教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

北海道旅行から考えたこと……(1)食の大切さ

2009年08月04日 | スクール活動
北海道旅行から考えたこと…①食の大切さ

▼スクール活動の一環としての旅行
 今回、私たちは7月7日~7月9日の3日間、2泊3日の北海道東部初夏の旅を行なった。参加者は私たち教師2名と子ども達。フリースクール・ぱいでぃあとしては2度目の世界自然遺産知床散策&クルーズ、摩周湖・阿寒湖・根釧原野・花畑牧場、富良野・美瑛・旭岳巡り等の旅行である。旅行は子どもたちの希望をそれなりに叶えたものであり、ぱいでぃあの毎月の社会見学体験学習の成果を実践するものでもあった。だから、それ自体はぱいでぃあの学習活動の一環との位置付けであった。

▼旅では「食」が問題になる
 しかし、旅には旅の準備が必要であり、ただ身体を移動させればいいというわけにはいかない。普段の生活が、たとえそれが学校を離れた不登校の子ども達であっても日常生活の延長にあるとすれば、旅というものはその大小を問わずやはり非日常の営みである。普段の自分をそのまま持ち込むというわけにはいかない。と同時に、普段ではまるで問題にもならなかったことが改めて問題にもなる。その一つが「食」の問題であった。 (子どもたちのほとんどは今回飛行機に乗るのが初めてなら、親元から一時的に離れて旅をするということ自体が初めてという子ばかりだった。必然的に子ども達は学校・家庭・友だち・近所という空間の中で生活し思考していたことになる)

▼旅行と食の問題
 食わず嫌いや食の偏り、食のアレルギーなど、食に偏りがあると、旅の先々でいかに大変な思いをしなければならないか、今回の旅行で骨身に沁みて感じた人たちがいたかもしれない。これは普段は自分の好きなものを食していればまず問題になることはないが、みんなで旅行するとなると、そのことが大きな課題として考えなければならなくなる。旅の先々でホテル等が自慢の料理として出してくるものが食べられないのだから。

▼食のアレルギーと食の偏り
 アレルギーの場合にはどうにも仕方がないところがあるが、恣意的な食の偏りや食わず嫌いの場合には、今までの生育の過程で何とか手立てはなかったのかという気にもなる。しかも、本人がまだ親の庇護下にいる時には、それが本人の個人の問題と処していいものかどうか。やはり親の関わり方の問題も考えなくてはいけないだろう。ただし、ここで言いたいのは責任の所在がどこのあるかということではなく、子どもの食の偏りは単にその場で摂取する食事の問題にとどまらず、その子の今後の食生活全般、ひいては現実生活での生き方そのものにも関わってくる問題であるということである。個人の嗜好のレベルの問題として処すればそれでOKというわけにはいかないだろう。

▼食と生き方の問題
 他のほとんどの人たちが「おいしい!おいしい!」「幸せ~!」と感じ、食せる喜びつまりは健康に生きてあることそのものの喜びを見出している時に、食の偏りのある人はその喜びを共に享受出来ないばかりか逆に自分には不要な排除すべきもの不適なものという対応になってしまいかねない。これはその人を責めると言うことではなく、そのようにしか関わることが出来ないということの侘しさ辛さ思うのである。くどいようだが、食の問題が単に食の問題にとどまらず、本人の今後の生き方そのものを狭めることにもなってしまうことを老婆心ながら危惧するのである。

▼食の理解と新たな課題
 この頃、盛んに「食育」の大切さが叫ばれている。そういう中から逆に食の偏りやアレルギーの問題もクローズアップされるようになってきた。その結果、魚介類がダメ、卵がダメ、牛乳がダメ、蕎麦がダメ…などということが段々理解されるようになってきた。そういう理解の乏しかった昔は、生徒の我がままのように看做されて居残りさせられてまで食べることを強要されたりもしたものだ。今、そういう無理解な教職員の対応はあるまい。そのことで救われている人も多いのではないか。しかし、それでもやはり、この問題は今後も続く。問題は何も解決していない。むしろ複雑化したといってもいいだろう。今回の旅行を通じても、このことは強く感じられたことであった。まだ、事前に申し出た子の場合には不十分とはいえ、ホテル側と交渉することができた。しかし、それを申し出なかった子どもの場合には、皆と同じものが出てきたわけで、今更どうにも対応できないことにもなった。

▼食はその国の文化問題である
 さらに、この食の問題は個人の嗜好にとどまらず、その国の文化や民族の営為とも大きく関わってくる。今回のように国内の旅行ならまだいいが、海外の国に行きそういう問題に出くわすと、単に個人の嗜好では済まなくなることも出てくる。その食を嫌い排除することが、その国や民族の文化や社会的伝統を拒絶する行為とみなされてしまうこともないわけではない。ある社会では、それを「食べた」ということがその社会や文化のあり方を了解し同意したということを意味することもあるのである。食の問題はそこまで発展してしまう。

▼食育と不登校の問題
 単なる小旅行で生じた問題をそこまで引っ張るのは問題があるかもしれない。しかし、この問題は未解決の問題として今後も考えて行かねばならない。それにしても、教育の問題を考える上で「不登校と食育」というキーワードはとても大きな視点であることを改めて考えることとなった

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