教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

親として子育てを通して問われること

2017年08月17日 | 「地の声・天の声」


▼岡山県のあるカフェのtwitterのアカウントで「幼児連れお客様お断り」の投稿がされ、話題を呼んだ。幼児連れの客が頑是ない子どもの好き放題に走り回らせたり、店の器具を破損させたり障子は穴だらけ(写真付き)にしても親は報告も謝罪もしない人がいる。もし、それで事故が起きたら、責められるのは店側。そのための苦渋の自衛の措置だという。

▼これに対して、何万件ものリツイートの輪が広がり、たくさんの声が寄せられたという。その半数は明確に共感の声。例えば、こういうもの。幼児連れの親への共感を示しながらも、「お店は家ではありません。他のお客様の御迷惑にもなりますので、お子様から目を離さないでください」などと子連れ客に注意を喚起している。

▼店側は、悪戯をした子どもに怒っているのではなく、それを「やっちゃあダメだ」と注意しない親に怒っているのだという。投稿者は、こう言う店側の対応に「子どもに目くじらを立てて」と逆ギレして怒ってくる親は「見当違いも甚だしい」「子どもに善悪の区別も教えられない」と手厳しい声もある。

▼さて、上記は幼児連れの親御さんが客の場合の話だが、似たような事例は枚挙がない。電車の中で靴のまま座席に上がったりする傍若無人な振る舞いをする子どもをに注意をしたりすると「ほら、オジサンに怒られるわよ」と子どもに言う母親がいたり、学校などでも我が子の問題はさておき、烈火の如く怒り狂う親がいるそうである。

▼例えば、いじめの問題。どんな場合も「人が嫌がることをしない」というのが最低のルールだが、まだ園児や小学低学年の子が「イジメられた!」と訴える時、どう扱ったらいいのだろうか?その子が言うように実際にイジメに相当する扱いを受けたということもあろう。しかし、その子の全くの思い違いで、そいう結果を自ら招いているということもないわけではない。まだ十分に客観的に状況を把握できない子どもであることもある。

▼そして、もしその親が、たとえば、上記のようなカフェ店側から「もう来ないで貰いたい」というようなタイプの人間であったような場合に、その子どもの正確な現実把握能力は幾重のカッコで括られたものになる可能性もある。とてもその子の言うように額面通りには受け取ることはできない。そこの店員からちょっと注意を受けただけで子どもが「イジメられたあ!」と言って、火の付いたように泣き出さないとも限らないからだ。それを店側が悪いと言えるだろうか?

▼これはもう「子どもが変だ」「子どもがなんかおかしい」「子どもをなんとかしなければ!」というレベルや方向の問題ではないのかも知れない。近年、「大人の発達障害」というようなことが言われだしている。「自分の親を絶対許せない」という子どももいる。「自分がこんなアダルトチルドレンになったのはあの毒親のせいだ」と言う子どももいる。
 親としての子育ての問題に光を当てる時が来ているのかも知れない。

▼私達が掲げている標語に「不登校も過ぎてみればいい経験」というのがある。「人間、体験してマイナスになるものは一つもない」とも言う。また、「間違いに気付けば、人間はいつでもどこからでもやり直しがきく」とも心理学では言っている。

▼たとえ今までは、マイナスの人生行路を歩んでいたとしても、「思い立ったが吉日」で、そこからやり直せばいいのである。そのためには、早期教育的な関わりだけが意味あるのではなく、大器晩成もあるだろうし、何も見てくれの良い大輪の花ばかりが価値あるのではなく、人知れず地味に咲く花があったっていいのじゃないかとも思う。
 とにかく、人として生まれてきた自分の人生に最終的に「イエス」と言える人生であれば、それはそれでいいのではないだろうか。


 


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