのか、それを伝統も文化も違う外国出身の力士に理解させ体現させることが可能なのだろうかということ、それとも中身はともかくそういうポーズだけでもとらせればそれでOKだということなのか、というような問題にどれだけ切り込めたのかという思いがしている。

▼貴乃花親方の理事選出馬の波紋
 そこに貴乃花親方が自己の信念を貫くために「慣例」を無視して財団法人相撲協会の理事戦に出馬すること、しかし一門の反対にあって二所ノ関部屋を飛び出し6人の親方がそれに追随し破門になったこと、ところが貴乃花親方が理事選に当選するには3票足りないこと、しかし二所ノ関部屋だけでなく時津風部屋をはじめどの部屋も貴乃花親方に投票するシンパを出さないために暴力団の親分選びまがいの規制をかけていることなどが、次々と明らかになってきた。どうもこれが伝統を重んじるという日本相撲協会のやり方らしい。しかし、これでは大相撲に八百長の疑惑が生まれたり、若者に愛想を尽かされたりするのもむべなるかなという感じがしないでもなかった。

▼大相撲の将来を憂い改革を唱えること
 相撲協会の武蔵川理事長は、相撲協会の改革を唱える貴乃花に、「改革、改革って、何を改革するというんだ」というようなことを言っていたようだが、現状を良しとし、問題意識を持たない人間にとっては改革を唱える人間の言は難癖を付けているようにしか見えないのかもしれない。しかし、貴乃花親方の大相撲を思う気持ちはとても真摯なものに思える。一本気で融通が利かない面もあるようだが、彼は真剣そのものだ。体面ではなく、日本の大相撲の行く末を本気で憂えている。

▼文科省の監視の下での選挙に賛成
 そこに今回、初めてのことだろうけれども、監督権限を持つ文科省の監視が入るとのこと。厳正な選挙を実施するためである。日本相撲協会の健全な発展を願うためである。逆に言えば、今までの相撲協会のあり方がボス同士の手打ち式で決まるように、余りにも非民主的であり過ぎたのだ。それに、いじめ・リンチの結果、死者まで出すに至ったのに、自力ではなかなか変われない体質を持っている。
 現在の理事の面々を見ても、横綱・大関等の経歴者が必ずしも主要メンバーとなっているわけでもない。どういう経緯でこういうメンバーが協会を運営するに至ったのか外部からは皆目見当がつかない。
 貴乃花親方が理事選に出馬することについては賛否様々な声があるようだ。だが、協会のボスたちの声に従っていたならば、おそらく改革は無理であろうし、貴乃花のような若手は今後長らく出番が回って来ないだろう。つまりは相撲協会は何ら世間の批判に応えることなく旧態依然のままであり、その結果衰退の一途を辿ることになるだけだろう。

▼貴乃花親方の真摯な思いを支持する
 では、貴乃花にそれだけの才覚があるのか?そう問われれば疑問な点が少なくない。学歴を積まずに中卒後相撲の道に入ってしまった結果、その言動がエキセントリックでに偏りがあったり、相撲場経営がうまく行かなかったり、人間関係のまずさもいろいろ指摘されている。実際、彼は優れた強い横綱ではあったが、ただそれだけのことで個人的には好きにはなれない相撲取りであった。しかしそれしかない相撲バカであったからこそ、相撲に対する思いは誰にも劣らない強さを持っていることも同時に感じられた。
 今、相撲協会に求められているのはそういう若い改革者の熱い溢れ出るエネルギーなのではないかと思われる。公正な選挙の結果敗れるのであればそれは致し方ないが、それ以前の工作によってひねり潰そうという発想や行動(投票の小細工や締め付けによって貴乃花潰しを画策していたようだ)はいただけない。それではいくら熱心な相撲ファンでも愛想を尽かすというものだ。

▼人は挑戦を通して成長する動物
 現段階では貴乃花を理事に推すメンバーが不足である。彼が当選するには更に数名の賛同者・支持者が必要である。投票日までにその人数が確保出来るかどうか。もしかして、彼は理事としての資質に欠けていると考えている人がいるかも知れない。それも一理ある。しかし、「あいつはダメだから…」とその人間に挑戦させる機会を与えないでいれば、その人はずっと批判されるレベルの人間に留まることであろう。はじめから出来る人はいないのだ。それに人は挑戦することで成長する動物である。だから、彼を成長させるためには彼に挑戦させることが必要なのだ。もしかして、失敗ということもあるかも知れない。ならば、次はそこから出発すればいいのである。失敗を通して人は成長するのだ。貴乃花、頑張れ!

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村

 


前例主義に拘る憂うべき日本の風潮

2010年01月28日 | 教育全般

前例主義に拘る憂うべき日本の風潮

▼前例のないことに挑戦した開拓者たち
 先のブログ「学力とは何か」に書いたときに書き忘れたことがある。それはそこで紹介した人たちはみな「前例のないことへの挑戦者たち」であったということだ。人を惹き込み納得させる個性や思考はそこから生まれている。
 今、根絶することが難しい病原菌のように「みんな一緒」の悪しき集団主義が日本の教育界やマスコミを支配しているが、そういう中からはこういう輝かしい個性は生まれないのではないかと思う。彼らはそういう環境や風土の中にあっても、それに押し潰されることのない強い個性の持ち主たちだったとも言えるのかも知れない。しかし、それは彼らが教育界やマスコミ等の支配的な風潮に抗し、時には反旗を翻しながら、自身の思いを貫き通してきたから可能となったことなのではないか。

▼「出る杭」を異端として排除する教育界やマスコミ
 いつものことだが、教育界やマスコミはそういう強烈な個性の持ち主の成し遂げた業績を賞賛し国家国民の栄誉のように褒め讃える。けれども、彼らがそれを大切な行動原理として自ら体現したり積極的に推進してきたとはとても思えない。「出る杭は打たれる」というコトワザがあるが、むしろ日本の教育界やマスコミはそういう個性を叩き潰すことに極めて熱心であったし、今もまだそうであるように見える。
 そういう場合には「国民の声」に従うとか「国民の声」を代弁すると言いながら、その実は己の狭量の器に合わせた独善的な論理を振りかざしていることが多い。彼らの許容度、想像力や理解力を超えた現実が立ち現れると、彼らはそれを見守り育てる側に回るのではなく、「正論」を体現する者として、そういう人たちを異端として叩き潰す側に回って来たのである。

▼マスコミがいう「国民の声」とは何か
 たとえば、「みんな一緒」の学校教育の風潮に洗脳された子どもたちが少しでも「毛並みの違う仲間」を嗅ぎ出しいじめ、さらには不登校に追い込むように、学校教育やマスコミの中には個性ある者たちや変革を志す者たちを押し潰そうとする空気があるのは否定しようがない。彼らは平時には国民の声、つまりは世論の代弁者の如く振る舞い、その役割を自らのステイタスとしているが、ひとたび乱世となり国民の多くが変革を志向し実践し始めた時には、後ろ向きの警世の大文字を火の付いたように声高に叫び始める。そして自分たちの偏狭な主張があたかも国民の声でもあるかのように書き立てるのだ。
 しかし、彼らの主張と国民の声が明らかに違うことが隠しようもなく露わになることもある。その時には、あろうことかマスコミの一部には「国民が間違っている」「国民の判断・選択がおかしい」とまで言い出す者まである。たとえば、沖縄県民の動向を見守るため決定を先延ばしした普天間基地移転問題についても(つい最近、名護市で移転反対派の市長が誕生した)、アメリカに取材に行った某新聞記者が「『私たち』は延期に反対している」という趣旨のことを言ったとか。日本政府を押しのけてまで新聞記者が主張する「私たち」とは何なのかマスコミは往々にしてそういう偏光フィルターを通して記事を作り上げ、それがあたかも世論であるかのように報道することもある。ここには明らかにマスコミによる意図的な世論操作がある。

▼未来に夢や希望を持てない日本の若者たち
 戦前戦中の時期、国民に真実を隠蔽したマスコミの大政翼賛的報道や戦後の民主主義を装った国家主義的全体主義的報道や学校教育のあり方を見るまでもなく、今までのマスコミ報道や教育は何を目的に、どんな未来の国家を志向して営まれてきたのか、今一度改めて問われなければなるまい
 今までの日本は独立国家よりは属国志向、愛国を称えながら実は亡国の勧めであり、国民主権を称えながら実際の「公」(パブリック)の主体は国家や市場原理にあり、次代の日本を担う社会人を育成すると言いながら権力や権威に物言わぬ羊のような国民を大量生産し、時の為政者に都合の良い国家運営をしてきただけではないのか。
 そして、結果として我々国民は、未来に夢や希望を持てないだけでなく、現在今生きているこの社会にさえ明確な目標や役割を見いだせない多くの若者達を排出するに至り(国際社会の中で、日本ほど若者たちが夢や希望を失っている国はない、それなのに多くの若者は羊の如く「つぶやく」だけで、その根本原因を問おうとはしない)、国際社会の中で斜陽の一途を辿ることになったのだ。

▼政治が変われば教育も変わる?
 本来、教育に携わる者は政治には口を出さない方がいい、問題がこじれ、あらぬ方向に行かぬとも限らないと考えて、自主規制してきた部分がある。しかし、それで教育の何が変わっただろうか、政治の何があるべき方向に向いただろうか。
 今まで自分なりに謙譲を徳と考え、事を荒立てぬことを旨としてきた部分がないわけでもない。そういう中で自分なりの道を追求してきた。しかし、もはや今の日本に謙譲を美徳とする風潮は基本的にない。退けばその分相手は押して来るだけである。悲しいことだがそれが現実だ
 未来への想像力を失ったマスコミは、旧態依然の価値を振り回してますます矮小化の一途を辿り(権威をバックにした一方通行の情報が尊重されなくなったのは、単にインターネットのせいだけではあるまい)、教育では旧来の自民党・文科省・各教育委員会の域を超えて民主党・日教組路線が強まるという逆転現象が起きてきている。が、それによって教育方針が即座に180度変わるとは到底思えない(教育が政治とは無縁ではないとしても、風見鶏のように風向きによってくるくる変わるとしたらそれも恐ろしい)。かえって今までの教育実践の不備が正当化されかねない危険さえある。そして、実際にそういう兆候は見えている。

▼教師には「先ず隗より始めよ」と言いたい
 そういう社会の現状に、今後は教育を享受する子どもという独自の視点から積極的にコミットしていくことも必要だろう。沈黙は金でも銀でもない。それは昔の戯言である。今は沈黙は現状の是認に他ならない。ヘタをすると教育は今後、教師主導でますます悪化の方向を辿らないとも限らないのだ。
 今一度、考えてみよう。フリースクールで子どもたちの側に立つ者は、今まで現状の学校教育に「ノー」という行動を取った子どもたち(これは別の意味で個性的な勇気ある行動だ)を支援して来たし、今後もそうである。学校が子どもが主役の教育の場とはなっていない限り、今後も学校教育を見る目が根本的に変わることはないだろうと思う。
 もし、学校教育を根本から変えたいのであれば、まずは学校を解体することからはじめなければなるまい。幸いにして学校教育の改革を唱える教師がいるならば、「先ず隗より始めよ」と言いたい。机上の空論はもういいのである。今回の政変が良かったのは、もう言い訳は通用しない時代が来たということにある。そういう思いを一層深くするこの頃である。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村


改めて問う「学力とは何か」─読売の記事から

2010年01月16日 | 教育全般

改めて問う「学力とは何か」


▼読売新聞の「学力考」の連載について
教育界では相変わらず不毛とも言える教育論議が盛んである。とりわけ「ゆとり教育」とか「学力低下」の論議がかまびすしい。最近、読売新聞が「学力」考の連載を始めたのもその流れに沿ったものだろう。連載の最初の記事が代り映えのしない旧態依然の論調に近いものだったので(多分、在り来たりの思考で固まってしまった記者の作文ではないかと思われたが)、期待薄かな…とも思ったが、それを超えた取材記事が載ることもあるだろうと考えてしばらく付き合うことにした。

▼「学力とは何か」を論じることの意味
ところで、いつも不思議に思うことは、教育や学力を論じる際の大前提とも言える事柄「学力とは何か」ということが何も論ぜられぬまま議論が行われていることである。あたかもそれは言わなくても分かることだとでも言うように。しかし、そうだろうか、これは日本人特有の腹芸に似ていて、同じように考えているように見えて実際は全く別のことを考えていたりするものなのだ。そのことはやはり、言葉に出して見て初めてはっきりと分かることである。

▼四人四様の「学力とは」の考え方
実際のところ、読売の連載もずいぶん力こぶを入れて書いているのは分かるけれども、そんな思いを拭えないままチラチラと目を通していた。するとようやく2010年1月15日の朝刊に「学力」考第一部の番外編として「学力とは 私の見方」というタイトルの記事が載っていた。登場者は東京大学長・浜田純一さん、昭和女子大学長・坂東眞理子さん、ノーベル物理学賞受賞者・益川敏英さん、作家・鈴木光司さんの四人である。(これは私の経験からの勝手な判断だが、これらの記事はご本人が筆を取ったものではなく、電話取材のようなものを取材記者がまとめたものではないか?)面白いことにここでも「学力とは 私の見方」とあるように、はじめから「学力」というものの統一的な見方考え方を求めていないということである。だから、四人四様の意見であり、それぞれに個性があって面白いが、一つの集合で括れるようなまとまりはどこにもない。

▼共感出来る3者の教育・学力観
その中で、浜田純一さんの「学力は、知識だけではなく、知識を身につける力と使いこなす力を合わせたものだ」と言い、使いこなす力には表現や創造が含まれるとする点で、私が日頃考えている論点に一番近いかなと感じた。益川敏英さんは「大切なのは、知識で遊ぶ、勉強で遊ぶことだ」といい「必要なのは、子供が夢中になれる、面白いと感じられる学習内容に変えていく努力だ」と言い、これも「遊びの教育学」というモットーを掲げ、フリースクールで日々子どもたちと接していて感じる実感と符号する言葉である。鈴木光司さんは自身が塾を経営していたことがあるようで、「大切なのは知識や経験を再構築して、自分の答えを出せることだ」と言い、『『過去問』や人の意見に従っているだけではいつか前に進めなくなる」と言っている。学校の教育観に洗脳されている生徒や親には分かりにくいことかもしれないが、「世界の歩みに貢献する」と自負する作家ならではの正鵠を射た言であるように思えた。

▼日本の学校教育は小中の義務教育から破綻している
その点、あえて正直に言うが、坂東真理子さんの言葉が一番つまらなかった。全く感性を刺激されないのだ。しかし、その中でただ一つ注目したのは──これも私が日頃から言っていることの一つだが──国家試験型の高卒認定試験へ言及していることである。実は私は日本の教育システムを破綻に導いたのは文科省を頂点とする学校教育システムであり、「学力低下」の問題もここから生まれていると思っている。そのための処方箋として国家認定の高卒試験を導入しようというのである(現在、高卒認定試験はかつての大検に代わり、学校を離れた子どもたちの救済システムとして機能している)。ただし、坂東さんのように高卒認定試験を行えばいいというものではなくて、今日の学校教育はすでに小中学の義務教育から破綻しているのである。高校教育の破綻はその延長線上にあるに過ぎない。ここが肝要だ。

▼義務教育は子どもを学校に収容するためのシステム
日本の義務教育は依然として学校神話と学力神話で成り立っているが、それらがとうに破綻してしまっていることは、公立学校の現場で仕事をしている教員であるならば先刻承知のことであろう。だから、小中高の学校の教員たちは我が子にはなるべく公立学校に進まないで済むように、進学塾に通わせることに熱心なのだ。実際のところ、日本の学校というところは子どもたちに学力を付けさせたり社会性を身に付けさせたりするところではなくなっている。ただ義務教育の年限の間、子どもたちを収容するための施設として機能しているだけである。だから、その年限が過ぎれば子どもたちは学力を習得したか否かにかかわらず卒業ということになる。「『学力がついていないので卒業させるわけにはいかない』と言いたいが親御さんが認めてくれない」という声も一部にある(不登校の家庭の場合にこういう事例がある)が、ほとんどは単なる学校長の逃げ口上に過ぎない。実際のところは、「学力がないから」と学校に居残ってもらっては困るのである。

▼何々学校卒をやめて国家認定の卒業試験の導入を
そのように破綻した日本の学校教育を立て直す処方箋は何か?その一つは何々学校卒という学校のステイタスとかブランド志向を捨て、小学卒業認定試験、中学卒業認定試験、高校卒業認定試験を国家試験として導入することである。あの全国学力テストなどという調査に莫大な税金を無駄に投入するくらいなら、こういうシステムを確立するために用いる方がよっぽど日本の教育の再建に貢献することだろう。それに懸案でもある全国に十数万人にも上る不登校の減少にも貢献するはずである。思うに、現在の不登校生の多くは今の学校教育への違和、異議申し立てから生まれているからである。だから、教育のシステムが変われば不登校生を生み出す土壌もまた変わるはずである。

▼教育を国家の手から民の手へ返そう
近代国家が生まれ近代教育が成立
したことで、教育の機会均等・義務教育制度が普及し、教育権や学習権の考え方が定着しつつあることの意義は大きい。しかし、国民の教育が国家の専権事項のようになったことで失われたことも少なくない。とりわけ、教育が民の手を離れ、国家の維持推進と為政者の都合によって左右されるようになったことによる損失は数限りない。そろそろ「民のものは民へ返す」ことが必要なのではないか。どの国の歴史を紐解いても似たような結果になると思うが、もともと教育は民のものであったのだ。国家の教育が存在する前から、民による教育活動は脈々と続いていたのである。日本においても民の手から奪うようにして始まった日本の国家教育は高々百数十年の歴史を持つに過ぎない。

▼子どもと向き合い、子どもの声を聞くこと
再び最初に戻ろう。改めて問う。「学力とは何か」。教育を受けるのは誰なのか。教育の目的は何か。──一見馬鹿らしい問い掛けと思うかも知れないけれど、もう一度こういう根幹の部分に立ち返って日本の教育を考え直すことが必要なのではないか。百家争鳴、大山鳴動はすれども、成果らしい成果がどこにもないのが近年の教育の現状である。教育関係者も他の大人も、子どもに向き合うこと、子どもの声に耳を傾けることを忘れて、互いに口角泡を飛ばし合っている。とても不思議な日本の教育状況である。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村



「鳥の目・蟻の目」の視点から教育を語ること

2010年01月04日 | 教育全般

◆◆◆ 年頭にあたって ◆◆◆

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今年もまた、折りに触れ気ままに筆をとらせて(キーを叩かせて)もらいます。

▼鳥の目と蟻の目の双方向の視点から語ること
今まで「実践に基づく子どもたちの教育を語る」と言いながら、実際にはその周辺のことに終始したキライがないわけではありません。もちろんそういうパースペクティブの上に語られねばならないことではあるのですが。しかし、それではいつまでも本題に入れないことになります。そこで今年は、そういう視野を持ちながらも実際に子どもたちが活動する現場から(特に私の場合は、今の学校教育を拒否し&拒否されたこどもたちの学びや活動に焦点を当てながら)教育の理論とそれを具現化し実証する実際の場面に付いて、あるいはその逆のパターンも踏まえて、つまりは理論と実際の双方向の視点を取り入れながら語りたいと思っています。ある人がこれを「鳥の目と蟻の目」という言葉で語っていました。

▼フリースクールの教育活動と子ども
「ぱいでぃあ」を利用されている親御さんなら先刻承知のことであると思っていましたが、改めて言わせてもらえれば「フリースクール・ぱいでぃあ」はNPO(NPO法人教育ネットワーク・ニコラ)が運営するフリースクールです。これは文科省認定下の国公私立の学校とは異なる、言わば民立の教育機関です。従って、一切の税金の恩恵を受けない代わりに、窮屈な枠に囚われ融通のきかない公式的な教育に制約されることもなく、独自の教育理念をもって理想とする教育を追求することが出来ます。実際に、「フリースクール・ぱいでぃあ」では「ぱいでぃあ」独自の子どもを主体とする教育活動を行っています。「勉強は教科書の中だけにあるのではない。社会の至る所に開いている」と考え、なるべく社会との垣根を低くして、社会との交流を図り、絶えず社会の息吹が感じられる教育を行おうというのもその一つです。

▼フリースクールとはどういう機関か
 ところが、フリースクールに子どもを通わせているご家庭の中には「NPOの教育活動に子どもを巻き込むまなくても…」という親御さんの声が一部にあるのも事実です。でも、そういうご家庭では得てして、なぜわが子が学校に行けなくなってしまったのかという状況を十分に考えることもなく(大人の事情に子どもが振り回されたという場合もありますし、何回か転校したけれどもそこにも通えなくなったという子などもいますが、必ずしも「どこが問題だ」と決めつけられない場合が多いのです)、「学校に行けなくなって、勉強が大変だ、進路をどうしよう」とばかりに、ひたすら「学校の代替機関」を求めてフリースクールにやって来るご家庭もないわけではありません(「ぱいでぃあは居場所として機能するだけではなく、進学にも力を入れ、それなりの実績もあげています)。が、フリースクールは──そこに学校でトップクラスの子が通って来ようとも──単なる進学塾のようなところとは大いに異なる機関なのです(進学塾で不登校生を扱えるところはほとんどないでしょう。昼間は学校に行っている生徒たちとは同居出来ないのですから)

▼自分の人生の主人公となれるように
「何かの縁があってフリースクールに来た子どもたち」──学校で何があったのか、なぜ学校に行けなくなったのか、その子の立ち直りの度合いに応じて自発的に向き合い、考えてもらうことになります。これは「ぱいでぃあ」を飛び立つときには自己否定の感情を吹っ切っているだけでなく、自分の人生の主人公は自分であると考えて自己づくりに向けて堂々と雄飛して欲しいと願っているからです。

▼日本の教育の現状を親子で知る機会に
学校は生徒が主体の場と言われながら、現実には自分が通えなくなる学校があったということ、先生はいつも生徒のことを考えていると言いながら、実際にはそれに何ら有効な手を打ってくれない教師がいたということ、国家が面倒みるから義務教育は無料と言いながら、不登校になると一切の教育公費の支援を受けられなくなる事態が待っていて、いわば教育棄民の状態に据え置かれる状況に追い込まれてしまった…こういう日本の教育の現状を親御さんだけでなく是非子ども本人にも知ってほしいのです。そして、そのために親も頑張りわが子のために声援を送っている姿があるということをも是非子どもにも知って欲しいのです。「ぱいでぃあ」ではそう願い、子どもたちだけでなく親御さんにも理解を求めています。子どもが不登校になるということは、今までの学校教育を良しとしてきた親に対する異議申立ての訴えでもあるわけですから。

▼子どもが主人公のフリースクール
実際のところ、フリースクールと一口に言ってもその形態は様々です。規模も大小様々なら、理念や目標とするところもスクールの数と同じだけあります。設立の動機も、止むに止まれぬ思いで親たちが自発的に立ち上げたとか、私たちのように先に子どものを主体とする父母の教育活動が先にありその発展型として誕生したとか、ビジネスを目的としてて参入したとか、様々です。ただ共通するところは文科省下の学校とは違って「子どもが主人公」というところではないかと思っています。学校というところは──いくら教師が弁明したところで──パターナリズム(権威をバックにした温情主義)の権化として教師が主人公の学び場であり、上意下達によって上からの指令が絶対的な重みを持つ場なのです。

▼人権を制限する収容施設としての学校
そういうことも含めて、日本には伝統的なパターナリズムの論理が幅をきかせる機関が幾つかあります。学校、病院、刑務所、少年院、児童養護施設……。そして、これらに共通しているのは収容施設であること、そこに収容された人間はみな人権が制限されるということです。
かつて、映画の黎明期、ドイツの無声映画の中に『カリガリ博士』というのがありました。ある人が偶然殺人現場を目撃します。彼は犯人を追って行きますが、逆に何者かに捕まえられ収容されます。そして、そこは精神病院でした。何と彼が殺人犯として追っていた人物はそこの院長となっているではないか。彼はそのことを病院の同僚に「実は……」と話します。しかし、誰が精神病院の患者の言うことを真に受けるでしょうか。これは一種の典型的なのフィクションには違いないですが、「事実は小説より奇なり」で、アンビリバボーな現象がよく散見されるのがこの現実世界です。

▼フリースクールでの学びをバネに人生にトライする
「蛮勇」と言って、無駄な争いをして命を粗末にする必要はありません。だから、「いきいきニコラ」や「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイトでも「逃げろ!無駄に死ぬことはない。より生きるために逃げろ!」という趣旨のことを述べています。しかし、そうやって逃げたところで、自分の個性を意識すればするほど、周りの人間が自分の思いを解消してくれると思わない方がいいでしょう。そうではなく、自分の生き方を追求する中で周りの自発的な支持を得られることが大事なのではないでしょうか。だから、フリースクール・ぱいでぃあに逃れてきた子どもたちには、自分に自信を持って自己卑下の感情を克服すること、均一な統制の輪から外れたか否かで自分を判断するのではなく様々な異質な個性のぶつかり合いを通して人の中で生きる生き方を身につけることなどを、教科学習と同等に、場合によっては(その方が多い)それ以上の重きを置いて行動出来るようになることを大事にしています。もっと言えば、自分に自信を持ち元気にさえなれば、少し道草を食ってフリースクールで学んだことも含めて、今までの経験をバネとして未来の自分づくりにトライすることが出来るのです。

▼社会への架け橋としてのフリースクール
だから──振り出しに戻りますが──NPOに基づくフリースクールの活動の一環として、その主役としての子どもたちに大いに参加し、活動してもらいたいと思っています。今はもうただ決められた勉強をしていればそれで何とかなるという時代ではないのです。ところが、学校に代表される教育機関は今まで社会の悪弊が教育を汚染しないように社会との間に塀を立て(これもまた収容施設に共通している)、子どもたちを純粋培養するような形で教育を営んできました。しかし、その社会的有用性はとうに失せてしまっています。今ではむしろ社会から切り離された学びの方が問題視されるようになって来ています。世界の子どもたちと比較して日本の子どもたちは幼く社会性に乏しいと批判される所以です。ですから、①何でも見てやろう、聞いてやろう、体験してやろう。②書を捨てて街に出よう、野山に出よう。③学ぶ気になれば本はどこにでも開いている。──「フリースクール・ぱいでぃあ」のこのモットーを今後も掲げて活動していきたいと思っています。

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村