聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★十字架上の七つの言葉

2006-11-27 | 「キリストの愛」

 イエス・キリストが尊く偉大なご生涯の後に、十字架に掛けられて死なれたことは、どなたでもご存じのことと思います。しかし、その十字架上で、キリストは「七つのことば」を発していますが、その一つ一つは実に驚くべき神の救いと愛のみわざを示していることをご存じでしょうか。ちなみに、聖書の中で「七」という数字は完全数を表しています。では、イエス・キリストが十字架上で語られたその七つのことばについて、ごいっしょに考えてみましょう。

【1】御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)。
●「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)。 
  
 イエス様が十字架上で語られた七つのことばは、「父よ。」で始まっていますが、十字架上の最後のことばも「父よ。」で終わっているのです。イエス・キリストは実に「神の御子」であられる御方であり、永遠の昔から御父と御子として少しの妨げもなく親しいお交わりの中にあられたのです。聖なる神に対して、「父よ。」と呼びかけることのできる御方はイエス・キリスト以外には一人も存在しないのです。この神の御子が私たち罪人(全人類)のために救い主として、人の姿をとって御父のみもとからこの地上に来てくださったのです。そして、その神の御子イエス・キリストがそのご生涯の最後に、十字架に掛けられたのです。

 イエスの御体を十字架につけたその釘が手首の肉に食い入り、骨を削り、木に突き刺さって血が流れました。そして、十字架のイエスは、裂ける手足の激痛に身もだえしつつ、血を吐くような苦しみの中で「父よ。彼らをお赦し下さい。・・・・・」と、とりなしの祈りをささげてくださいました。一体「彼ら」とは、だれなのでしょうか。イエスを釘づけにしたローマの兵士、イエスに死刑の判決を言い渡した総督ピラト、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、イエスを妬んでピラトに訴えたユダヤの律法学者たち、イエスを見捨てて散って行った弟子たちなど、みな含まれているでしょう。しかし、実はイエスが「彼ら」と言われたとき、今日生きているあなたや私を含めて全人類の罪の赦しのためにとりなしの祈りをなさったのです。そうです。あなたのためにもです。イエス・キリストはあなたの人生と決して無関係ではないことをお知りになって下さい。

【2】イエスの約束のことば。
●「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23:43)。

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられました。当然、十字架は極悪人が磔(はりつけ)にされる極刑であります。両側には二人の強盗がつけられ、しかしその真中には全く罪の無かったイエス・キリストが十字架につけられていたのです。キリストの十字架は罪人(全人類)の身代わりのゆえです。しかし、二人の強盗は最初はどちらもイエスを罵倒し、嘲っていましたのですが、途中で強盗の一人に明らかな変化が起こりました。十字架上のイエスのあまりにも崇高なお姿を見て、彼はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。

【3】思いやりのことば。
●「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(ヨハネの福音書19:26)。
●「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネの福音書19:27)。


 十字架刑は、世界で最も残酷な処刑の方法であると言われています。たった三つの傷口に体重をまかせ、しかもその傷口を絶えず広げることによって、血を絶え間なく、絞り取っていくのです。その苦痛がどれほどのものであったかは想像を絶するものがあります。このような苦しみの中では、通常は他人のことを考えたり、思いやるなどという余裕はないのが常であります。人間というのは、自分が辛いとき、苦しいときには、自分を悲劇の主人公のように思い、他人からの同情を自分の方に引こうとするのが普通ではないでしょうか。もちろん、苦しみに会えば会うほど、他人に同情できるような思いやりの心が生まれることも事実ですが‥‥。

 しかし、イエスという御方は実に偉大であり、不思議な方です。その十字架の苦しみの足もとにイエスの母マリヤが立っていたのです。イエスは、そのマリヤに目を注いで、そしてついに声をかけられました。「女の方よ。」と。マリヤはイエスが幼少の時からずっと愛を持って育み、わが子として見守って来ました。しかし、イエスと母マリヤの関係は特別な関係であり、神の御子が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのであり、イエスの母であると同時にマリヤも含めて全人類の救い主として来られた御方です。ですから、この「女の方」という言い方には特別に深い意味が込められているのです。
 
 それと同時に、マリヤはイエスの母であることに間違いありません。イエスはご自分が十字架で死んだあとの母の老後のことを気にかけてずっと十字架まで従って来た愛弟子ヨハネに、母親を託することばを優しく語られたのです。人間的には、イエスは親孝行をしたいお気持ちもあったはずです。でも、今イエス様はご自分がやがて息を引き取ろうとしている間際にも母のことを案じて、このような思いやりのある暖かいことばをかけられたのです。普通の人には、苦しみの絶頂の中にあってこのような細やかな心配りは決してできないことです。

【4】神に見捨てられたことば。
●「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46)。

 まず、このことばは旧約聖書の詩篇22編1節と同じことばなのですが、そこには、やがて来られるメシヤの十字架の場面が預言されています。聖書によると、イエスの御口からこのことばが発せられたのは「午後三時ごろ」でした。そして、それは「大声で」叫ばれたのです。十字架に掛けられたのは、朝の九時頃ですから、その時から六時間も経過して、血は流れ続け、喉は渇き、死の一歩手前まで来ている時に、全力を振り絞って、「大声」で叫ばれたのです。昼の十二時には、全地は暗くなって三時まで続きました。

 暗くなってから三時間の沈黙があって最初のことばがこれです。それも大声で叫ばなければならないほど重要なことばでした。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:12)とありますように、罪無きイエスが私たちの代わりに神に捨てられたのです。この三時間の暗やみについて私は全部説明することはできません。しかし、イエスにとってそれがどんなに恐怖であったかは、想像するに難くないと思います。神に捨てられるということが、どれほど恐ろしいことかお考えになったことがあるでしょうか。それは、みな私たちの救いのためであったのです。

【5】死の苦しみのことば。
●「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)。

 体から血が流れ出る時はとても喉が渇くということを聞きました。六時間の十字架の苦しみです。ずっと、傷口はえぐられ続けており、血は絶え間なく流れ出ていました。ですから、体液が極度に薄くなっていたことは確かであります。その渇きは限界に達したとき、イエスは「わたしは渇く。」と言われたのです。それを聖書の記者は、「聖書が成就するために」と注釈しています。「私が渇いたときには酢を飲ませました。」(詩篇69:21)の成就です。そして、そのとおりに、ローマの兵卒は「酸いぶどう酒」をイエスの口元に差出し、その渇きはさらに増したのではないでしょうか。

【6】救いの完成のことば。
●「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。

 口語訳聖書では、このことばは「すべてが終わった。」でしたが、それを読むと「すべてが終わってしまった。もう駄目だ!」というような意味に誤解されやすいですが、「完了した。」の方が意味が明確に分かるように思います。イエスは死を迎えられる瞬間に「完了した。」と言われました。この箇所の意味は、旧約聖書にも預言されていた人類救済の贖いのみわざがすべて「完了した」ということです。キリストが受肉され、赤子として誕生されたのも、多くの迫害や試練を通られたのも、三年半の公生涯も、すべてはこのみわざを完成するためであったのです。十字架の六時間の苦しみ、特に後半の三時間の闇の中の沈黙の時間もすべてはこのときのためであったのです。イエスの生涯の目的は、すべて十字架の死にあったのです。そして、このキリストが成就された救いのみわざは「完了した」のですから、人間が自らの救いのためにこれに加えるものは何もありません。

【7】父なる神にゆだねることば。 
●「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。

 イエスの六時間にわたった十字架の苦しみの最後のことばも最初と同じ、「父よ。」であったのです。「わが神」ではなく、「父よ。」であったのです。イエスはなすべきすべてが完了して、ご自分の肉体の死が間もなくやって来ることをご存じでした。そのわずかの間、イエスは目を天に向けて御父を見ました。多分、この時には暗闇が晴れていき、闇間から光が射していたかもしれません。この時のイエスの心は安らぎが満ち、幼児の父親に対する呼びかけにも似た純粋なものではなかっただろうかと推測します。その時の御父は、「わが神。」と叫んだ時のものではなく、昔と変わらなぬ慈愛に満ちた御父の御顔であったでしょう。イエスは一切のことを御父にゆだねて、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、間もなく息を引き取ったのです。あなたも、最後に息を引き取る瞬間に愛なる神にすべてをゆだねることが出来る人生を是非選択なさって下さい。イエス・キリストをあなたが救い主として信じる時にそれが可能なのです。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」
 



 

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