徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

2016年の総括

2016-12-31 18:04:58 | お知らせ
皆さん、こんにちは。
いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。今年の終わりに、一年のまとめと、年末のご挨拶をさせて頂きます。

当ブログの記事をシェアしてくださっている方、ありがとうございます。僕自身はフェイスブックをやっておらず、また、非社交的な人間なので、フェイスブックをやっている友人知人もいないため、どこのどなたがシェアしてくださっているのか、未だに確認できずにいます。いや、本当に申し訳ない。でも、感謝しています。
あと、ツイートしてくださっている方もいらっしゃるんですかね?ツイッターもやってないのでこちらも未確認です、すみません。
それと、にほんブログ村と人気ブログランキングのバナーをクリックしてくださっている方にも謝辞を。いつもありがとうございます。
雑文に関しましては、今年の頭ぐらいから「書くことなくなりそうだな」と感じていたのですが、それでも何かしらネタが見つかって書き続けてこられました。これからも、ちょっとずつでよければ続けていけそうです。
マンガのほうもしばらくの間はネタ切れしないと思いますのでご安心を。
前の「お知らせ」でメッセージ機能付けたと言いましたが、今日に至るまでにメッセージを送ってくださった方はわずか一人です。こんなにも反響のないものなのか、という感じですが、まあ僕の不徳の致すところなのでしょう(送ってくださった方、ありがとうございます。連絡先が記されてなかったので返事ができませんでした)。
去年に引き続いて忠臣蔵の話をさせて頂きますと、今冬は半分ドラマ、半分歴史解説の番組がテレビ放送されましたね。これはどう捉えればいいのか・・・。時期アメリカ大統領がドナルド・トランプになるので、わずかながら反米感情が高まることの前触れ、ということでしょうか。
あと、前年の年末のご挨拶の時に、なんか大きな目標掲げていた気が・・・。もちろん未達成なわけですが、まだ諦めてはいませんよ。よろしければ応援くださいませ。

来年も、細々とであってもブログを続けていくことを最低限の目標としたいと思います。皆さんおかれましても、ぼちぼちお付き合い頂ければ幸いです。
それでは、良いお年を。

映画『シン・ゴジラ』評――修羅が再び日本を壊す・後編

2016-12-20 21:14:16 | 雑文
(前編からの続き)

さて、それではこの批評は、中途半端な尻切れトンボの終わり方をしてしまうのか。
結論めいたものを導き出すのは難しそうだが、いくつかの推測は提示できそうな気がする。
少し視点を変えて、『シン・ゴジラ』の、過去のゴジラシリーズ(特に第一作)との相違点を挙げてみたい。

①逃げられるのに逃げようとせず、ゴジラに殺される人物が出てこない。
②ゴジラは生き延びることなく、完全に死滅させられる。
③一人の天才ではなく、多数の一般人が力を合わせることによってゴジラが撃退される。

まず、①から見ていこう。前回の論考で「ゴジラシリーズの中に出てくる「逃げられるのに逃げない人」は、戦後の日本人の「文明と心中したい願望」の遂行者である」としたが、今作ではそのような行動をとる人物は出てこないのだ。これを素直に捉えるなら、「文明と心中したい願望からの脱却」だと言える。
これを②と合わせて見てみよう。第一作の『ゴジラ』では、生物兵器のオキシジェンデストロイヤーによって、最終的にゴジラは泡と化す。しかし、登場人物の山根恭平博士が「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」と呟き、根絶には至っていないことが暗示される。二作目以降も、海中に追い返して終わりになるなど、ゴジラを死滅させられずにいた。
対して『シン・ゴジラ』では、血液凝固剤の投与によって、ゴジラは最後には完全に死滅させられる。
これはつまり、「ゴジラからの脱却」「ゴジラとともに生きない」という選択であろう。ゴジラが生き延び続けるということは、「文明と心中したい願望」が保持されるということであるが、ゴジラが死滅するということは、願望が消失するということになる。
また、「老朽化した原発=ゴジラ」だとすると、脱原発の流れができる、ということにもなる。
最後に③。一作目においてゴジラを撃退したのは、世間に背を向け、孤独に生きる芹沢大助博士の発明したオキシジェンデストロイヤーであった。同様に、二作目以降のゴジラシリーズの中でゴジラ撃退の要となるのは、異星人や未来人が持ち込んだ卓越した技術兵器、あるいはモスラやキングギドラなどの他の怪獣である。
ゴジラを撃退してきたのは、外部から到来する超越的な力を持つ何かであった。しかし『シン・ゴジラ』では、牧悟郎の研究成果を継承しつつではあるが、ごく普通の、日本社会に生きる人々の力の結集によって、ゴジラ撃退は果たされる。「外部」ではなく、「内部」がゴジラ撃退を完遂したのだ。
では、これらをひっくるめて言えることは何か。
日本社会は、明治維新から約70年後、太平洋戦争という大きな転換点を迎えた。そして現在、戦後約70年を経て、また大きな変化を迎えようとしている。先に「『シン・ゴジラ』は過去のゴジラシリーズをリセットしたとも言える」と書いた。一作目の『ゴジラ』、及びゴジラシリーズが、戦後の日本の在り様を反映していたとするならば、『シン・ゴジラ』は、ゴジラシリーズをリセットすることで、ひとつの時代が終わりを迎え、今作に表象される新しい時代の幕開けを告げている、と言えるのではないか。
だとすると、ゴジラ撃退が、外部ではなく、内部によって果たされるとは、何を意味するか。有事において日本社会の外部から到来し、日本の危機を守ってくれる超越的な力を有した者。それは誰か。言うまでもない、アメリカである。
太平洋戦争終結後、日本人が仰ぎ見る対象は、天皇からアメリカへとシフトした。憲法第九条による軍事力の放棄など、アメリカの占領政策によって非主権国家とされた日本は、アメリカの後ろ盾なしには立ち行かなくなってしまった。戦後の日本を反映したゴジラシリーズの中で描かれる「外部から訪れる超越した力を有する者」とは、アメリカのことである。それなしにはゴジラの撃退が果たせない、ということは、アメリカに頼らないと日本社会は維持できない、ということである。
おりしも先般、アメリカの次期大統領が、共和党候補のドナルド・トランプとなることが決定した。トランプに対しては毀誉褒貶さまざまなことが言われているが、重要なのは彼の人格ではなく、彼が選ばれたという事実である。
保護貿易、オバマケアなどの福祉の切り捨て、海外駐留米軍の規模縮小、移民排斥等々。トランプが掲げる政策は、元々アメリカ国民の大多数が望んでいたことであり、彼はそれを推進するための適任者としてたまたま選ばれたに過ぎない。
アメリカ政治を論じているわけではないので、話を日米関係だけに絞る。
オバマからトランプへ、民主党(革新)から共和党(保守)へと切り替わる中で、アメリカは「内向き志向」になる。ならば、日米安保条約の見直しや、在日米軍の引き揚げが(部分的にであれ)行われる可能性が高い。
その時日本は、否が応にも自主独立しなければならなくなる。
外部ではなく、内部の力によってゴジラ撃退が果たされるということ。それは、アメリカ(外部)から独立を果たさねばならない今後の日本の政治的・軍事的筋道を象徴するものである。
ただ、これは深く分析するまでもないことである。実際映画の中で、通常兵器をものともしないゴジラに対して、米軍が核兵器投下の意思を固めるのだ。内部(自国)によってゴジラ撃退が果たされないのであれば、外部(アメリカ)に頼るほかなくなる。しかし、外部(アメリカ)に頼り続けていると、最終的には破局的事態を招聘してしまう。破局を避けたいのであれば、日本は自主独立せねばならない。

なんだか、日本の未来は明るいように見えてしまう。「文明と心中したい願望」から抜け出し、アメリカへの従属からも脱却し、脱原発に向かったうえで、自主独立を果たすのであるから。
ただ、「文明と心中したい願望」から抜け出すと言っても、「己が心中願望を抱えているという迷妄を自覚することにより、自助努力で脱却する」のか、それとも「一度徹底した心中を行うことを経て、その結果として満足を得たのちに脱却する」のか、どちらなのかがわからない。前者であればいいが、後者であったなら?
また、対米従属は一国家として屈従を強いられるものではあるが、その見返りとして、まがりなりにも平和を享受してこられた、というのもまた事実なのである。トランプは日本の核武装を容認する発言をしているが、軍事的に独立を果たせば、非戦を維持できるだろうか。
アニメ映画『君の名は。』の記録的ヒットの陰に隠れて目立たないが、『シン・ゴジラ』もかなりの興行収入を上げている。先に述べた通り、ストーリーだけ抽出すれば、『シン・ゴジラ』はごく平凡な怪獣映画である。実際、過去作の焼き直しに過ぎない、という批判もある。
しかし、それにも関わらず、今作はヒットを飛ばした。何故だろうか。
おそらくは、ゴジラ映画が日本社会の反映であることが、意識的にせよ無意識的にせよ日本国民に理解されており、来るべき新時代の指針として参照すべく、ある種の危機意識を抱いている人達を引き寄せたからではないだろうか。
小生は日本のこれからについて、蓋然性のある見通しを立てられるだけの知見も分析力も持ち合わせていない。なので、これ以上の未来予測は困難である。
日本はこれからどうなるのか。『シン・ゴジラ』が暗示していることは、どれだけ現実のものとなるのか。
それはもう、日本社会の今後の推移を見守るしかない。明るければいい、とは思うのだが。