徳丸無明のブログ

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認知症者の生きる孤独――記憶力と時間感覚②

2017-05-16 21:33:33 | 雑文
(①からの続き)

通常我々は、「過去の記憶」と「現在」の対比において、時間感覚を得る。10年前の記憶、5年前の記憶、1年前の記憶、1時間前の記憶、5分前の記憶・・・。それらの記憶との距離感によって、「現在」は知覚される。時間感覚は、過去の記憶があって初めて覚知されうる。
それは、時間の長さを知る、ということでもある。我々は、自分自身の年齢に疑いを差し挟むことはないが、それは過去の記憶の蓄積があるからである。年齢相応の記憶量があるからこそ、自分の今の年齢を正当なものとして受け入れている。今この瞬間が「何月何日何時何分であるか」を把握するのもそうである。「今日が何月何日か」、あるいは「今何時何分か」といった感覚(見当識)が、酔っぱらった時や、頭部に強い衝撃を受けた時などを除いて大きく狂うことがないのは、短期記憶、直近の記憶が生きているからである。
もし、一切の記憶が失われてしまったとしたらどうだろう。認知症者は記憶が持たないので、直近のことでもすぐに忘れてしまうが、昔のこと、認知症になる以前のことは憶えていたりする。だが、脳機能の衰えが進行し、過去の記憶もすべて失われてしまったとしたら?
その時は、現在の時間感覚を認識するための比較対象が存在しない、ということになってしまう。一切の過去が存在せず、あるのはただ現在のみ。その時、その人物の意識は、現在にすっぽりと包まれる。充満する現在。比較対象を持たない現在には、「長さ」がない。
だからおそらく、一切の記憶を失った人物の現在は、限りなく無限に近くなる。
何があってもすべて忘れゆき、時間が経過した根拠となる過去が存在せず、ただ「今」だけがある。5分前の記憶も、1時間前の記憶も無いのなら、5分経とうが1時間経とうが、認識の上ではまったく時間が経過していないのと一緒だ。
「現在」は、記憶に置き換わることで「過去」となる。我々は、「記憶に置き換わった現在」(=過去)を知覚することによって、時間の経過を知る。現在が次々と記憶に置き換わるその動態によって、我々は時間の流れを知るのだ。だから、記憶が蓄積されないということは、時間が流れないということであり、現在はいつまで経っても過去にはならず、現在のままとなる。
「現在」は、「過去」が発展したものである。「過去」からの「現在」の発展度合い、「過去」と「現在」の差異によって、時間の経過は測られる。「時間が経過する」というのは、「記憶が蓄積される」ということと同義である。
だから、記憶が蓄積されない認知症者、直近の出来事も憶えていられない認知症者の「現在」は、いつまで経っても「過去」にならない。実際にいくら時間が経過していようと、時間が経過したことの手がかり(記憶)がない以上、主観では経過していないも同然だ。
「記憶が蓄積されない生を生きる」とは、「いつまで経っても過去にならない現在を生きる」ということである。「現在の中に閉じ込められる」と言い換えてもいいかもしれない。(ただし、これは少々単純化した議論である。記憶が蓄積されない認知症者といえども、数秒から数十秒程度の記憶は保持されるだろうからだ。だから、厳密に言えば認知症者は、数秒から数十秒の幅の記憶を有していることになる。だがおそらく、その記憶の幅の短さゆえに、通常健常者が認識しているような時間の経過を知覚することはできないのではないかと思う)
認知症者は、昼夜の区別がつかなかったり、季節の感覚がなかったりするが、これは昼夜や季節を把握する感覚の衰えという直接的な原因のみならず、記憶が蓄積されなくなったことの影響にもよる。(小生の祖母も4月に会った時、「正月には帰ってこれるの」と訊いてきた)
「限りなく無限に近い現在」とは、そういうことである。
この「限りなく無限に近い現在」を、病院のベッドの上で、身動き一つとれない状態で過ごさねばならないとしたら、どうだろう。直近の事も憶えていられないのみならず、昔の記憶もすべて失われ、あまつさえ自分が何者であるかすらわからなくなってしまっていたとしたら?

ずっと天井ばかり眺めている。いつまでこうしていなくてはならないのだろう。おそらくここは病院のようだが、どうしてこんなことになってしまったのだろう。そもそも自分は何者なのだろうか?
とにかく退屈だ、そして寂しい。ずっとひとりぼっち。一人でずっと横になったままだ。
ふいに看護婦が診察にやってきた。やはりここは病院のようだ。はっきりと憶えていないが、たまに医者や看護婦が来ているようだ。看護婦は甲斐甲斐しく世話をしてくれる。おかげで孤独が癒えた。だが、それもほんのひとときこと。すぐに彼女はいなくなり、また天井を見つめるだけに逆戻りだ(そして診察を受けたことを忘却。意識の上ではずっと誰にも会っていないも同然となる)。
あまりに長い。寝たきりで身動きが取れず、喋ることもままならずに天井ばかり眺めているこの時間は、あまりに長すぎる。どうにかしてほしい。誰か助けてほしい。体を動かすことが叶わないなら、せめて誰か傍にいてほしい。
そんな折、一人の男が訪ねてきた。この男は誰だろう?どうしても思い出せないが、親しげな表情からして親戚だろうか。この際誰でもいい。とにかく自分を訪ねてくれたんだ。ありがたい。とにかく寂しかった。
男は何やら喋っている。今の自分には聞き取ることができないが、慰めの言葉のようだ。嬉しい。手のぬくもりが暖かい。一人じゃないと、生きていると感じる。これをずっと求めていたんだ。
不意に男が帰るしぐさを見せた。いやだ。行かないでほしい。ずっと寂しかったんだ。もうあんな終わりのない孤独の中に戻るのはごめんだ。あんな寂しさには耐えられない。ずっと手を握っていてほしい・・・。

握りしめた手の強さは、孤独の強さの表れであっただろうか。いや、おそらくはそうではない。孤独のほうが、もっとずっと強いのだ。振りほどくことができない力は、寝たきりの老女が出しうる最大限の強さだ。もし、手を握る強さと、孤独の強さがイコールならば、小生の手など簡単に握り潰されてしまっていただろう。
もちろん他人の頭の中が覗けるわけではない。これはあくまで想像に過ぎない。愚かな妄想と言われればそれまでだ。
だが、小生が見舞った女性に関しては見当違いであったとしても、現在認知症者として生きる人々の中に、これと同様の孤独を囲っている人が少なからずいるであろうことは、推測に難くない。

(③に続く)
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