青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(未完成仮草稿)

2013-05-30 17:47:17 | アメリカン・ポップスearly60’s
「旧アカウントの停止」「部屋の退去」「痛風悪化」と、三重苦で、途方に暮れています。さりとて、どうにもしようがありません。アパートはモニカの試験の目処がつく10月には、新たに確保する予定です。でも痛風のほうは、いかんともしようがない。モニカは「病気の治療が先決」というのですが(それはもちろん正論ではあるけれど)現実問題として、そうは言っていられない。「仕事の遂行」「予算の確保」「住む場所の確保」それによって、体勢を整えてからの治療ということになります。

他に選択肢も考えられないので、とりあえず地方(雲南北部の四川省境付近の翁水という集落)に移ります。理由はもちろん宿泊費が安いこと、そして(痛風さえ治まれば)取材・撮影活動を行えること。体調のこれ以上の悪化(現時点でも満足に歩くことは出来ないのですが)を防げるか否か、一か八かではあるのですが、まあ、死んでしまうようなことはないでしょう。と書いた端から正反対の方向に行くことに。考えに考えた末、ウルトラCの方法をとりました。

広東省の翁源(偶然“翁水”と似た名前です)。Monicaの実家のある町です。体調を考えれば、最も安全な策だと思っています。早ければ6月10日頃、遅ければ6月15日頃、Monica自身も一時帰省するので、今後の(治療などの)相談をします。

状況が回復せねば、Monicaの帰省までホテルでジッとしています。回復すれば、付近の山間部で、野生アジサイの探索を行います。状況がより酷くなったときは、Monicaの実家に世話になります。更に危険なときは、香港が近い(バスで4時間ほど)ので、日本に帰るという選択肢も採れます。

今日の午後の夜行列車で、明日広州に着き、夜には翁源に着くはずです(一度香港かセンツエンに寄るかも知れない)。ビザ更新時は香港に出れば良いし、それ以外は一箇所にいるので、交通費そのほかも余りかからず、次の年金まで充分持ちそうです。

年金受領後の中旬にはMonicaと一緒に昆明に戻り、病院でじっくりと検査を受けた後、すぐに雲南四川省境近くの“翁水村”に向かう予定です。もっとも、あくまで体の状態が良くなったら、の話で、でなければ絵に描いた餅。

今回「治療費用」そのほかは、N氏にお世話になりました。大袈裟ではなく、命の恩人です。仕事は、新聞連載(6月下旬からにずれ込み)のほかは、企画が決まりかけている、複数の雑誌、単行本とも、最終決定まで一進一退の状況。企画が通ったわけではなく、といって企画が消滅したわけでもない。待ちの状態なのです。この段階で前払いを要求して、それによってせっかく纏まりかけた企画が潰れてしまう、というのがこれまでのパターンなので、今はじっと我慢の子です。

何度も何度も繰り返しお伝えしているように、僕の本職としての守備範囲は「中国の野生植物や昆虫」に関して。そのデータや写真の紹介は、基本的に活字媒体(単行本・雑誌・新聞など)で行い、そこから原稿料を頂いているわけですが、並行して、インターネット上のブログでも発表し続けていこうと目論んでいるのです。

だから「野生生物を対象としたブログ記事は、本来援助者に向けての発信ゆえ、継続訪問をされる読者の方は何らかの形で自主的な協力を願いたい」と明記し続けているわけですが、誰一人として反応がない。毎日の訪問者数は、現在150人前後、“協力者”以外の「定期読者」も少なからずいるはずです。「非常に役に立つ内容で、いつも楽しく読まして頂いています、でも協力するつもりはありません」そんな返答をしてくる方が、何人か存在します。

無人の新聞スタンドがあって「新聞を持っていかれる方は100円を入れて下さい」と書かれていたとします。誰も見ていないわけですから、100円を入れなくとも持っていくことは可能です。でも、新聞を受け取る代障として100円を入れる、これは人間として当たり前の行為です。

この「(野生生物を対象とした)ブログを訪れる方は、自主的に協力頂きたい」といった要旨の、経済的あるいは体調面で窮地に置かれ、改めて協力を請う文章を載せたときは、なぜか訪問者や閲覧者が一段と増えます。まあ、大多数の方々は、人の苦境を面白半分で見て、楽しんでいるわけですね。自分とは関係ない、自己責任だ、と。僕には不思議でなりません。

それで、協力を頂けた方といえば、僕が趣味でアップしている(従って“援助には及ばない”と明記している)「アメリカン・ポップス」関係の読者のF氏。回りの人々は、氏のことを“変わったやつだ”と見ているのでしょうが、人の苦境を笑いながら見ていられる、それらの人々のほうがずっと変なのです(でも数が多く、それが一般的となれば、別段問題はないわけですね)。いかに常識人っぽく振舞っていても、僕には実に卑しく感じられます。僕ならば、もしそのような記事が目に入ったなら、何らかの形で反応します。誰かに助けを求められれば(自分の出来る範囲で)それに応じる、というのが人間としてのあるべき道だと思うのですが、、、。

まあ、そんなわけで、「ビートルズやアメリカンポップスが好き、ことにジョニーの“うつろなハート”が大好き、という“命の恩人”に対する「お礼」の意味も込めて、第6回をアップする次第です。


I “謎”への入り口

「うつろなハート」と「恋のウルトラC」

【文章後送】


Ⅱ 「涙くんさよなら」の謎


Good-by Mr. Tears/涙くんさよなら JOHNNY TILLOTSON 1965


【文章後送】

Ⅲ 「Judy, Judy, Judy」の謎


【文章後送】

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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第5回】(再編掲載)

2013-05-30 08:50:18 | アメリカン・ポップスearly60’s

Bryan Hyland V.S. Johnny Tillotson 1958~2010


「差別と人種について、そのほか」という見出しで、深刻な(?)内容のブログを書く予定でいたのですが、非常に長くなりそうなことに加え、今日がベトナム滞在最終日で、中国に戻るとまた暫くyou-tubeが開けなくなってしまうことから、性懲りもなくノー天気な話題で行くことにしました。

まあ、“ノー天気”な唄にかけては、誰にも引けを取らない2人です。ただし“ノー天気”なのは“楽曲”(ことに初期の)に於いてのみで、本人たち自身が“ノー天気”なのかどうかは不明、そうである可能性も少なくはないでしょうが、(Lastに紹介した)ごく最近の2曲を聴く限りでは、必ずしもそうとは言えない気がします。いずれにしろ、50年以上現役で唄い続けているわけで、単に“ノー天気”なだけでは、ここまで長続き出来ないでしょう(“ノー天気”だからこそ長続きしていると言えなくもないですが)。

ハイランドとティロットソンの代表曲と言えば、1960年の「ビキニスタイルのお嬢さん」と「ポエトリー・イン・モーション」、1962年の「涙のくちづけ」と「涙ながらに」に尽きるのですが、ここは少し違った趣向で、、、。

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Ⅰ 今回は「(本国での)ノン・ヒット曲」を集めてみました

一曲目は、ブライアンのデビュー曲「ローズ・マリー」。しかし全くヒットしませんでした。素晴らしい曲なのですが、日本のそれより遥かに規模が大きなアメリカの音楽市場では、実力だけでは台頭することは難しく、“運”も含めた多くの要素が合わさって、初めてブレイクに至るのだと思います。次の、いわば“ノベルティー・ソング”の「ビキニスタイルのお嬢さん」で大ブレークに至るわけですが、これはまさしく“運”“タイミング”を掴んだ、ということでしょう。もし、このチャンスを逃していたら、永久に「歌の上手な地方の天才少年」で終わっていたかも知れません。もっとも「運」だけで乗り切れるほどアメリカの音楽業界が甘くないことも、また事実で、このあと一度沈んでしまいます(いわゆる“ノベルティソングの一発屋”に成りかけた)。しかし彼は実力者でもあります。「涙のくちづけ」などを含む幾多の名曲で、何度も復活を果たすのです。

なお、以前のブログにも書いたように、「ビキニスタイルのお嬢さん」は、実は決してノヴェルティー・ソングなどではないことを強調しておきます。素晴らしいメロディと歌詞、そして歌唱による名曲です。最後の一フレーズ(女性コーラスの部分)は、少女の動き(作詞者の3歳のお嬢さんがモデル由)と回りの光景が、幻のごとく眼前に現れ、思わず涙が出るほどの美しさです。

話が「ローズ・マリー」から逸れてしまいましたが、“美しさ”という点ではこちらも文句なし。ヒットに至らなかったのは、新人歌手の曲としては“真っ当すぎて”インパクトに欠けていた、ということなのでしょう。ただし、確か(どの国だったか忘れたのですが)国外ではヒットしたという記録が残っていて、なんと、日本でもある程度のヒットを記録したらしいのです。それも「ビキニスタイル~」発売以前に! 俄かに信じられないのですが、彼の他の日本でのヒット曲のパターン(本国ノンヒット多数)から考えれば、有り得えない話でもないような気もします。

Rosemary BRIAN HYLAND 1959


Ⅱ 初期の曲は“ノー天気”丸出しです

両者の共通点のひとつは、ノンヒットのB面に良い曲が多く、しかもそれらの曲の幾つかが、日本で大ヒットしているということ。そう、彼らの日本での大ヒット曲というと、なんといっても、まずは“胡瓜”絡みのこの二曲です。ブライアン・ハイランド「夕方胡瓜捨てる」(“You got a cutie still”のフレーズが、前半に本人で、後半に女性ボーカルで、都合2回登場)、ジョニー・ティロットソン「胡瓜パイ」(26回出てくる“cutie”のうち、23回が“キューリー”と聞こえる)。

共に1961年にリリースされたシングルB面曲。A面はそれぞれ、Brian Hyland「Sixteen cubes of Sugar/16個の角砂糖」、Johnny Tillotson「Without You」で、ブライアンのほうは両面とも本国ノン・ヒット(ただし日本では別々のシングルで発売されA面もある程度のヒットを記録したらしい)、ジョニーのほうのA面(両面とも自作)は本国ではベスト10入りした大ヒットとなっています(日本ではシングルで発売されず)。

Baby Face/ベビー・フェイス BRIAN HYLAND 1961


Cutie Pie/キューティー・パイ JOHNNY TILLOTSON 1961



ジョニーは、誰もが認める「コンスタント・ヒット・メイカー」。デビュー・シングルからの連続23枚(計26曲)の全てがBillboard Hot100にランクされていて、これは至難の技だと思います(この時代の若手歌手ではNo.1の記録かも知れない)。しかもその間、3曲連続して順位が下降するということも、一度もなかった。大半が、一応メジャーヒットの目安となるトップ40入りか、ACやC&Wなど別ジャンルで上位に食い込んでいる。しかしなから、連続ヒットが途切れて以降の数10曲は(数曲のC&Wチャートインを除き)全て外れ。

一方の、ブライアン。大ヒットのあとは、ガクンと順位が下がり、3~4曲後にはヒットチャートから跡形もなく消えてしまっています。他ジャンルでのランクインも無し(唯一「ビキニ~」がR&Bのトップ10に)。しかし忘れられかけた頃に突然再度大ブレークし、それを何度も繰り返します。ジョニーが連続ヒットを飛ばし続けていた63年~65年の曲は、ほとんど全てハズレ。しかし、ジョニーのヒットが途切れた66年以降も、66年、69年、71年に、それぞれ2~3曲の突発的ヒットを飛ばしています。コンスタント・ヒットメーカーのジョニーとは正反対に、当ればでかい爆発型、ヒット曲のイメージのインパクトの強さから言えば、ジョニーを上回ります(例えて言えば、イチロー型と松井型、というところでしょうか)。

ところで、ジョニーのほうは“デビュー以来8年間に亘って一度も途切れることなく連続ヒットを記録”と上に記したのですけれど、これには注約が必要です。

昨年「Bear Family」からリリースされた、ケイデンス時代の「Out-take集」には、付録として、これまで謎の曲だった「I’ll Never Gonna Kiss For You」が収録されています。今までの解釈では、『デビューに際して、ソロシンガーとして打って出るか、アイドルグループ“Genevieve”の一員として勝負するか、2つの可能性を探ったが、前者が一応の成功を収めた(夢見る瞳b/wウエル・アイム・ユア・マン)のに対し、後者のほうは成果が出なかったので、結局ソロシンガー一本で行くことになった』とされていました。今回、「アウトテイク集」に付されたブックレットの解説にて、事実は全く異なることが判明。

実は“Genevieve”はユニットの名ではなく、フランス?のベテラン女性歌手の名。今手許にブックレットがないので正確なことは分からないのですが、19歳のジョニーより遥かに年長(確か30歳を越えていた)の実力者のようです(「Jack Parr TV show」という番組のレギュラー歌手?)。当時ケイデンスからはアルバムもリリースされています。両面ヒットを記録したデビューシングル「夢見る瞳b/wウエル・アイム・ユア・マン」と踵を接して(というよりもほとんど同時に、、、Cad.1353、Cad.1354と続きの番号)リリースされ、B面はGenevieve単独、A面のこの曲も彼女が第一ボーカルとされ、“with Johnny Tillotson”とクレジットされています。

後年、ジョニーのほうが遥かにメジャーになったので、駆け出しの頃とはクレジットが逆になってしまった(それどころか、ここに紹介したyou-tubeには“Genevieve”の名がどこにも記されていない、幾らなんでも“それはあんまり”と思う)。

もっとも、たとえ大物歌手であっても、友情参加ということでクレジットなし、という例は枚挙にいとみません。例えば“Jan & Deanの2大ヒット「サーフ・シティー」(63年1位)「パサディナのお婆ちゃん」(64年3位)のレコーディングにはジャンは参加していず、変わりにBeach Boysのブライアンがジャンと一緒にハモッている”とか、、、逆に“Beach Boysの大ヒット「バーバラ・アン」(65年2位)のリードボーカルは、なぜかJan & Deanのディーンが唄っている”とか、、、眉に唾を塗るような(しかしどうやら事実らしい)話は幾らでもあります。

ジョニーの2大ヒット曲のひとつ「ポエトリー」の伴奏に、フロイド・クレーマーやブーツ・ランドルフが参加していることは余りに有名ですが、もうひとつの「涙ながら」にも、フロイド・クレーマーやアニタ・カー・シンガーズが参加していることは、これまで余り知られていませんでした。しかし、現在ジョニー自身のホーム・ページに当時の写真が紹介されていて、それによって実態が明確になったのです。

なお、「I’ll Never Gonna Kiss For You」に次いでリリースされた「True, True, Happiness」のバックでハモっている女性コーラスは、ケイデンスの大先輩コーデッツ(リーダーはケイデンス社長アーチ・ブレイアーの奥さんで、娘さんが後にエバリー兄妹のフィルと結婚)とのこと(当時はクレジット全く無し、アウトテイク集のブックレットで初めて明かされた)。デビー2曲目の駆け出し歌手のために、いわば同社の大スターが無償で後押しを、という図。

「I’ll Never Gonna Kiss For You」の場合は、上述のような例とは逆パターン、かつ少々趣が異なります。
ベテラン歌手(外国?から来た大事なお客さん?)への応援に、若くハンサムで声の良いジョニーが借り出された、というところでしょう。ヒットには至りませんでしたが、とても良い出来です。ジョニーの受け持ちは、2度のメロディーライン。むしろタイトルのフレーズを繰り返すだけのGenevieveよりもジョニーのほうが目立っている。実質的に正式なディオと考えても差し支えなく、となれば“凡打”としてカウントするべきかもしれないわけで、「デビュー以来の連続ヒット」は成立しなくなってしまいます。

なお、僕にとっての“神様”的存在のBert Kaempfertも、同一の曲を取り上げています。「Brazilian Love Song」、原曲は、おそらくトラディショナル・ソングなのだと思います(ここで紹介したかったのだけれどyou-tubeに見つからなかった)。

ジョニーの曲で、女性コーラス(ソロ?)が際立って目立つ曲のひとつが「素敵なガールハント」。全く曲調は異なりますが、「涙ながらに」と同一日同一スタジオで録音したことになっています。となれば、女性ボーカルは、アニタ・カー(またはアニタ・カー・シンガーズ)であるわけです(ジョニーたちとの会話が収録された「テイク7」を紹介したかったのですが残念ながらyou-tubにはアップされていない)。一方、ブライアンの「ビキニスタイル~」も、掛け合いの女性ソロボーカルが極めて強調された曲。同タイプの曲には、パット・ブーンの63年の大ヒット曲「スピーデイー・ゴンザレス」や、同じく63年の、ジョニー・シンバル「Mr.ベイスマン」(前者は後に「ワンダフル・サマー」の一発ヒットを放つ美人歌手ロビン・ワードだったと思う、後者は黒人男性)などがあり、リアルタイムでは掛け合い歌手の名はクレジットされていなかった可能性がありますが、いずれも現在では明記されているようです。

「ごめんねサリー」(この邦題は僕が仮につけたもの、実際は全く異なる題のようですが、思い出せないので、このまま通しておきます)の掛け合いボーカルは、A面の「ビキニスタイル~」とそっくり。「ビキニ~」よりも先に録音されたらしく、一説には当初こちらをA面として考えていたともされています。A面に勝るとも劣らないノリの良い曲で、(ジョニーの「すてきなガールハント」ともども)“ポップス黄金期”を代表しうる名曲だと思っています。ただし「ビキニスタイル」という言葉の上でのインパクトには勝てなかったでしょうから、こちらがA面として扱われていたなら、(「ローズ・マリー」の場合同様に)ヒットには至らなかった可能性大でしょう。なお、この2曲に「ベビー・フェイス」や「オンボロカーでぶっ飛ばせ」を併せた4曲は、そっくりの女性ボーカルが参加していますが、それらが皆同じ歌手なのか、知りたいところです。

I’m Never Gonna Kiss For You GENEVIEVE with JOHNNY TILLOTSON 1958


Don't Dilly Dally Sally/ごめんねサリー BRIAN HYLAND 1960


A Very Good Year For Girls/素敵なガールハント JOHNNY TILLOTSON 1962


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Ⅲ 時代は変わります

1964年春、Beatlesをはじめとしたイギリス勢のアメリカ上陸。隆盛を誇っていた“ポップス黄金期”のスター歌手たちは、あっという間に“駆逐”され、「ヒット・パレード」の表舞台から一斉に姿を消してしまいます。ジョニーの場合はその後丸2年間頑張ったのだけれど、66年には力尽きて、以降の数10枚のシングルリリースは(C&Wチャートの数曲を除き)全てハズレ。ブライアンのほうは、既に数年前からハズレが続いていて、ただしその分、66年以降も突発的にヒット(デル・シャノンと組んで製作した71年の大ヒット曲「ジプシー・ウーマン」を含む)を放っていたのですが、全体的に見れば大半がハズレということはジョニーと同様であります。

例えばシングル盤のリリース数で言えば、ジョニーの場合なら、ヒットが出なくなった66年以降のほうが
年間リリース枚数は増えていて、80年代半ばまで途切れることなく作品を発表し続けています。ここで言いたいのは、大量の「ハズレ」の存在は、むしろ“名誉”、ということ。言い換えれば、何度“凡退”を繰り返しても、自らの音楽を世に問い続けて行こうという“意欲”を反映しているわけです。

受け手(いわゆるファンたち)の嗜好は、大きく2つに分かれた、と考えられます。これまで通りの“アメリカン・ティーン・アイドル”を追従する“旧守派”のファン、ビートルズやボブ・ディランに代表される新時代の“反発”と“主張”を込めた曲を求める“転向型”の人々、時間が経つにつれて後者が圧倒的に増えていき、やがて全てのリスナーが後者で埋め尽くされるという状況になります。

ジョニーたち“狭間のシンガー24人衆”は、結果として新時代の要求に迎合することはなかった。出来れば“迎合”したかったのでしょうが、“元ティーン・アイドル”の実績が邪魔してスムーズに事が運ばなかった、というのが正直なところだと思います、、、、。といって、旧来の“ティーン・アイドル”からの脱皮もしなくてはならないのです。

ジョニーの1967年のアルバム「ヒアー・アイ・アム」は、(意識的に成されたのか否かはともかく)全曲を通しての構成が、奇しくも当時のジョニーが置かれた立場をそのまま綴るような物語となっています。一曲目「テイク・ジス・トレイン」で、田舎町から意を決して都会に出ます。3曲目に自作の「ロング・ヘアー・コミュニティー」。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ママス&パパス、ラヴィン・スプーンフル、ソニー&チャー、モンキーズなどが歌詞の中に登場し、“髪の毛を伸ばせばミリオンセラー”と皮肉っているのですが、実のところは負け惜しみ。自らもこの頃から長髪にして、仲間に加わりたいと思っていたのでしょうが、恩恵には全く蒙れなかった。

この曲に、僕は勝手に「ビートルズなんて怖くない」という日本題を付けています。この頃、相次いでリリースされ、しかし全くヒットには結びつかなかった日本製作(日本語)盤などではなく、この曲をこのタイトルでシングルカットしていれば、意外にヒットしたのではないでしょうか。何といっても日本に於いては1~2年前までは「新勢力」に対抗する「旧勢力」の一番手だったのです。本国でも、ビートルズ登場後の丸2年間、最も頑張った旧勢力の一人といえます。この期間(64年中期~65年)、“狭間の世代24人衆”のうちHot100のtop10ヒットを放ったのは、ボビー・ヴィントンが3曲、ロイ・オービソンとジーン・ピットニーが2曲、デル・シャノンとヴィック・ダナが1曲、それが全て。ジョニーはHot100のtop10こそありませんが、top40に3曲、ACのbest5に3曲を送り込んでいて、旧勢力の代表選手の一人であったことには違いありません。

なお、ジョニーは、ビートルズナンバーを一曲も取り上げていません(のみならず、おそらく一曲も重ならない)。これは凄いことなのではないでしょうか?ビートルズと同時代に200曲以上のレコーディングがあるアーティストでビートルズナンバーを取り上げていないのは、ジョニーのほか何人もいないだろうと思われます。その(意識的にかどうかはともかく)ビートルズナンバーを全く取り上げなかった彼が、真正面から意識してビートルズを唄ったのがこの曲です。ビートルズに対して、何らかの思うところがあったのかも知れません。 

A面6曲目に、アルバムのタイトル曲「ヒアー・アイ・アム」。“僕はニューヨークにやって来た。でも一人ぼっち(見知らぬ女の子に声をかけたりしています、笑)。頑張っているよ。ここにいるよ。見つけてよ。”といった要旨の内容(正確ではない)。結局は打ちのめされて“ナッシュビルに帰りたい”なんて弱音を吐いています。まるで、ジョニーの置かれた立場を、そのまま反映しているようです。

非常に意欲的なアルバムで、完成度も高く、この2~3年の間に急変してしまったリスナーの嗜好にも合っている様にも思われます。いかし大多数のリスナーには受け入れられなかった。意欲は充分に理解出来るし、作品的には一応の成功もしていると思うのですが、なにか、違和感のようなものを感じるのです。

最後の曲で、そのことが実感出来ます。田舎の町に帰ってきた「トミー・ジョーンズ」。典型的な“カントリー・ポップス”です。そこまでの(今までのジョニーらしからぬ)11曲とは違って、生き生きと歌われていることが、ストレートに伝わってくる。実際、(Billboardにはランクインされなかったけれど)Cashboxのほうでは久しぶりにトップ100内にランクインしています。そして、67年秋から68年初頭にかけ、以前そのままの、底抜けに明るい、かつ洗練されたカントリーロック「ユアー・ザ・リーズン」で、久しぶりにC&Wのほうにランクイン(40位台も10週間チャート)。

日本でも、当時意欲的に取組んでいた日本製(日本語)企画曲は全くヒットに結びつかず、66年暮れから67年にかけて、日本における最後のヒット曲「カントリーボーイ」が、久しぶりに各ヒットパレード上位に顔を出します。ジョニー自身とルシルの共作。ジョニーの曲としては珍しく哀愁を帯びたメロディーで、もしかすると意識して日本受けを狙ったのかも知れません。当時の「ミュージックライフ誌」で、C&W評論家の高山宏之氏が「C&Wの心が篭った名曲」と絶賛していたのを覚えています。

日本でのラストヒット「カントリー・ボーイ」、アメリカでの実質上のラストヒット「ユアー・ザ・リーゾン」が、それぞれ(一方は哀愁的な、一方は底抜けに明るい)いかにもジョニーらしいカントリー・ポップスというのは、頷けるところです。

さて、ジョニーの場合は62年に成されたティーンアイドルからポップカントリーへの移行が比較的上手く行き、のち4年間“意欲”と“結果”がまあまあ結びついていたと言えますが、ブライアンの場合はすでに63年頃からヒットが出なくなっていたわけで、言い換えれば“結果”に結びつかなかった“意欲的”な作品が、より早くから多数存在していたことになります。

63暮頃から数年の間に「ロッキン・フォーク」「カントリー・ミーツ・フォーク」といった、C&Wや(いわゆる“フォークロック”ではない従来型の)フォークソングを集めたアルバム、あるいはポップカントリーバラード的な曲を中心に添えたアルバムなどを相次いで発表しますが、シングルカットされた幾つかの佳曲ともども、注目を浴びるには至りませんでした。

それらのアルバムから何曲か、例えば僕の大好きな「さらばジャマイカ」とか「逢ったとたんに一目ぼれ」
とかを(前者はジョニーの「イエロー・バード」と、後者はボビー・ヴィントンの同曲のカバーヒットバージョンと、それぞれセットで)紹介しようと考えていたのですが、肝心のブライアン盤がyou-tubeにはアップされていません。最初に言ったようにヒットした曲のインパクトが強烈なため、you-tubeにアップされる曲も、数曲に集中してしまう傾向があるようです。

やっとyou-tubeで見つけたのが「Somewhere In The Night」。「ロッキン・フォーク」「カントリー・ミーツ・フォーク」は共に手許にあるのですが、それらには収録されていません。「ロッキン・フォーク」の直前にリリースされたノンチャートシングルです。今回、初めて耳にした曲(ずっと後年の作品だと思っていました)で、ティーン・アイドルから脱皮すべく、早い時期から「意欲」を見せていたことが分かります。

66年、一応大ヒットと言ってよい20位台の2曲によって、一時復活を果たします。アイドルといえば、数年前まではソロシンガーと相場が決まっていたのですが、新しいアイドルの形態は“グループ”に移り変わっています。この2曲は、それにあやかったということが出来ると思う。アメリカンポップグループの大御所「フォー・シーズンス」、飛ぶ鳥を落す勢いの若手グループ「ゲリー&ペイスメイカーズ」、彼らの曲を彷彿させる、“今”の時代にマッチした非常に良い曲です。しかし、あえて言えば、ブライアン本来の持ち味は必ずしも出ていないように思う。

71年には、9歳上の友人、デル・シャノンとコンビを組んで(デルのプロデュース)「ジプシー・ウーマン」の突発的大ヒットを放ちます。デルにもブライアンにも、明るさの中に、時折深い“影”を感じる曲が少なからずあります。それが上手く表現され成功に至ったのでしょう。69年にミドルヒットした「トラジディ」共々、ブライアンの持ち味は「綺麗な明るい歌」であると共に、「どこか影のある歌」なのです。

しかしながら、60年代後期以降も、全体としてはジョニー同様ノンヒットの量産が続きます。そのひとつ
が、ジョニー自作のデビュー曲「夢見る瞳」のカバー。これは素晴らしい出来だと思う(ジョニー本人盤よりずっといい)。しかしヒットには至らなかった。ブライアンの持ち味の「澄み切った美しさ」がよく出ているとはいえ、この時期に、こういったストレートな曲がヒットに結びつくことは、不可能に近かったのだと思います。

69年にリリースされた同じアルバム「Stay and Love Me All Summer」には、僕の大好きな曲が収録されています。「Baby You Come Rolling Across My Mind」。今回紹介したかったのですが、you-tubに見出し得なかった。前年に紹介されたこの曲のオリジナルアーティストは、「ペパーミント・トローレイ・カンパニー」と「ジョン・E・べランド」。共にこの曲がただ一ひとつのヒットで、前者は59位、後者は115位にランクされています。ベランドはこれまでにも何回か紹介したように、70年代にジョニーの相棒(バックミュージシャン兼プロデューサーetc.)として活躍。ここでは、ブライアン盤の代わりに「ペパーミント~」盤を紹介しておきます。

Somewhere In The Night BRIAN HYLAND 1963


Country Boy, Country Boy/カントリーボーイ JOHNNY TILLOTSON 1966


Dreamy Eyes/夢見る瞳 BRIAN HYLAND 1969


Baby You Come Rolling Across My Mind PEPPERMINT TROLLEY COMPANY 1968



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Ⅳ And Now、、、、


24人衆のうち、70年代中期に大復活したポール・アンカとニール・セダカ、70年代に入っても60年代から引き続き第一線での活躍を続けたボビー・ヴィントン、70年代以降C&Wに場を移し再ブレークしたブレンダ・リー、この4人を除く全員が、70~80年代にはヒット・パレードの世界からほぼ完全に遠のいてしまいました。

とは言っても、彼らの場合60年代前半の実績だけで、充分すぎるほど食うことが出来たはずです。でも、彼らの大半は、それに安住せずに引き続き新曲をどんどん発表していきました。ジョニーにしてもブライアンにしても、この70~80年代の発表曲に最も魅力を感じるのです。それら70~80年代のノンヒット曲に関しては、改めて独立の項目を立て紹介していくつもりです。

というわけで、一気に“現在”に飛びます。

まず1998年のクリスマスシーズンに作成された、かなり有名なムービーの挿入曲。曲自体も結構よく知られているらしく、you-tubeにも幾通りものバージョンが紹介されています。興味深いのは、そのうちの大半が、純粋に“映画の挿入曲”としての紹介。もちろん、“3人の伝説的(笑)歌手”のコンボとして取り上げているバージョンも2~3あるのですが、そうでないものについては、コメントから思うに非常に評価はされてはいても、誰が歌っているかについては視聴者は無関心なのだと思います。というよりも、パフォーマーの“3人”が、かつての大スター(一応そう言ってもいいでしょう)であることを知らない世代なのだろうと。

We Can Make It Together TOMMY ROE/BRIAN HYLAND/JOHNNY TILLOTSON 1998


最後に、数年前にリリースされた、それぞれの“新曲”を聴いて貰いましょう。「ベビー・フェイス」や「キューティー・パイ」から50年かけて築きあげた、力強い自分自身の主張です。

It‘s Important For Me BRIAN HYLAND 2009


Not Enough JOHNNY TILLOTSON 2010



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トピックスより(3)

2013-05-25 14:41:44 | 
「【PC遠隔操作事件】第1回公判前整理手続きで、弁護人の怒り炸裂/江川詔子」

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トピックスより(2)

2013-05-25 14:10:38 | 
【ヘイトスピーチなくならない。どう制御するか、だけ。/山本一郎】


【集団の中で育まれていく「怒り」/森達也】


主に政治や社会に関わる問題についての記事の紹介を、この小見出し(「トピックスより」)の許で紹介していきます。

今回の2つの記事の記述者は、前回の辺見庸氏と異なり、本来は僕の立ち位置とは対極にあると思われる方々です。しかし、内容的には全く同感。

大切なことは、自分が今「どこにあるか?」ではなく、「どこに向かおうとしているか?」ということだと思う。

5月15日にアップした「トピックスより」【息苦しさ漂う社会の「空気」/辺見庸さんに聞く】、および僕自身のブログ、4月29日にアップした「日本はもうお終いですね」、4月1日アップの「あや子版:テスト」【総選挙「一票の格差について」~2010.1.12~14のブログ再録】なども、併せて参照して頂ければ、と考えています。
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報告4

2013-05-25 01:38:56 | 
昨日、血液検査の結果を聞きに、改めて病院に行きました。痛み止めを飲んでいるにも関わらず、猛烈な痛みが一向に治まらない。

レントゲンに写った「骨折」で納得したいところではあるのですが、僕自身にも、見てく下さった医師の方にも、もうひとつ納得出来ないところが、、、。

僕が疑問に思ったのは、「激痛」の場所と「骨折」の場所が、微妙にことなること。「骨折」したらしいのは、遡って考えれば、5月12日、雲南省最奥部の渓谷でのこと。60kmの道程を、徒歩とヒッチハイクを繰り返しながら宿のある町に戻る最中のことです。痛かったことは痛かったのですが、指の骨折などはこれまで何度もしていますし、充分に我慢は出来ます。それとは、場所も、痛みの質も異なる。

医師の方の納得出来ないところというのは、以下の通りです。最初に見て貰ったときに、次の3つの原因を指摘されました。①骨折または捻挫による炎症。②虫に指されたことによる炎症。③痛風の悪化。このうち、③については、僕自身即座に否定しました。医師の言うには、②が問題であると。ベトナムに於いては悪性の虫指されを要因とした、重篤(時には死亡)に至る疾患例が数多く発生していて、その可能性も少なからずある。今日は、とりあえず抗生剤と鎮痛剤を出しておくので、明日夜が明けてからもう一度診察・検査を受けなさい。場合によっては手遅れになることもあるため、万全の検査(英語が苦手なので正確には把握出来ていないのですが、血管に管を通して云々)が必要、悪い結果が出た場合は即座に切開手術をしなくてはならない。ただし、この病院(外国人専用?)は、先に経費を準備しなくてはならない由、おおよその経費を聞いてみました。すると、おそらく、投薬費用・検査費用を中心に、5万円から7万円近くが必要になると思う。その分を用意してきてください。切開手術や入院となった場合は、現段階では幾らかかるか分からないけれど、まずは即急に検査をしてほしいと。

夜遅くYHに帰還後、とりもなおさず「7万円」の金策を考えることにしました。命に関わることでしょうから、なりふり構っていられません。といって「旧アカウント」の停止中、連絡できるところは、ごく僅かしかない。昆明にいれば、モニカなりルイスなりに助けて貰うことも可能でしょうし、同じベトナムでもサパならば知り合いが何人かいます。でも、一人の知人もいないハノイでは、どうしようもない。ということで、まず、あや子さんを初めとした連絡可能な数名にメール送信し、ダメモトを承知で、ブログにて救済文を掲載、さらに“藁をも掴む”気持ちで、物理的に一番近い(バスで11時間)場所に居るスーリンに来越を打診(誰からも援助がなかった場合は彼女に相談する)、腹を括って、翌日病院を再訪したのです。

検査開始は、診察料支払いの目処が経ってから、ということだったので、無料wi-fui利用可能なロビーでメールを見たところ、全く予期していなかったN氏からの援助申し入れがあり、早速診察して貰いました。昨夜とは別の欧米人の医師、足を見たとたん、「痛風(Gou)」に違いない、と。僕は「それだけはありません」と返答、昨夜の医師には「虫刺されによる炎症ではないか?」といわれたのですが、、、と続けました。しかし、昨日に比べてやや痛みが退いてきた、ということと、(昨夜とは違って)腫れ上がっている部分が少ないことなどから、「その可能性はほとんどない」「痛風でないなら、打撲か捻挫、昨日の投薬が効いてきたのならば、2~3日服用を続ければ、良くなるはず」ということで、血液検査もレントゲン投影もせず、2回の診察料&薬代(約250US$)を支払って戻ってきたのです。

ところが、その夜から猛烈な痛みが、、、、鎮痛剤がまるで効いていない。ということで、これは間違いなく「捻挫」(または「骨折」など)による炎症と自己判断し、レントゲンを取ってもらうことにしました。で、一応「ごく軽度の骨折」と。しかし担当医師は、それでも鎮痛剤が全く効かない「激痛」というのは「痛風」の進行のほうが主原因ではないか?との疑いを持っていて、「無料にしてあげるから一応検査させてくれ」というわけで、結局「痛風」(それもかなり重篤らしい)であることが分かったのです。改めて薬をくれて、当分それを飲み続けないことには、激痛は治まらない由(今後もあちこちに激痛が)。

それで、ハタと思いました。まず、昨年末、原因不明の症状で昆明の病院に半日入院した際の診断。「尿酸値が異常に高い(危険な域まで達している由)」 、、、これって、「痛風」のことなんですよね? 僕が直接医師から聞いたのではなく、症状を聞いたモニカから、後々、食べ物等に関してのしつこいほどの注意を受け続けているのです。

思い当たる節と言えば、、、、。よく考えて見たら、もう10年15年ほど前からずっと続いている、不思議極まる症状。突然、体のどこかの部分に激痛が走り、それが我慢の限度を超す段階まで達し数日続きます。そして、あっけなく治まってしまう。やがて今度は全く別の場所が痛くなる、、、。その繰り返しが、10年以上続いているのです(中国に行き始めた頃からですので、かれこれ25年)。不思議でならなかったのですが、これも「痛風」の特徴のひとつなのではないでしょうか?(正確なことは知らない)。

結局、「3つの要因」のうち、最も心配すべき「虫噛まれによる悪性炎症」ではなかって、ほっとしたわけです。こんなことならば、スーリンを呼び寄せるのではなかった(笑)。結局、滞在中の宿泊費(12人部屋、1泊750円)と帰りのバス代(約2000円)は僕持ちということになり、一部N氏からの浄財を回すしかありません。もっとも本人(香港を除けば一応初海外)は、ハノイに来たことが楽しくて仕方がないようで、同じユースに宿泊中の中国人の女の子とつるんで、日がなあちこちをうろつき回っています(笑)。

その後、「痛風」の薬を飲み続けていることもあってか、今日は幾分痛みが和らいでいます。何と言っても一番の心配事は、昆明の自室の消失! とにかく、「中国に於ける拠点の確保」ということを、今後の全ての柱に置いて、計画を練っていたのです。それが全て白紙に戻ってしまう。どうすれば良いのか、途方に暮れてしまっています(部屋があれば、痛みがなくなるまで、根気良く蟄居していれば良いのですが)。

今日もMonicaとメールの遣り取り(何度も言うけれど英文での長文の遣り取りは神経が磨り減ってしまう、、、のみならず「いつまで経っても英語が上達しない僕は、なんて頭が悪いのだろう」と落ち込んでしまいます、、、、と言って中国語もまるで上達せずにいるので、今さっきもスーリンから「26年間も中国に来ているのに、さっぱり上達しない、お前はどうしようもないバカである」と、とっちめられていた)を繰り返しています。Monica自身には全く非はないわけで、6月に入れば僕に代わって部屋を使うことになる新入社員の教育係も命じられているとのこと等々、とてもハードな立場にあるわけです。

ちなみに、今日遣り取りをしたメールには、今彼女の置かれている状況についての詳細な説明が成されていました(会社および家族の中での立場と、いま全力で取組んでいるという来春に受ける試験のこと)。それを読めば、なぜ彼女が自分のアパートに僕を呼び寄せたのか、分かるような気がします。





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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【復活第4回】

2013-05-22 21:36:13 | アメリカン・ポップスearly60’s
You-tube再生回数ベスト5(+α)の紹介

しんどい話題が続いたので、久しぶりにノー天気な話題で行きます。

ベトナムにいるメリットは、中国と違ってYou-tubeが開けることです。Johnny Tillotsonやアメリカンポップスの新たな話題は山ほど発見したのですが、まずは気楽に、ごく一般的なテーマで。

Johnnyのyou-tube再生回数は、他の同時代の歌手と比べて、かなり少ないように思います。原因はいろいろあるでしょうが、リアルタイムでの動画がほとんどないということも一因かも知れません。

もっとも、ここのところチェックし続けている、個人的には大変に興味がある1970年~80年代の楽曲に至っては、再生10回とか100回の単位なので、それに比べれば60年代のヒット曲群は、何万~何十万回と圧倒的に多いのですが。

数少ない全盛期の動画としては、1963年の「Judy Judy Judy」、1964年の「Talk Back Trembling Lips」などがあり、ことに後者は溌剌とした若いジョニーの魅力が溢れていて、以前にアップされていたものは、たしか100万回近くまで再生されていたはずです。それがなぜか数年前に突然消されてしまい、現在も同じ動画が数パターン貼り付けられてはいるのですが、どれも画質がまるっきり悪い(消された動画はずっと良かった)のです。

というわけで、再生回数トップ争いは30万回前後で、おなじみの5曲(アメリカン大ヒット3曲と、第三国?大ヒットの2曲)が踵を接した争いとなっています。5曲とも数多くのヴァージョンが貼り付けられているので、トータルではどの曲がトップになるのか、微妙なところだと思います

次点は意外なことに本人のヒット曲ではなく、アルバムカットの「悲しき雨音」。ジョニーの「悲しき雨音」は2バージョン貼り付けられていて、もうひとつのほうも21万回再生されています。
再生220579回 Johnny Tillotson - Rhythm Of The Rain

5位は、アメリカンノンヒットで東南アジアなどで大ヒットしたらしい「ジュディ、ジュディ、ジュディ」。数多くのバージョンが貼り付けられているも、芸術的完成度の最も高いと思われる「ジュディー・ガーランド・イメージ」の画像、音質も非常によいこのバージョンがトップなのは、妥当なところでしょう。
再生276611回 Johnny Tillotson - Judy Judy Judy

4位は「ポエトリーインモーション」。これも多くのバージョンがあり、ほかに音質も動画もずっと良いのがあるのに、回数トップが余り音質が良いとは言い難いこのバージョンというのは解せません。
再生358611回 Johnny Tillotson - Poetry In Motion


3位は、「ジュディ、ジュディ、ジュディ」と並ぶ“第三国ヒット曲”「こんなに愛して」。「ポエトリー」同様、数多くのバージョンのうち、なぜか最も音質が悪そうな当バージョンがトップ。
再生365472回 Johnny Tillotson - Why Do I Love You So


2位は、これまでずっと1位を続けてきた「涙ながらに」。
再生374379回 Johnny Tillotson - It Keeps Right On A Hurtin'


そして今週逆転1位となったのが「夢の枕を」。多数のバージョンが貼り付けられている2~5位の各曲と異なり、やや少なめなのが功を奏したのかも知れません。
再生377511回 Johnny Tillotson - Send me the pillow you dream on


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いつものごとく、“謎の第三国ヒット”「ジュディ、ジュディ、ジュディ」と「こんなに愛して」の検索をしていたら、また多くの不思議カバーが新たに貼り付けられていました。そのうち2曲を紹介します。

Johnny Tillotson(注:実際は現地女性歌手)- Why Do I Love You So (Bossa Chill Version)これは素敵ですね! 東南アジアのみでなくラテン圏でもヒットしたようです。

羅銘偉 护老院敬老义唱 - Judy Judy Judy(Johnny Tillotson) Law Michael Charity
東南アジアに於ける“ラインダンス”の定番曲(別題「ジョニーズ・ガール」)ではあるのですが、“養老院”でも唄われている(他にも数バージョンがありました)とは知らなかった。日本限定の大ヒット曲「キューティー・パイ」が、「伊東ゆかり」をはじめとした女性シンガー専用?の曲となっている(「内田裕也」盤あり、笑)のに対し、この「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、アジア系の男性歌手のカバーがほとんどです。日本人女性歌手に於ける「キューティー・パイ」同様に、どのカバー盤もまるで下手糞で聞いていられないのですが、そのなかでこの歌手のものは、かなり出来が良い方だと思います。

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報告3

2013-05-22 21:22:51 | 
目出度く、骨が折れていました。いや、冗談ではなく本当に良かった!!
骨折した状態で歩き回っていたのですから、激痛に襲われるのは当たり前です。
抗生剤を飲み、暫く痛みを我慢して安静にしていれば治るわけですから、ホットしました。
山に入れないのは残念ですが、、、。
心配をおかけしました。今後のことは随時報告していく予定です。
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報告2

2013-05-22 00:06:53 | 
最初の診察の後、抗生剤や痛み止めを服用し一度収まったかに感じたのですが、また猛烈な痛みが続きだし(鎮痛剤が全く効かない)明日改めて病院に行くつもりです。

2番目の医者(欧米人の年配の医者)が面倒くさそうに言うように「ただの打撲だから心配ないし検査の必要もない」(実際痛みは足の部分だけで脚まで来ていないので冷静に考えれば打撲や捻挫のような気がします)のか、最初に診察してくれた医者(比較的若い現地の医者)のいうように「非常に危険な状態かも知れないので即刻検査を」なのか、判断に迷っているところです。
検査や手術のための予算は確保しているのですが、、、、出来れば(検査はともかく)手術などはパスするに越したことはないので、、、。

ともかく明日もう一度病院に行き、どちらに転ぶにしても暫くのあいだ静養する覚悟でいます。

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余りにも痛みが激しく、患部が腫れ上がってきたため、今夜中に病院に行くことにしました。検査代はかなりかかると思いますが、元はといえばそのためにN氏が費用を立替て下さったわけですし、(夜間料金は更に高くなりますが)せめてレントゲンだけでも撮っておこうと思います(場合によっては血液検査も)。

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長期戦を覚悟し、中国桂林(ハノイまでバスで11時間)からスーリンを呼び寄せることにしました。英語も日本語も喋れないのだけれど居てくれるだけでマシと思っています。


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報告

2013-05-21 02:23:32 | 
援助(病院費用の立替)は全く予想していなかったN氏より頂きました。

最終的な結論は2~3日先にならねば判明しませんが、昨夜の診断よりも遥かに軽度の症状のようです。

可能性は3つあって、ひとつは先天的痛風によるもの。これは100%否定できます。次に、打撲や捻挫が基になった炎症、3番目が、虫などの外敵による毒素の血液への混入。実質後者2つで、可能性としては半々ぐらい、3番目で、かつ進行していれば危ないのだと(進行していなければ薬で収まる)。今日見てくれた欧米人の医者の判断では、痛む部位と、昨日服用した抗生物質が効いている(歩けないほどの激痛は治まった)ことから、今の時点では、(昨夜に言われていた)管を通しての血液検査はしなくてもいいだろう、とりあえず今後2~3日薬を服用して様子見をし、その結果次第で今後を考えよう(収まる可能性大)とのことです。

おそらく、手術はしなくて済みそうです。

これまでにかかった経費は、約2万5000円(一ドル100円で計算)。保険が利かないので、診察費・薬代ともかなり高めです。外国人専門の病院(分院?)のため仕方がありません。このあと手術をしなくていかなくなれば、あと5万円近くがかかるそうですが、前述のように、現時点は免れそうです。

もっとも、足の状態は、少しはよくなったような気がしたのですが、やはり激痛は治まりません。昨夜の医者の診察(直ちに切開手術が必要)が正しいのか、今日の医者(手術は必要なく詳しい検査もしなくて良い)が正しいのか、良く分かりません。もちろん後者であることが望ましいのですが。

前者でない限り、5万円は浮く(手持ちに2万円ほどあったので丸々7万円は浮く、更に2か月分の昆明の家賃が戻って来る予定)ので、N氏宛てにこちらの銀行から返済するか、日本の家賃支払いに回すか、今後の資金とするか、N氏と相談しなければならない、と思っています。

T先生には、これ以上無理を言うわけには行きません。N氏の分と振り分け、新聞稿料からどのようにして返済していくかを改め相談せねば成りません。もし、改めてT先生と話をされる機会があれば、そのことをお伝え頂ければ幸いです。

今回のことは、N氏にも、T先生にも、お世話にならず、本来ならば援助をしていただいてもいい、他の複数の方々から、例えば1万円づつの援助があれば、と思っていたのです。

まあ、そのようなことを言っても仕方がないことなのですが、、、。

いずれにしても、あと数日ハノイに滞在せざるを得ません。予定を縮小して昆明に戻ることに成りますが、その後(自室がなくなる)のことが心配でもあります。

昆明での自室を基盤に今後の活動を行おうと考えていたのが、全てご破算です。これもまあ、臨機応変に考えていくしかありません。

とりあえずここまで。
【*以上、N氏へ宛てたメールを、ほぼそのまま転載しました】
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病院費用

2013-05-20 11:48:23 | 
診察・治療にかかる予算確保の目処がつきました。

とりあえず報告しておきます。
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ブログ読者の方々へのお願い

2013-05-20 11:48:23 | 
花岡あや子さんをはじめ、まだ知人の誰とも連絡が取れない状態でいます。読者の皆様のなかで、花岡さん090-7986-1502(またはそのほかの僕の知人)に連絡を取ってくださる方がいれば、よろしくお願いします。時差は2時間で、正午までに病院へ行き手術を始めることになっています。こちらからの電話は不可。メールも病院移動後は不可となります。一応滞在地を言っておきます。ハノイバックパッカーズホステル(オリジナル)+84(0)438285372.
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add.

2013-05-20 10:08:17 | 
正午頃に手術を始めたいと願っています。

僕自身の口座です。

三井住友銀行大船支店 普通口座 6981197 アオヤマジュンゾウ
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ブログ読者の皆様へ

2013-05-20 10:08:17 | 
花岡さんの電話番号を間違えていました。
090-7986-1502です。
よろしくお願いします。
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手術

2013-05-20 10:01:51 | 
これから病院にいきます。
手術費用の目度が着き次第、すぐに手術を始めます。
旧アカウント停止の関係もあり、僕のほうから直接メールを送ることが出来た方は、花岡、外輪、森光、石渡、柳の、計5人です。そのほかの方々で、花岡さんのほうから連絡のつく方がいらっしゃったなら、相談してみてください。
よろしくお願いします。
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緊急手術

2013-05-20 01:25:28 | 
花岡文子様、的場毅様、石渡賢一様、外輪則彦様、森光実様、海野和男様、高橋真弓様、およびブログ読者の皆様

昆明のアパートは、モニカの勤める会社(「海王電気昆明支社」)の社員寮のひとつを、会社の了解を正式に得て(家賃も前払いで支払い)借りていたのですが、4日前、突然会社側からの即時退去命令が出ました。新しい社員を急遽一人雇うので、僕の住んでいる部屋をその社員用に充てる、と言うのです。先払いの5月後半分と6月分(計1万5千円)は、近く返却するとのことですが、余りにも突然のことなので、モニカも僕も途方に暮れてしまっています。中国ではダブルブッキングは当たり前のことで、文句を言っても埒が明きません。

改めて外泊をしなくてはならないのですが、予算的にホテル住まいを続けるのは難しいことと、ビザ切れの関係もあって、いつものごとく安上がりで済むベトナムへ一時避難することにしました。今回は一度ハノイに出たあと南寧を往復、18日の朝の高速バスで再びハノイに向かうことにしました(所要7時間)。

その途中に、大事件が起こってしまった。まだ中国国内にあった午前11時頃、バスの座席に座っているときに、突然足の親指に激痛が走りました。その時には、気が付かないうちに指先を座席の下のどこかにぶつけたのだろうと思っていたのです。夕刻前にハノイに到着し、常宿のバックパッカーズホステルに投宿したのですが、激痛は収まるどころかますます酷くなります。医者に行こうかどうか迷ったのだけれど、たかが足の指くらいで大げさだし、この日は土曜、翌日は日曜、と言うことで、近くの薬局で怪しげな抗生剤と痛み止めを買って月曜まで様子を見ることにしました。

しかし、今日、日曜になって、痛みが引くどころか、右足全体が腫上がってきて、痛み止めも全く効かないほどの激痛が続きます。もう一晩我慢をして、月曜の朝一番で病院に行くことに決めていたのだけれど、指をぶつけただけにしては、幾らなんでも症状が酷すぎます。

ということで、Y.H.の紹介を得て先ほど(当地時間午後8時過ぎ)ハノイ一番の病院に向かいました。

診察の結果は、大変危険な状況であると。指をぶつけたのではなく、危険な虫(おそらく蚊の一種)に噛まれたためで、放置しておくと足の切断では済まず、命も危ない。今回はすでに24時間以上経っているため、かなりの上部まで毒が回っている可能性がある、一刻も早く切開手術が必要。まず血管から管を通して血液の検査をするとのことで、進行の度合いに沿って手術の内容も変わってくる、とのことです。

問題は、検査・手術の開始は、治療費の支払いの目処が立ってから。とりあえず、抗生物質、鎮痛剤などを貰い、診察費などと会わせて2万円余を支払い(全額は支払えなかったのでパスポートは取り上げられている)一度ユースに戻って、明日治療費などの目処がついてから手術を始めるとのこと。これまでの経験から言って、大使館が助けてくれることはまずありません(家族・会社・知人の紹介が必要)。保険が利かないので、相当の高額になるとのことです。もし、進行程度が遅くて簡単な手術で済むならば、合計7万円弱(US500$+未払い分160$)で済むが、状況が悪くなっていれば幾らかかるか分からない(7万円以上かかる場合は相談可とのこと)。とにかく少しでも早く進めることが、病状にとっても、治療費の問題にとっても、ベターだということで、明日(正確には今日20日)中に手術を開始することに同意をしました。

ということで、今日20日の午前中に即時7万円を用意せねば成りません。昆明ならば、モニカやルイスに助けてもらうことが出来るのだけれど、ハノイではどうしようもありません。

連絡先は、花岡文子さん090-7986-1529でお願いします。電話連絡がつかないときは、このブログか花岡さんのブログにコメントを入れて下さい。今現在でも激痛にのた打ち回りながらメールを記しています。部屋がドミトリーのため僕自身のメールの遣り取りはかなり制約され(それでなくともメールが著しく繋がり難い)、病院に行く前にチェックできない可能性もあります。この文章は、花岡さん充てのもの、知人(メールのあて先が分からない~旧アカウントは開けない~)に充ててのもの、ブログの読者に当ててのもの、などを、全て一緒に纏めてあります。花岡さんへの伝言です。今すぐにメールを打てる人には送信しましたが、すぐに連絡先が分からない人も多々居ます。花岡さんのほうで、電話やメールアドレスが分かった方がいれば、どうかすぐに連絡を取ってください(上記の中で的場・海野・高橋なども含む)。



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