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歴史は如何にして認識されるのか――望ましい国際関係構築のための試論

2016-07-05 22:56:06 | 雑文
歴史認識の問題について。
日本と韓国、及び日本と中国は、歴史認識を巡って対立を続けている。何故、歴史認識は一致をみないのか。そもそも、歴史を認識するとは、どういうことか。
まず事実として、現実に生起する出来事。この出来事というのは、人間の認識如何に関わらず、厳然として存在する(と、思われる。哲学の領域では、現実世界は必ずしも実在しているとは言えない、ということになっているのだが、ここでは敢えて目をつぶる)。
だが人間は、この出来事を、何の装飾も剥脱もなく、ありのままに受容するわけではない。人間は現実の出来事(歴史)を理解するために、専ら言葉を使う。もちろん、直接的な視察・見聞、あるいは写真・映像による視覚情報等にも頼るのだが、視覚情報だけで現実の全てを把握するのは困難なので、言葉を用いらざるを得ない。そして、言葉による現実の記述には、主語を必要とする。主語を使わない記述も不可能ではないが、そうすると、文意が曖昧になってしまう(「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を巡る議論を見よ)。
では、主語を用いて記述するとは、どういうことか。単一の視点での記述になる、ということである。日本が主語であれば日本の立場からの、韓国が主語であれば韓国の立場からの記述となる。それは、「日本の主観に基づく記述」「韓国の主観に基づく記述」ということである。
人間が、言葉によって、現実の出来事を理解するということ。これを、「物語」と呼ぶこともできる。
一人の人間の視点から語られた「物語」を「人生」と呼び、国家などの共同体を主体として語られた「物語」を「歴史」と呼ぶ。
人間は、現実を認識するために言葉を用いねばならず、言葉は主語がないと文意が曖昧になる。主語のある言葉は、その発話者にとっての主観でしかないのだが、人間はそのような形でしか現実を受容することができない。主観による「物語」を「歴史」――ないしは「人生」――と呼ぶわけだ。
だとすると、歴史認識が一致しないのも当然といえる。
これは、二人の人間に喩えるとわかりやすいかもしれない。A君とB君、2人の人間がいるとする。二人は一時期、濃密に関わりあっていた。その、深い関わりの期間を、たった一つの視点、一人の人間の出来事として語ることは可能だろうか。A君にはA君の、B君にはB君の視点があるはずだ。「あいつはあんなこと言ってるけど、俺に言わせればさ・・・」という、意見の食い違いもあるだろう。
また、それだけではない。A君にもB君にも、関りあいを持つ以前の人生と、疎遠になってからの人生がある。「前後の文脈」というやつだ。2人が関わりあっていた期間は、その文脈に位置づけられて語られる。当然、A君の文脈とB君のそれは違う。
もっと言えば、「神話」の問題もある。
大抵の国は、「神話」を有している。「神話」というのは、その国がどのようにしてこの世に誕生したのかを明示するものであり、同時に、その国の存在意義の正当性を担保するものでもある。なので、「神話」の否定は、国の否定を意味する。
現実に生起する出来事は、「神話」を否定するものであってはならない。もし、「神話」を損ないかねない出来事が起こったら、どうするか?その時は、現実の出来事の方を、「神話」に沿う形に捻じ曲げて解釈するのである。


〔引用者注・カリフォルニア州のディズニーランドの〕フロンティアランド、トゥモローランドという二つのランドは、アメリカという国を理解するために必要なキーワードである“フロンティア精神”と深く結びついています。
アメリカには建国の神話がありませんが、それに代わるものとして西部開拓の歴史が存在しています。かつてのアメリカ人は、開墾した土地を取得できるというホームステッド法(一八六二年)に基づいて、未開の土地を開拓していきました。一八四八年にカリフォルニアで砂金が発見され、同年、メキシコとの戦争によってこの土地がアメリカの領土となると、開拓者たちはこの土地の金鉱脈を目当てに集まり、ゴールドラッシュの時代が始まります。(中略)
さて、この西部開拓時代は、一八九一年に国勢調査局が、フロンティア・ラインと呼べるものがなくなったことを宣言した、いわゆる“フロンティアの消滅”によって終了します。
この開拓時代の終了とは、同時にこのアメリカの先住民であるインディアン=ネイティブアメリカンの掃討が完了したことを意味するものでもありました。西部開拓とは、白人による先住民からの土地や財産の収奪でもありました。
つまりは、古き良きアメリカを賛美するという、ディズニーランドのテーマは、一方で先住民の迫害という事実を隠蔽することで、初めて成立するものでもあるのです。
(速水健朗『都市と消費とディズニーの夢――ショッピングモーライゼーションの時代』角川ONEテーマ21)


ハリウッドの西部劇でも、開拓民は善良な正義として登場するのに対し、先住民は残虐な野蛮人として描かれている。先住民の迫害を悪と認めることは、アメリカの「神話」に相当する西部開拓時代の否定を意味する。それは、アメリカの存在意義を否定する、ということである。
おそらく、これは良い悪いの次元の問題ではない。「先住民の迫害という事実を隠蔽する」というのも、意図的に隠蔽しているのではなく、隠蔽せざるを得ない力学が働いている、と見ていいだろう。
誰しも、積極的に自分の存在意義を否定することはできない(ただ単にそれが苦痛だから、というだけではない。それは場合によっては、死を意味するのだ)。国もまた、然りである。
「視点」と「文脈」と「神話」が違う以上、記述は一致し得ない(それでもなお一致させようとするならば、どちらかの言い分を一方的に押し付けるしかない)。これが、歴史認識が一致しない理由である。
批評家の東浩紀は、「日・中・韓は『歴史認識を一致させない』という一点で一致するべきだ」と主張している(『戦争する国の道徳』)。小生は、東のこの意見に全面的に同意する。
「歴史認識を一致させない」というのは、一致する筈もないものを一致させようとするのは不毛なことだ、ということであり、また、歴史認識を一致させなくても良好な国際関係を構築することは可能だ、ということでもあるだろう。
もちろん、謝罪や賠償の問題はあるにせよ、歴史認識は一致しない(させない)という共通理解からスタートすることで開けてくる地平があるのではないだろうか。片方が自分の言い分を相手に押し付けるのではなく、それぞれの言い分を尊重した上で建設的な関係を築いていく。それは、決して不可能ではないはずだ。
ただ、歴史認識問題は、公正や正義の実現というよりもむしろ、相手国よりも優位に立つための外交カードに利用されている側面もある(と言うより、ほとんどそのような意味合いしかないのかもしれない)。「目的」ではなく、「手段」としての歴史認識というわけだ。なのでまずは、「手段」を「目的」に引き戻す必要があるだろう。
以上は日・中・韓のみならず、広く国際関係全般に適用できる議論である。
歴史認識は一致し得ないし、一致させる必要もない。このことを国際的な共通理解にすることができれば、世界はもっと風通しの良いものになるのではないだろうか。賛同者が一人でも増えてくれればと願うばかりである。


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