“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑩ 『ヴィック・ダナとルー・クリスティー』
Vic Danna 476位
1942.8.26 New York出身
モアー/ブルーレディーに紅バラを
Lou Christie 496位
1943.2.19 Pennsylvania出身
悲しき笑顔/恋のひらめき
【ティーン・ポップス時代の最終コーナーで登場した、異色の2人】
やっと辿りつきました。この2人の項を書きたくて、“24人衆”の紹介を始めたようなものですから、、、。実は、選定基準も、この2人に、やや有利なように設置されているのです。エルヴィス以降、ビートルズ以前に初ヒット、というのは、公平なのですが、50年代末より、60年代初頭、ことに62年~63年のヒット曲の割合に比重を置いているため、この二人はかろうじて滑り込みます。殊に、ヴィック・ダナは、アダルト・コンテンポラリー歌手のイメージも強いのだけれど、ポップスヒットも多いため、やっとこさ条件をクリアしたのです。50年代末から60~61年にヒット曲を持つ何人かの歌手は、62年以降にヒット曲がなかったり、後にC&WなりR&Bなりに移行して、そちらのほうの曲数が多かったりして、条件から外れているのです。2人は、「20世紀ランク500位以内」「Popチャートへのランク10曲以上」の条件も、ぎりぎりでクリアしていますし、、、(24人衆の紹介を終えた後、選から外れた周辺のシンガーも紹介して行くつもりです)。・・・
この2人、余りにも対照的です。個性の固まりのようなルー・クリスティー。これほどまでに“個性”を感じさせない歌手は、他にいないのではないか、と思わせるほど没個性のヴィック・ダナ(そのこと自体が個性的であるとも言えますが)。ライブの映像や、自身のH.P.を見れば分かるように、ひたすらポジティブでアグレッシブな、クリスティと、自らの存在を消し去ってしまおうとしているかのように、表舞台には現れない、ダナ。でも、僕には、その極端さがかえって何となく、双子のペアみたく感じてしまいます。
ヴィック・ダナは、いわばボビー・ヴィントンのミニチュア版です。ボビー・ヴィントンから彼の個性を抜きとってしまえば、ヴィック・ダナになる?と言っても過言ではないでしょう。でも、初ヒットはヴィントンよりも早いのです。61年の暮の「リトル・アルター・ボーイ」、クリスマス・ソングです。クリスマス・ソングがデビューヒットというのも異例ですが、その歌自体が、クリスマス・ソング特有の美しさや華やかさを全く持たない、クリスマス・ソングらしからぬ実に地味な歌、新人歌手のこのような曲が、43位というチャート・ポジションによくぞランクされたもの、と驚いてしまいます。
その後も、「シャングリラ」ほかのTop 40曲を含む10数曲を、PopチャートとACチャートに送り込み続けていて、ある意味、Johnny Tillotsonに並ぶ、コンスタント・ヒットメーカーということが出来ると思います。ちなみに、PopチャートのTop 10
ヒットは1曲だけ(「ブルーレディーに紅バラを」65年10位)、他の23組は、全員3曲以上のTpo 10ヒットを持っているので、その意味でも異例です(ただしADのTop 10は5曲、これは、Gene Pitneyと並び、Bobby Vinton、ConnieとBrendaの2人の女性歌手、Jonny Tillotsonに次ぐ成績)。
ほぼ同時期にデビューしたAD歌手に、ジャック・ジョーンズ(1938年生まれ)やウエイン・ニュートン(1943年生まれ)がいて、立ち位置的には彼らに近いのですが、ヴィック・ダナのほうが、よりポップス的な風味を有しているように感じられます。彼の略歴を見ると、サミー・デイヴィスJr.に見出されたことになっているので、広い意味での“シナトラ一家”の末端に連なるのかも知れません。
実は、彼のCDの入手には、かなりの苦労を要したのです。彼に関する情報もほとんどないし、ビルボードの総合ランキングでの紹介も、僅か半行で済まされてしまっている(生年と出身地だけの記述)。その他のレコードリストにも、彼の欄は見当たらない。実績からすれば、当然存在してもいいはずなのですが。むろん、レコード・ショップの棚にも見当たらない。まるで、存在が抹殺されてしまっているかのような扱いなのです。何か悪事でも働いて、この世界から追放されたのでは?とか、そんなことまで考えてしまいました。
だから、彼の「コンプリート・ヒット」と題したベスト輸入盤を入手した時は、それは嬉しかったです。ライナー・ノートを読んで行って、最後のところで涙してしまいました(嬉し涙です)。「今、彼は、アトランタの自宅近くで、息子2人と、ガソリン・ショップを経営して、幸せに暮らしている、、、、もう、ショー・ビジネスの世界に戻る気は、全く無いと」。
そういうことだったのか、、、。この世界、いかに自分をアピールして行くかで、全てが決定されるのでしょう。存命の“24人衆”のうち、リタイアを宣言したのは、彼一人なのですね。自らリタイアしてしまった場合は、存在が無くなってしまったも同然なのです(ずっと将来はともかく)。そのことも、いかにも彼らしい選択だと思うのです。
さて、ルー・クリスティの話題に移りましょう。何から何まで、ヴィック・ダナとは対極的。
初ヒットは、ダナの一年余り後の、63年正月第一週、紆余曲折の後、「悲しきジプシー占い」がチャートに登場、Pop 24位まで上がります。ファルセットの裏声を駆使した、一種のノベルティーソングです。この当時は、ファルセット流行り。裏声というより一貫したハイ・トーンのニール・セダカ、完全な裏声(部分的にひっくり返ります)のデル・シャノン、地声からだんだんと移行し音域の広さを示すジーン・ピットニー、さらにフォー・シーズンス(フランキー・ヴァリ&ボブ・ゴーディオ)にビーチ・ボーイズ(ブライアン・ウイルソン&マイク・ラブ)。
ルー・クリスティーは、ごく普通の地声から、異常の世界の一歩手前とも言えそうな極端な裏声に、激しく移り変わって行く、それでいて、ぎりぎりのところで正常を保っている、実にスリリングな展開の歌唱なのです。あえて言えば、すぐ直前にブレイクした、フォー・シーズンスに最も近く、“一人4・シーズンス”と言って良いかも知れません。
普通なら一発きりで終わるところ。が、続く第2弾の「悲しき笑顔」が、何とBest 10入りします。唯のノベルティー・ソングの歌手ではなさそう、と印象づけますが、Hot 100入りはさすがに次の3曲目で打ち止め、やはりあだ花だったのか、と思いきや、、、、、。
2年後の65年暮れ、MGM 移籍第一弾の「恋のひらめき」が、何と何とNo.1に。スリリングな裏声は、より洗練され、正常と異常の世界の往復は、ますます凄みを増します。続く「雨のラプソディー」もヒットしますが、やはり3曲(ほかに旧レーベルからの録音曲が2曲)で打ち止めです。
そして、69年に入って、三度目のブレイク(ここら辺り、トミー・ロー、ブライアン・ハイランドと全く同じ形跡)の「アイム・ゴナ・メイク・ユー・マイン」。スリリングさは更に研ぎ澄まされて、地声と裏声が一体になり、迫力満点。例の「元祖テーイン・アイドル(の今)」のDVDでは、ルーは、この曲を圧倒的な迫力とパフォーマンスで唄います(もう一人、フレディー・キャノンともども、“昔のアイドル”扱いするのは、余りに失礼!)。
僅かに3度のピーク、各2~3曲のチャートヒットながら、いずれもが大ブレイク、インパクトの強さから言えば、24人衆の他の誰にも引けを取りません。
70年代中期には、ハワイアン調の佳曲「ビヨンド・ザ・ブルー・ホライゾン」で4度目のカムバックを果たし、現在に至るまで、一貫してパワフルなステージ披露し続けています。
彼に関しては、特筆しておくべきことが一つあります。ホーム・ページです(ジョニーのH.P.にもリンクされているので、ぜひご覧ください)。各界スター(エリザベス女王まで!)との2ショット集、ミーハー・ファンのノリです(先に紹介したダイアン・リネイ2ショット集のグレイド・アップ版!)。
注目するべきは、デビュー当時(19才)から現在(67才)まで、全く変わっていないその若々しさ!ちょっと異常と
いうくらいです(お嬢さんとの2ショットも兄妹にしか見えない!)。
彼が敬愛する、BBのブライアン・ウイルソン(1つ年上)も、4Sのフランキー・ヴァリ(6つ年上)も、年相応に皺くちゃのおじいちゃんなのに、本人は青年のまま、タイムマシンに乗ってやってきたかのよう。コニー(5つ年上)や、ブレンダ(1つ年下)や、レスリー(3つ年下)とは、お婆ちゃんと青年。むろんジョニー(4つ年上)とも、、、老人ホームに介護に来た学生バイトみたい。
他にも様々な2ショット。いずれも相手は神妙な顔でいるのに、本人はどの写真も、いかにも楽しそうにニコニコして収まっています。
Vic Dana
61.11.27(Billboard Hot100初登場日付け)-66.08.20(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:13曲
同Top40ランク曲数: 03曲
同Best10ランク曲数: 01曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:17曲
4チャートのBest10ランク曲総数:05曲
Lou Christie
63.01.05(Billboard Hot100初登場日付け)-74.04.27(●ヒット曲が断続するため最終チャートまで通算して集計)
Hot100ランク曲数:12曲(●)
同Top40ランク曲数:5曲(●)
同Best10ランク曲数:3曲(●)
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:14曲
4チャートのBest10ランク曲総数:04曲
【ヴィック・ダナ/マイ・ベスト10】
●I Will
1962年Pop 47位、AC 12位。デビー曲「The Girl Of My Dreams」から3枚目のシングルで、X’ mas-song「Little Altar Boy」(61年45位)に次ぐ2曲目のヒット。イギリスではビリー・ヒューリー盤、アメリカでは後に、師匠(サミー・デイヴィスJr.)の相棒、ディーン・マーチン盤が、ヒットしています。
●A Very Good Year for a Girls(すてきなガールハント)
1962年にリリースした、6枚目と7枚目のシングルのA面(B面にはそれぞれ別の曲を収録)。チャートには登場しなませんでした。同年Jonny Tillotsonも録音していて、翌63年秋MGM移籍直後に古巣のケイデンスから最後のシングルのB面として発売されています(64年春、日本限定のヒット)。ジョニー盤が典型的な“ティーン・ポップス”として作成されているのに対し、曲本来(おそらく)の特性を生かした、ジャジーな仕上がりで、アイドル路線とは一線を画しているようです。
●More(果てしなき慕情)
1963年Pop 42位、AC 10位。アップテンポの「Danger」(63年Pop 96位)をはさみ、“世界残酷物語”のテーマ曲が、Pop,
Adult両チャートに。日本でもかなりのヒットを記録しました。
●Shangri-la
1964年Pop 27位、AD 8位。オリジナル・ヒットは、ロバート・マックスウエルのハープ・ヴァージョン。この地味な曲を、ヴォーカル盤として取り上げ、自身では2番目のPopチャート高位につけるヒット曲としています。
●Red Roses For a Blue Lady(ブルーレディーに紅バラを)
1965年Pop 10位、AC 2位。「Love Is All We Need」(Pop 53位 AC 7位)、「Garden in the Rain」(Pop 97位 AC 13位)をはさみ、64年暮れにリリースされたこの曲が、ヴィック・ダナ最大のヒットとなります。ベルト・ケムプフェルト楽団、ウエイン・ニュートンと競作となり、ブリティッシュ・ロック勢全盛の中、三者揃ってチャート上位にランクされるという、(この当時としては)偉業とも言って良い成果。なかでもヴィック盤は、本命とされたKaempfert盤(Pop 11位、AC 3位)の上を行く(ニュートン盤はPop 23位、AC 4位)大成功を収めます。
●Bring a Little Sunshine
1965年Pop 66位、AC 20位。続くシングルは、チャート上の成績はやや物足りないも、大変に美しいメロディーのC&Wバラード調の曲。この頃から、C&Wのカヴァー曲を、立てつづけにリリースしていきます。
●Moonlight and Roses(月光と薔薇)
1965年Pop 51位、AC 5位。大変に美しい曲で、僕のBest Favorite Songの一つ。ACチャートでは、「ブルーレディー~」に次ぐポジションに付けています。
●Crystal Chandelier
1966年 Pop 51位、AC 14位。これもとても美しいメロディーの曲。「I Love You Drops」(66年Pop 30位 AC 20位)、「A Million and One」(66年Pop 71位 AC 24位)と、同傾向のカントリー・バラード調ヒットが続きます。
●Distant Drum(遥かなる太鼓の響き)
1967年Pop 114位、AC 33位。オリジナルは61年のロイ・オービソン(シングルB面ノン・ヒット、シンディー・ウオーカー作)。次いでジム・リーブスの歌で、C&WチャートNo.1に。ヴィック・ダナ盤も、両大物ヴェルヴェットボイスに負けない、若々しい歌声を披露してくれます。
●If I Never Knew Your Name
1970年Pop 47位、AC 14位。60年代末にはしばらくヒットが途切れますが、70年代初頭、ニール・ダイアモンドの2作品でチャートに再登場。もう一曲は「Red Red Wine」(72年 Pop 30位)。これまでのヴィック・ダナとは少し違った、感情が表に現れた節回しで、ちょっとボビー・ヴィントンの歌唱スタイルを思わせます。最後のチャート・ヒットは「Lay Me Down (Roll Me Out To Sea)」 (76年 AC 14位)。
【ルー・クリスティー/マイ・ベスト10】
○Red Sails In The Sunset(夕陽に赤い帆)
プラターズその他でおなじみの、あの名曲「夕陽に赤い帆」です。1962年にC&Cレコードからリリース、ルーレットから再発売されて、ルーの初ヒットとなった「悲しきジプシー占い」のB面曲。僕は、ほとんどリアルタイムで、次の「悲しき笑顔」と共に入手したのですが、一瞬、耳を疑ってしまった。もしかすると、ジョニー・ティロットソンの曲が間違えてカップリングされてしまっているのではないか、と。奇抜極まるA面2曲と、余りにもオーソドックスなB面2曲の落差に、驚いてしまったのです。ルーが、地声で歌っても、素晴らしい歌が唄える本格的な歌手であると、いうことを、その時知ったのです。
○The Gypsy Cried(悲しきジプシー占い)
1963年 Pop 24位。デビュー・ヒット。マイナー・レーベルC&C時代の製作。その後、ルーレットからのリリース盤が、大ヒットに結びつきました。1人2重奏、後のライブ映像を見ても、本当に一人で唄っている、たいしたものだと思います。
○Two Faces Have I(悲しき笑顔)
1963年 Pop 6位。ルーの2大ヒット曲の一つ。もうひとつの「恋のひらめき」共々、原題も素敵なうえに、邦題もとてもよく出来ています。“Pops黄金時代”を代表する名曲の一つです。ルーの大半のヒット曲は、彼と、彼の音楽教師と言われるトワイア・ハーバート女史との共作。
○How Many Teardrops
1963年Pop 46位。歌詞の中に「Must I~」で始まるフレーズが何箇所もあり、何だか“ティーン・ポップス”らしからぬギグシャクした雰囲気があって、そこがまた個性的に思えるのです。
○Lightnin' Strikes(恋のひらめき)
1966年 Pop 1位。「I can’t Stop!」の繰り返し。それがだんだん高まって行くところは、ゾクッとしてきます。発狂一歩手前!と思わせながら、冷静に進行して行く。No.1ヒットに相応しい風格を感じます。
○Rhapsody in the Rain(雨のラプソディー)
1966年Pop 16位。MGMからの2ndヒット。クラシックの名曲をベースにした、ルー&トワイアコンビの作品。前作同様、「Stop!」の語が、効果的に使われています。なお、ルーの歌の大半は、「私のボーイフレンド」の大ヒットでおなじみの女性ヴォーカルグループ「ジ・エンジェルス」が、バックコーラスを務めています。
○Outside the Gates of Heaven
1966年Pop 45位。「恋のひらめき」の大ヒットにより、以前所属していたレーベルからの旧譜も相次いで再発され、この曲と「Big Time」(Pop 95位)が、「雨のラプソディー」と共にチャートインします。
○I'm Gonna Make You Mine
1969年Pop 10位。「雨のラプソディー」以降、「Painter」(66年Pop 81位)、「Shake Hands and Walk Away Crying」(67年Pop 95位)の2曲のチャートヒットを放ちますが、再びチャート上から姿を消し、3年後に3度目の大復活です。
○She Sold Me Magic(魔法)
69年にもう一曲「Are You Getting Any Sunshine?」(Pop 73位)をチャート・インしたあと、アメリカのチャートからは姿を消してしまいますが、翌70年はじめにイギリスのチャートにこの曲を送り込みます(メロディー・メイカー誌25位)。そしてこの曲は、日本での唯一の彼の大ヒット曲となるのです(オリコン7位)。
○Beyond the Blue Horizon
1974年Pop 80位、AC 10位。ハワイアン音楽を思わせる美しい曲。持ち味のハイトーンを抑え気味に、しかし徐々に盛り上がって行く構成は、青い海の中と、朝の太陽の光を眼前に再現、とても魅力的です。
《おまけ》○“Beach Boys”Summer Medley
正確な曲名は忘れました。80年代、ルーがリード・ボーカルを取る覆面グループのチャート・ヒット。“一人フォー・シーズンス”であるとともに、“一人ビーチ・ボーイズ”でもあるのです。