狂言に『楽阿弥』というのがある。ネットで検索すると
結構演じられている。
「旅の僧が伊勢参りの途中、伊勢の別保村にさしかかると、
何本もの尺八がぶら下がっている松の木があった。村人に
その由来を尋ねると、その昔、楽阿弥というたいそう尺八
狂いの男がいて、その霊を弔う松だという。ならばと、旅
の僧は袖の下より尺八を取り出して「自分も一曲手向けよう」
と短尺八を吹く。すると、それに合わせるかのように低い
音が聞こえてくる。それは楽阿弥の亡霊だった。
「宇治の朗庵主の序(=偈)にも『両頭を切断してより後、
尺八寸中古今に通ず』とあるように、こうして幽明境を異に
する二人が心を通わせられるのも尺八の縁かと言って消えよう
とする。そこで旅の僧が、せめて最期を語らせたまえというと。
「さらば語りなん。楽阿弥は、時と所をかまわず門付けして
尺八を吹くものだから、村人に嫌われて布施ももらえない。
またそれを腹立ちまみれにあちこち行って悪態をつくもの
だから、尺八のように、縄でしばられ、矯められ、炙られ、
のこぎりでひかれ、殺されてしまった。冥土に行っても尺八
への妄執を断ち切れずにいる。この苦しみを救ってくれ」と
言い残して消えた。
狂言だが、楽阿弥の霊が現れて、旅の僧に最期の様を語る
という「夢幻能」の形式になっている。
「1561年に京都の三好邸で演じられた」との記録があり、
狂言の中で最も古く「南北朝頃の作か」と言われている。
しかし、尺八家の目で見ると、いろいろ疑問点がある。
1.「宇治の朗庵主の頌にも『手づから両頭を切断して
より後、尺八寸中古今に通ず』」という台詞が出てくる。
これは1511年頃の『体源抄』に一休作として載っているが、
「宇治の朗庵主の」と出てくるので、「文明丁酉(1477)年
祥啓筆」と記載のある『朗庵像』を見知っていて作られた
ものである。
2. 「われらも持ちたる尺八を、袖の下より取り出だし」
は、1518年成立の『閑吟集』にある。
狂言『楽阿弥』が『体源抄』や『朗庵像』に影響を与えた
とすると、1477年以前の作となる。逆に『体源集』や
『閑吟集』から転用したと考えると、1520年以降の作となる。
結構演じられている。
「旅の僧が伊勢参りの途中、伊勢の別保村にさしかかると、
何本もの尺八がぶら下がっている松の木があった。村人に
その由来を尋ねると、その昔、楽阿弥というたいそう尺八
狂いの男がいて、その霊を弔う松だという。ならばと、旅
の僧は袖の下より尺八を取り出して「自分も一曲手向けよう」
と短尺八を吹く。すると、それに合わせるかのように低い
音が聞こえてくる。それは楽阿弥の亡霊だった。
「宇治の朗庵主の序(=偈)にも『両頭を切断してより後、
尺八寸中古今に通ず』とあるように、こうして幽明境を異に
する二人が心を通わせられるのも尺八の縁かと言って消えよう
とする。そこで旅の僧が、せめて最期を語らせたまえというと。
「さらば語りなん。楽阿弥は、時と所をかまわず門付けして
尺八を吹くものだから、村人に嫌われて布施ももらえない。
またそれを腹立ちまみれにあちこち行って悪態をつくもの
だから、尺八のように、縄でしばられ、矯められ、炙られ、
のこぎりでひかれ、殺されてしまった。冥土に行っても尺八
への妄執を断ち切れずにいる。この苦しみを救ってくれ」と
言い残して消えた。
狂言だが、楽阿弥の霊が現れて、旅の僧に最期の様を語る
という「夢幻能」の形式になっている。
「1561年に京都の三好邸で演じられた」との記録があり、
狂言の中で最も古く「南北朝頃の作か」と言われている。
しかし、尺八家の目で見ると、いろいろ疑問点がある。
1.「宇治の朗庵主の頌にも『手づから両頭を切断して
より後、尺八寸中古今に通ず』」という台詞が出てくる。
これは1511年頃の『体源抄』に一休作として載っているが、
「宇治の朗庵主の」と出てくるので、「文明丁酉(1477)年
祥啓筆」と記載のある『朗庵像』を見知っていて作られた
ものである。
2. 「われらも持ちたる尺八を、袖の下より取り出だし」
は、1518年成立の『閑吟集』にある。
狂言『楽阿弥』が『体源抄』や『朗庵像』に影響を与えた
とすると、1477年以前の作となる。逆に『体源集』や
『閑吟集』から転用したと考えると、1520年以降の作となる。










