徳丸無明のブログ

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貨幣は仮想化する以前から仮想であるということ

2017-10-04 21:32:32 | 雑文
2014年2月25日、ビットコイン交換所のマウントゴックスのウェブサイトが閲覧できなくなった。マウントゴックス側は、「2月初めにビットコインが引き出せなくなった。これはシステム障害が起きたためで、復旧作業を進めている」と説明したが、翌26日にはすべてのサービスと取引を停止、28日には東京地裁に民事再生法の適用を申請して経営破綻した。負債総額は65億円。顧客から預かっていたコイン75万枚と、自社管理分の10万枚が消失したという。コインの消失は、ハッカーの不正な引出しによるものとされた。
ビットコインとは、2009年頃から流通し始めた、インターネット上だけでやり取りされる、中央銀行や企業といった特定の発行者を持たない仮想通貨である。この一連の事件が報じられた時の、保守的な人々の反応は、概ね「そんな実体の無い物に手を出すからこんなことになるんだ」というものであった。さてしかし、実体とは何であろうか。通貨における実体とは、何のことを指すのだろうか。

我々は経済活動においては、貨幣を媒介物として用いねばならないと思い込んでいる。しかし、実際は必ずしも貨幣を使用する必要などない。
たとえば、預金通帳や家計簿のような、所持金額とその出入りを記録するノートを貨幣の代行としてもいい。仮にこれを「総合出納ノート」とする。
働いて20万の給料を稼いだ場合、会社からこのノートにプラス20万が記される。八百屋で100円のキャベツを買う際には、ノートの残高から100円が引かれ、逆に八百屋のノートには100円が増額される。
こんな仕組みのノートを、経済活動に参与するすべての人間が携帯するようになれば、貨幣は必要なくなる。
ただ、常識的に推論すれば、計算を間違えて誤った数字を記載したり、実際には入っていない金額を書き加えるといった不正が行われる可能性がある。と言うか、ほぼ100パーセント不正は行われるだろう。
しかしそれは、「総合出納ノート」のシステムの欠陥を意味するのではない。人間の計算能力の不完全さと、嘘をつく生き物であるという不誠実さの問題なのである。システムそのものに瑕疵はない。人間が皆完璧に計算を行い、かつ記入ミスも犯さず、同時に一切の不正行為に手を染めない馬鹿正直さを兼ね備えていれば、このノートだけで充分経済活動は行えるのだ。システムに問題があるのではなく、人間の不完全さ、及び不誠実さが問題なのである。
この思考実験が明らかにしていることは、経済活動においては、必ずしも貨幣という物理的事物は必要ではない、ということである。「特定の形状の紙切れと特定の形状の金属片を、市場において等価に交換できる価値を含有するものと見做す」という決まり事を、その社会の成員が同意していることによって貨幣経済は成立する。ただの紙切れに過ぎない物や、ただの金属片に過ぎない物を、価値あるものと見做すことが可能ならば、ノートに書かれた数字の羅列を同じように価値あるものと認定することに、何の不都合もないはずだ。
実際この「総合出納ノート」に近いことは、現実の経済活動の現場で行われている。
北海道の会社と沖縄の会社が取引したとする。北海道の会社が、沖縄の会社の銀行口座に100万円を振り込んだ。この時、北海道のATMで手続きが行われたわけだが、100万円の貨幣が北海道から沖縄に移送されたわけではない。それぞれの会社の口座の残高が変動しただけである。物体としての貨幣は動いていない。電磁パルスのデータが送受信され、それぞれの口座の数字が変動したことを「貨幣がやり取りされたものと見做す」という社会的約束事があるだけである。
もちろんこの約束事は、「口座の残高」と「物体としての貨幣」との最終的な互換性によって担保されているわけだが、経済活動には必ずしも貨幣は必要ではないという事実を指し示してもいる。そして、これは仮想通貨とも極めて近いシステムなわけで、我々の経済活動はそうと気付かないうちに仮想通貨の誕生以前から半ば仮想化していたのである。もっと言えば、仮想通貨は円やドルと交換できるわけだが、それは円やドルを銀行に預けることで預金残高というデータに変換する行為とほぼ相同である(Tポイントカードや交通ICカードも)。
ごく最近まで仮想通貨が存在していなかったのは、そのシステムを成立させるインフラが整っていなかったからでしかない。仮想通貨それ自体ではなく、仮想通貨が流通するための基盤の問題。
経済学者の岩井克人は『貨幣論』の中で、「貨幣は貨幣であるから貨幣なのである」と述べている。人々が貨幣を貨幣として認め、流通させているのは、まさに貨幣が貨幣として認められ、流通しているという事実による。貨幣が貨幣として流通しているという事実、人々が、貨幣を貨幣として認めているという事実それ自体が、貨幣を貨幣たらしめているのである。そんな循環論法こそが貨幣の成立条件となっている。
「悪貨が良貨を駆逐する」ということわざもある通り、人々が選好しさえすれば、良貨の代わりに悪貨が流通し始める。スマートな支払いを好むお金持ちは、現金を持ち歩かずにカードを使うが(お金持ちの人は駄菓子屋で買い物したくなったらどうするんだろうね。駄菓子を食べたいなんて絶対に思わないのがお金持ちなんだろうか)、それと同じ様に、今後我々が「物体としての貨幣よりも仮想通貨のほうがいい」と考えるようになれば、そちらの方が主流になるだろう。そもそも「仮想通貨」という名称からして、貨幣を中心に据えた視点からの呼び名である。いわば過渡期である現時点での呼称であり、いずれ“仮想”は別の文字にとって代わられることだろう。
「物理的実体を持たない仮想通貨は、データでしかないから貨幣よりも曖昧で、常に消失の危機に晒されている」と考えている人もいるだろう。しかし、紙幣だって燃やせば灰になるし、硬貨だって加熱すれば熔けてしまう。また、仮想通貨にハッキングやシステム障害による消失の恐れがあるように、貨幣にも窃盗・強盗による被害の可能性がある。物理的実体があれば恒常性が保証されているというわけではない。あくまで、電磁パルスのデータよりは物理的実体のほうが消失しづらいという、安全性の程度の差があるだけである。
そして、それも今のところの話である。小生はコンピューター関係には疎いのだが、バックアップ技術などの向上によって、仮想通貨の消失の蓋然性を減らしていくことは充分可能なはずで、将来的には物体としての貨幣よりも仮想通貨のほうが安全な社会が訪れるかもしれない。
ただし、書物の耐久性を見ると明らかなように、電子書籍よりも紙の本のほうが耐久度が高く、紙の本よりも石板に刻まれた文章のほうが歴史の荒波を乗り越えて生き残ってきたわけで、電子データの耐久レベルを上げていくのはなかなか容易ではないんだけどね。
あとひとつ気になるのが、仮想通貨が資本主義に及ぼす影響。現状の資本主義を、さらに加速させる方向に働くのか、それともさしたる影響はないのか・・・。そこが知りたい。誰か教えて。
ジャンル:
経済
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