聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★偶像の空しさと真の神様

2005-06-01 | 「神の存在について」
   
八百万(やおよろず)の神と言いますが、日本では神様と言えば、随分いろいろなものを神様として拝んでいます。ある所に、毎朝必ず東の方角を向いて太陽に手を合わせて拝んでいるお爺さんがいました。ある晩、そのお爺さんが、提灯(ちょうちん)を手にして、一人の知人(実は、この知人は真の神様を信じていたのですが‥)の道案内をしました。しばらく歩いて、ようやく目的地に着いたときに、その知人はお爺さんには一言のお礼も述べず、いきなり、わざと提灯にひざまづいて「提灯さん、ありがとうございました。お陰で、この暗い夜道を無事に来ることが出来て本当に助かりました。」と、お礼を言いました。それを見て、人のよいお爺さんも、自分が馬鹿にされているような気持ちになり、ひどく立腹して、その知人に文句を言ったのだそうです。

 すると、その人はそのお爺さんに言いました。「お爺さん、あなたも実は同じようなことをしているのですよ。あなたは、毎朝太陽を拝んでいますが、太陽は言わば、神様が世界を明るくするために宇宙にぶら下げてくださった提灯(ちょうちん)のようなものなんですよ。太陽が神様ではないのです。だから、私たちは、太陽をお与えくださった造り主であられる神様にだけ感謝とお礼をささげなければならないのですよ。」・・・・・・・

 このお話でもお分かりと思いますが、太陽はすばらしくできていて人間に必要な熱や光を与え、また、植物の成長にもどうしても必要なものであり、私たちは大変な恩恵を受けているわけですが、太陽は神ではありません。ですから、太陽は拝んだりする対象ではないのですね。また、動物や、人間にかたどって作られた木や石や金銀、また、紙や板に書かれたり刻まれた文字を拝んだりすることは愚かなことです。また、生きた人間を神として拝むことも愚かなことですが、人間の手で作られた偶像や宮を拝むことも愚かなことです。真の神様は、人間の手で造られたものではなく、天地宇宙だけでなく、人間をも造られた偉大な御方であり、日々恵みの中に生かしてくださっておられるのです。

 今から約二千年ほど昔、偶像がいっぱいに満ちていたギリシャの首都アテネで、使徒パウロは心に憤りを感じて偶像の空しさと真の神について次のように語って、悔い改めて神に立ち返るように人々に迫ったのであります。

●「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。‥‥‥そのように私たちは‥‥神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒の働き17:24~29)。  

 預言者イザヤは、神の聖霊に導かれて、次のように偶像を造ることの愚かさについて語っています。これを説明すれば、低学年の小学生でも理解できます。それなのに、大学を出た大人でも、この単純な真理が分からない人が多いのです。サタンによって霊的な目が曇って見えなくなっているのですね。高等教育を受けて創造者である神の存在を否定する者が、人間の手で作った偶像に手を合わせて、「どうぞ、守ってください。救ってください。」と祈ったりすることに何の矛盾も感じないことは、本当に不思議なことと言わざるを得ません。
 
●「わたし(唯一の神)のほかに神があろうか。‥‥偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。‥‥鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。‥‥‥ それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う 。」(イザヤ書44:8~17)。

●「わたし(真の神)をだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。」(イザヤ書46:5~7)。 

●「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。 口があっても語れず、目があっても見えない。 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 」(詩篇115:3~8)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人(となられた方)としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(テモテへの第一の手紙2:4~6)。
 

              
 

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