言語エネルギー論

言語について考えていることを発信していきたいと思っています。共感と励ましのカキコをお待ちしています。

中国語で筆談

2007年04月21日 12時12分55秒 | 中国語

中国語を話すカンボジア人の少年とParisの地下鉄で筆談したことがある。
中国人の女子大生達に日本語を教えたこともある。
漢字という共通語のおかげで他の言語に比して知らなくてもお互い理解したような気持ちにもなる。
しかし共通だからこそ、びっくりする体験もある。
中国語を始めたころまず驚いたのは「走」が歩くという意味だと言うこと。どうしても「走る」とまずは思ってしまう。
中国語でも古くは「歩く」は「歩く」だったからこの違いが生じた。
古い中国語にはあったが、今はもう違う漢字で表現する言葉の一部を列挙すると、

言ー説、 歯ー牙、 口ー嘴、 置ー放、 待ー等、 行ー去、 足ー脚、 盗ー偸、 目ー眼、 犬ー狗、etc.(左側の語は、日本語の中にだけ残った)

上記の中で日本人として不思議なのは何故「待つ」を「等」と表記するのかと言うこと。「盗む」を「偸」と表記するのかと言うこと。
「歩く」の「走」と同様、いつまでたってもしっくりこない。
原因は単なる調査不足と練習不足にあるのだけれど。


もののあっぱれ

2007年04月16日 19時01分49秒 | 日本語

自分で考えたことではなく昨日ラジオで偶然聞いた話そのままなのだけれど、面白いので書き留めておく。
それは「もののあわれ」について。
「ああ」も「はれ」も心に強く感じた時に発する間投詞だったとか。
そして「ああ」+「はれ」=あわれ
驚いたのは「あっぱれ(天晴れ)」も、「ああ」+「はれ」=あっぱれで、元は同じと言うこと。
どちらの方が感情を強く長く持続するかと言うと「ああ」+「はれ」=あわれ、の方で結局こちらが元のまま残った、というお話。

確かに果し合いで決着がつくと、一方を見て「あわれ」でもう一方を見て「あっぱれ」と、同時に思うものだけれどね。
「悲しい」「つらい」や「嬉しい」「楽しい」と決定的に違うのは、第三者的発語なのだというところに気づく。