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埼玉県比企郡嵐山町地域史誌アーカイブ

嵐山町誌147 信仰に関係あるもの 社宮司

2009-07-31 02:13:00 | 勝田

▽社宮司 信仰に関係のある地名として、もう一つ社宮司についてのべよう。社宮司の地名は、志賀村の社宮司、吉田村の社宮司、越畑村の社宮寺の三ヶ所である。これも解りにくい地名である。読み方は三者とも「シヤクジ」といっている。
 私たちはこの呼び方から、東京板橋の石神井(シヤクジイ)を連想する。これは文字は石神であるが、井をとれば「シヤクジ」で殆んど私たちの呼び方と同じである。そこで石神井のいわれを調べてみると、石神は釈氏、杓子などとも書くが、実は石を神体とした祠であるという。この祠は下石神井の北原というところにあって、社額には石神と書いてあり、神体は石の棒である。これは秩父緑磐の類で、長さが二尺三寸あるが一方の端は欠け落ちている。横断面は楕円形であって長径は四寸位あるという。新編武蔵風土記稿では「石神井村は昔三宝寺の池から石剣が出たので村人が社をたて、この石剣を神体として崇め祀った。この石神の名前をもって村の名としたのである。」と説明している。本町の杜宮司もこれと同じで、石神の信仰から発した地名だと考えられる。今三ヶ所とも地名だけで、祠はあるが石の神体はない。然しこのような特殊な地名はそれ以外に考えようがない。そして岩石に神霊がこもるという信仰は日本の国民に共通のもので、各地に石を祀った社が存するのであるから、それが当然本町にもあってよいのである。赤ん坊の食いぞめの時、お膳に石をのせる風習は、この委員会でも話題になっているし、家々の氏神の中には石を御神体のように安置しているものや、氏神様の祠の中に小石を沢山供えてあるのも珍らしくなく、すべて私たちのよく見るところである。これ等は私たちの祖先が石そのものに神秘な力があって、疫病や禍いのもとを排除すると考えたり、石は神様の依代(よりしろ)であると考えたりした証拠である。社宮司は石神から起った地名と考えてよい。
 斯うなってくると、志賀村の石合、千手堂村の石堂、吉田村の岩殿沢、勝田村の石神、広野村の石倉などにも登場を願わなければなるまい。志賀の石合は大木ヶ谷戸の区域に含まれている。この地名は前にも出たが畑の間だから畑合い、林の間だから林合いというのとは若干異った意味を含んでいるようである。ただの石と石との間というのでは何の関心も起る筈がない。個有の地名になり得る要素はない。この石は特別の石でなければならない。その地にだけあって名高く、他の場所には滅多にない種類の石でなければならない。とすれば容積が巨大であるとか、形が奇怪であるとか、常に水を含んだように濡れているとか、他と異った特色を備えたものでなければならない。このような石は、石の霊力を信ずる国民性とすぐ結びつくのである。石合の地名も、そのような石に関連して発生したと考えられるのである。千手堂の石堂、広野の石倉も又、石の崇拝と関係する。前述のように石は神の依坐(よりまし)でもあったが、とに角霊力あり神秘な性能を有するものである。さて一般に神を祀り、神の降臨を願う場合は清浄でけがれのない場所でなければならない。そこで石を積み石で築けば、とりもなおさず、そこにはけがれない神聖の場所が出現するのである。これが石を積んだ石倉や石堂であり、それが地名となったと考えてよいと思う。岩殿沢はこれとは若干性格が異ったもので、甲斐の岩殿は岩窟が殿閣のような形をしているのでこの名があるという。勿論その奇勝を異として、神祠のあることは同じである。吉田の岩殿沢は地均しをして、岩殿の地形は見られない。石神に至っては正しく、石を祀った神よりその名が出ている。近くでは神保原の石神は「石神村は石剣を祭れる社あるに因る。其石の長き三尺に余れり」(新編武蔵風土記稿)とあり、遠江の石神は「下阿多古村の大字にして一石を神体とするとぞ……明治十八年(1885)頃、民家の辺より石棒を発見す。長二尺三寸、周一尺四寸量四貫五百匁」。千葉県夷隅郡の石神も、同じで、この地方は殆んど石がないのに、この石神の字だけは、数ヶ所にまるで湧出したような大石があって小屋の様に見える。村民がこれを畏敬して神に祀ったという。日本全国を尋ねれば石神の地名は多くあり、その発生の起源は皆右のように一致している。勝田村にその伝えがないとすれば、これは忘却の彼方に去ったものと解する外ない。地名の起原は他の例と同じものと考えてよいだろう。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)518頁~521頁


嵐山町誌146 信仰に関係あるもの 塚

2009-07-30 02:09:00 | 勝田

▽塚 民間の信仰に関連して生じた地名に塚がある。塚というのは、祭壇として築かれた丘状の盛り土や、積み石のことである。日本人は清浄にして汚すべからざる場所、神秘的な場所として、山や森、自然の丘陵、樹木、石カハラなどを崇拝する習慣があるが、これに対して人工で造った聖地、霊地が塚である。「ツカ」は「ツク」すなわち「築く」という言葉に関係するもので、人工的に造りあげたものというのが本来の性質である。塚が神聖なものとして作られた理由は、元来山や丘を聖地として祟め、そこに神霊が存在すると考えてきたので、その山や丘の形を真似て小規模に造立しこれを神霊祭祀の場としたのである。祭り場としては、平坦な地面の上よりも、小高くきわだった所の方がふさわしく思われるからである。別項で、私たちの屋敷には、その南西の辺に必ず築山を持っていることをのべた。これは自然の風物に特別の愛着をもつ国民性のあらわれと見ることも出来るが、僅か二、三本の松の木を植えたり、形も定らない岩や石を数個並べて築山と考えている。その感覚はいわゆる庭園とは、異質のものがあるようである。「築山は神の遊び場だ」という考え方をのべた。築山は塚と同じように聖地の意味をもっていたと考えてよいと思うのである。
 さてその塚を地名とするものは、境塚(平沢)、供養塚(鎌形)、千部塚(志賀)、茶臼塚(将軍沢)、百八燈塚(遠山)、富士塚、二塚(古里)、金塚(広野、勝田)等がある。
 平沢の境塚は、文字通りに解すれば境界の塚である。塚は多くの場合村の境に築かれている。この塚を祭りの場所として外敵の侵犯を防ぐという目的だった。外敵というのは人間だけでなく、目には見えぬ悪霊、疫病などのことである。村の境にはこのような場所や、行事を起源として出来た名前が沢山ある。横道に外れるが志賀村の浜井場という地名も今の人には解釈が出来ない。然し実はちやんとした由来がある。浜は「ハマ」破魔である。破魔射場と書く場所が多い。「ハマ」とはどんなものであったか、とに角、村境に集って「ハマ」の投げ合いをする。相手の村深く投げ込んだ方が勝ちとなるのである。浜井場は今の久保前であるから相手の村はさしづめ杉山村ということになる。境塚もこれと同様の性格のものである。然し平沢の境塚は、元、公会堂の手前、県道の北側であるから村の境ではない。そこで別の解釈がおこる。つまり境塚は経塚であろう。墓の近くに経塚と呼ぶ場所が各地にある。供養塚と同じようにここで死者をまつり、経典を読んで供養をしたのだという説明がついている。平沢の境塚の側にも墓地があり、塚には今、三猿を刻んだ庚申様の碑が立っている。経塚と考えた方が適当のようである。鎌形の供養塚もその傍に古い墓地がある。同じ性格のものであろう。
 志賀の千部塚は鶴巻の一部であるが、検地帳には千部経という字名がある。両者同じものであろう。この二つを合せて千部経塚とすればその意味が明らかとなる。千は数字の千そのものではなく、多数の意味を現わしたものだろう。数多くの経典を読誦したとか、納め埋めたとかいう伝説がもとになった地名であると思われる。
 遠山の百八燈塚は、仏教で説く百八の煩悩に因んで出て来た名前である。百八煩悩説は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が、色、声、香、味、触、法の六塵に接触する時、六根の好、悪、中の三段階に従って、十八の煩悩を生じ、六塵にも、苦、楽、捨の三種があって、これも十八、合せて三十六の煩悩となる。これが過去、現在、未来の三世に亘って一〇八の煩悩となるわけである。この百八煩悩に因んで百八の除夜の鐘とか、百八の数珠とかが現われた。百八燈は百八基の燈火を神社、仏閣、又は道端等に献ずる土俗である。遠山の百八塔塚は斯うした信仰の跡であろう。但しこれも正確に百八基の燈火を捧げたか否かは不明であるが、燈籠といわれる程のものでなく、極く簡単なしかけの燈なら実行出来ないことはない。神仏といっても、もともと穀物豊饒の祈りであったと考えられる。将軍沢村に百八将軍前という地名がある。百八人の将軍ではあるまい百八の燈火を供えた祠か堂でもあったためにこの名が起ったのであろう。
 同じ将軍沢村の茶臼塚は、「沿革」には記載がなく、「風土記」の小名の部に「ラウス塚、茶臼塚ともいえり」とある。この塚と田村麻呂の古墳との関係は「沿革」にも「風土記」にもない。地元でも塚の存在をしらない。ラウス塚の意味は判じ難い。茶臼は茶の葉を碾(ひ)いて抹茶とするのに用ふる石臼である。慶長十九年(1614)大阪冬の陣に、徳川家康がその本陣を茶臼山に布いたというのは有名であるが、もとは古墳であって荒陵(あらはか)といっていた。その形が茶臼に似ているというのでその名を得たのであろう。お茶が日本に伝ったのは鎌倉のはじめで、喫茶養生記を書いた栄西が、宋の国から持ち帰ったのだという。従って茶臼の名もその後生じたものである。名前は新らしいが山や塚そのものは古くからあり、それに茶臼の名をつけたのであろう。茶臼山は不思議に、軍陣に関係がある。信濃川中島の茶臼山は平地の田圃の中に特起し、ここに登ると周囲の山川が歴々として一望の中におさまる。それで上杉謙信がここに陣営して、武田信玄の妻女(さいじょ)山に相対したといっている。これも古墳らしい。陸前、桃生郡の茶臼山は桃生柵の址だといわれている。桃生柵は、平安朝のはじめ藤原仲麻呂が陸奥国の浮浪人を徴発して造営に参加させたという伝えのある柵であって、朝廷の新しい拠点であった。斯うなると将軍沢の茶臼塚も、利仁将軍や、後の宗良親王などに結びつけたくなるが、地元にはそのような伝えはない。茶臼山と軍営は偶然の一致であろう。然し茶臼山と呼ばれる山が、平坦地に屹立したり、特色のある形であったりして、人の目を引きやすいすがたであったことは共通しているようである。戦に臨んでは軍営として利用され、平和の時には神仏の霊場となるべき性格を備えていたことは見逃せないと思う。
 富士塚は富士の行者からはじまった名前である。富士山崇拝者で組織した講を富士講といって、講には先達があり信者は修験者のいでたちをして白衣を著し、鈴を振り六根清浄を唱えて、七、八月の間に富士山に登った。また災厄や病気に悩む者のために祈禱し、講中相集って焚上(たきあげ)、防(ふせぎ)、摘(つまみ)などの修法を行った。先達や行者は富士登山の度数が多く、祈禱の効験があらたかであるとして尊信された。この行者が富士垢離といって、河水に禊し、富士権現を遙拝し、一七日間別火斉食をする。その行者の庵がこの塚の上にあったのであろう。これが富士塚である。或いは又、富士講の登山記念碑などが塚の上に立てられてこの名が生れたことも考えられる。
 富士登山の道者が現われたのは足利時代からである。塚の名はその後のものということになる。
 二塚は、前方後円の古墳を二子山などと称するところもあるので、それとの関連も考えられるが、古里村で古墳群のあるのは、岩根沢地区であるから少し距離がある。そして岩根沢の古墳は円墳であるから、前方後円の古墳ではないと思われる。丸い古墳かもしれないがとに角、目印しになるような塚が二つあったのであろう。現在もいくつかの塚が残っている。これが今は字名となっているのである。
 金塚は前述したように、カジヤやイカケヤの住居の場所であり、作業場のあとと考えてよいであろう。志賀の山森田という不思議な名前は、土を盛り上げて山のようにしてそこに祠を祀り、これに供える田があったと推察することも出来るのではないか。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)514頁~518頁


嵐山町誌145 信仰に関係あるもの 免・面

2009-07-29 02:01:00 | 勝田

  信仰に関係あるもの
▽免・面
 免又は面のつく地名は次のとおりである。八幡面(志賀)、仏句面、とうか面(平沢)、油免、番匠面(鎌形)、行司免(大蔵)、焼面(将軍沢)、油免(勝田)。
 これは神仏の信仰に関係して起った地名である。江戸時代は石高に対して一定の割合で年貢米を徴収した。この石高に対する年貢率を、今でいえば税率のことを免(めん)といった。然し本来の意味はそうではなく、年貢として徴収した残り、即ち作徳米を、百姓に免じ与えるという意味であった。ここに地名となった「めん」もこの意味である。つまり神仏を祭るために、特定の田畑の収穫物を免除して、祭祀の用にあてることを許した。その田畑を呼んだ名が地名にひろがったのである。免除の割合は様々で、除地と称して、全額を免除したものや、半分、三分の一を減免してその分を神仏に奉るというのもあった。これ等の田畑の耕作は共同で行ったり、番に当った者が順にやるという方法をとったりした。
 さてそこで前記の地名を見ると、八幡面は八幡様の費用にあてた田であることは明らかである。志賀村には今、八幡様はない。八宮神社はもと五社明神といって、村民が五組に分れてそれぞれの氏神を崇敬していた。これが合併して八宮神社になったのだという。五社明神の祭神は天照大神・保食神・諏訪明神・上、下照日女命であって、応神天皇・神功皇后の名はない。然し五組の氏神の中のどれかが八幡様と呼ばれていた時代があったのであろうと思う。八幡面はその八幡様の祭祀に供する田であったと考えられる。八幡面の位置は現在不明である。
 平沢のとうか面は「燈火面」であろうから、燈明料となった田であり、鎌形の油免も全く同じである。然しこれをすぐ平沢寺に結びつけたり、八幡神社に結びつけたりすることは出来ない。少くとも江戸以後の関係とは考えられない。何故なら平沢の実相院は早くから朱印地を持ち、持正院の支配となってからも幕府から六石五斗の朱印地を与えられていた。又八幡神社も社領二十石を授けられている。従ってこの外に、燈火面や油免を設定する必要はないわけである。私たちはこれ等の「面」のおこりは、今、村の鎮守社となっている大きな社にも勿論関係はあるが、そればかりでなく、もっとそれ以前の小規模の神仏、村内の個々のグループで祀っていた氏神、つまり一家一族の守り神のような神仏に対する祭祀にも関係しているのではないかと思う。自分の田を、何々様の神饌料ときめて、その収穫を毎年奉納し続けていた。それが検地の際に認められて、いわゆる除地の取扱いをうける。除地は田畑屋敷など無税の証書を有し、前々から検地帳より除外した無税地である。
 これ等の古い慣習が認められない場合は、領主が年貢の中からこれを支弁した。吉田村の天保四年(1833)の年貢皆済目録には、この年に徴収すべき年貢米の中から「米三俵 宗心寺へ納、餅米二斗 宗心寺へ納、米弐升 同寺へ御初尾納米 弐斗嶺明神祭礼米ニ納」などという内訳がついている。これは年貢納入の時に差引くものであるから、集荷したものを納めたのであろうが、この奉納米を作る田は定っていたと考えることも出来る。古い慣例に従って、一応領主が肩代りをして奉納するという形式をとったと考えてもよいだろう。面の地名は古い小さい神仰にも関係していると思うわけである。
 鎌形耕地の都幾川寄りの一劃に番匠面がある。番匠とは大工のことである。都幾川村の番匠は昔慈光山の大堂を創建する時、伊豆国から工匠を呼んでこれに当らせ、落成の後、工匠をこの地に住まわせたとか、慈光寺を建てる時、源頼朝から番匠面として寄付したのだとかいい、そのために番匠という地名が起ったというのであるが、他村のことはさておき、鎌形の番匠面は一体どんな起源によるものであろうか。都幾川村の番匠流に、八幡神社建設の時大工の費用にあてたのだといえば簡単である。では寄付したのは誰か、ということになるが、八幡神社縁起によると、この社は延暦十二年(793)に坂上田村麿が束夷征伐の時、宇佐八幡を塩山の頂上に勧請したのであり、延暦十六(797)年に奥羽下向の時に社殿を増築したとある。然し番匠面の寄付者を田村麿とするわけにもいくまい。その後、中古年代は不明だが、兵火にかかって社殿が焼失した時、現地に移したというから建設の年代も、従って寄付者も判らない。縁起では頼朝や政子の崇敬も厚く神田を寄せたとあるから、番匠面も一応右大将に結びつけたいところであろう。現在の社殿は寛文四年(1664)焼失後建設したものである。番匠面は都幾川の沿岸の低地で住居の土地ではない。従って大工の費用にあてた田である。建設工事は毎年あるわけではない。燈明田とはちがって、ある時期一時の必要に応じたものである。従ってある時に何かの建設の時の経費にあてた田であるということだけは間違いないであろう。それがもとで番匠面と呼ぶようになったのであるが、その時代も、建設工事も、八幡神社であるか、又、それ以外のものであるかは判然しない。少くとも寛文四年焼失後の再建に関して生じた地名ではないと思う。
 大蔵の行司免は水田地帯である。名前のとおり行司に与えられた土地であったろう。行司はもとは行事と書いて、相撲を司るものの職名であった。相撲が営業とならなかった以前の行司は、勝負を判断し、儀式を執行する重要な職であった。相撲は元来神事と関係の深いものであり、田植祭りに目に見えない精霊(しようりよう)を相手に相撲をとる一人相撲や、氏神の祭礼に頭屋(当番の者)や、宮座の代表が相撲をとる例などが各地にある。行司免はこのような神事の経費を支えるために用意された田圃であったろう。行司免といっても行司だけに限定せず、相撲神事のためと考えてよいであろう。「風土記稿」には大蔵村の神社として、山王、天神、愛宕、天王、神明、稲荷、諏訪、神明の八社があげてある。相撲の神事が何時頃、どの社で行われたかは明らかにすることが出来ない。
 鎌形八幡の流鏑馬(やぶさめ)の神事は大正の初期まで行なわれ、近隣に有名であった。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る競技であり、中世武人の間に盛んに行なわれた。これが神事として催される場合には一年の吉凶を占う年占いの意味があり、豊年祈願でもあった。方形の板を忌竹で挿んで立て、三箇の的に三本の矢を射る。射られた矢は魔除けになるといって、争ってひろい持ちかえる。この流鏑馬によく似たもので「ビシヤ」という神事がある。文字で書けば「歩射(かちゆみ)」つまり「ブシヤ」である。春の祭りに的射を行い、終って酒食を共にする風が残っている。この歩射を行う祭りの用米を弁ずるための田がきまっていて、毎年当番が交替で耕作する。それでこれをビシヤ田といった。尾社田、毘沙田と書いた地名が存在するのはこの田の名残りである。川島に「びしや伝」と称する一見不可解な地名がある。然し「歩射田」と考えれば意味は大へんに明瞭になるので、行司免のついでに書いておく。
 平沢の仏句面は、仏の供養の費にあてるための田圃である。仏供田という地名と同じである。仏を敬う風習の盛んであったことを示している。
 将軍沢の焼面だけは一寸趣がちがうのではないか。ここは一町田の区域である。古く、焼畑、切畑が行われたので特別の免租措置がとられた。それが地名の起源だと考えることは出来ないだろうか。然し焼面は、志賀の焼米田と同じように、水口祭りなどに供える焼米用の水田であると考えることも出来る。いずれとも決し難い。
 尚地名ではないが、「面」の意味が拡大されて、隠居面などという語も出てくる。隠居用として本家から分割した田畑で、本家に対して治外法権的な性格をもっている。「めん」の意味に通じている。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)510頁~514頁


嵐山町誌144 地形地物によるもの 鶴巻

2009-07-28 06:16:00 | 千手堂

▽鶴巻 鶴巻(志賀、将軍沢、杉山、吉田)の外に「巻」のつく地名が次のように残っている。腰巻(千手堂、広野)、軽巻、幡巻(越畑)である。先ず、語幹の「巻」の方から考えてみよう。これは「ねがらみ」の項でのべるように、岡の麓に沿うことを、カラム、カラマクといったという説がある。そこで越畑の軽巻は、この「カラマク」の転化で、岡の裾をとり囲んでいる民家乃至道路のある地名ではないかと考えたのである。「巻」は巻きついている、とり囲んでいるという意味らしい。広野の腰巻は、杉山城の腰をとり巻いているからだと地元では考えている。城からは少し距離があるが城の地域を拡大して考え、馬場も杉山城の馬場と言っているのであるから、これに続く腰巻も、城に関係づけることは全く無理とはいえない。千手堂の腰巻は沼下に含まれている。この地帯の丘陵地を廻る道路を指したのであろう。
 語幹の説明のために、軽巻や、腰巻の意味にまで触れる結果となったが、要するに「巻」は、丘陵の麓をとりまく地帯である。勿論そこには民家とか、道路とか、村人の生活に直接役立つものが存在しなければならない。生活に無関係のものは、人の意識に上らないからである。さて次に限定詞の方から考えてみよう。先ず鶴巻である。
 大体民俗学の研究の結果では「ツル」という地形は、盆地の上と下とをくくる谷川の流れの早いところだといっている。尤も「津留」などという文字から考えると、急湍(きゆうたん)になる前の、しばらく静かに湛えた水のことであったかもしれない。然し今はそれが転化して、唯、谷川のがけ下のせまい場所、簗(やな)などに便利な場所などをも指している。本町には「ツル」と単独に称している地名はない。強いていえば将軍沢の南鶴があるが、その他は「ツル」と「マキ」の複合した地名である。ところで鶴巻は、上記の説明にあてはまるかどうか、先ず将軍沢の方は、現在谷田(やつだ)の作られている場所でその谷は他と比して甚だしく長く続いているという。とすればここに谷間の水流があったことは文句なしに肯首出来るし、且つ長い水流が、両側の山麓をとり巻く形に見立てることも出来よう。鶴巻はツルとマクとの二つの地形から起った名称であると考えてよいようである。志賀の場合も、新田沼の附近で水質のよいところであるという。その水が昔どのような姿で流れていたか、今は知る由もないが、新田の裾にうねうねと続いていたことも想像出来る。吉田村と杉山村の鶴巻はまだ調査が出来ていないが、矢張り同様の地形が見出されるだろうと思う。かくして鶴巻は、水の流れる丘陵の裾につけた地名であるということになる。
 幡巻(越畑)の幡の意味は分らないが、この地も軽巻に続いた地区であるからこれに類似した地形であるために生じた名前であると思われる。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)508頁~510頁


嵐山町誌143 地形地物によるもの 粟久保

2009-07-27 16:12:17 | 将軍沢

▽粟久保 鎌形村と将軍沢村にあって「アクボ」と呼ぶ。将軍沢の現地点は分らない。鎌形の粟久保は上ノ台と下大ケ谷の東、高城にいたる地区で、将軍沢の大ヶ谷、高城がその東に連なっている。大ヶ谷と高城にはさまれた低地である。現在ゴルフ場になっているが、将軍沢から大ヶ谷に続く水田地帯である。
 これをアクボというのは穀物の粟とは無関係らしい。諸国に「アハラ」という地名が沢山あるが、この「アハラ」と同類のように思われる。「アハラ」という地名のところは、もとは池であったが近世になって水があせて田になったとか、左右が山で中央に沼があったが、排水と開墾で水田になったとかいう場所だそうである。「アハラ田」は深泥の田のことである。高城には甚しいどぶ田の地域がある。これに続く粟久保の地域も卑湿(ひしつ)な水田たるを免かれない。水溜りや小さな沼の連続した低地に溝を作って排水につとめ、土地をほして水田にしたのだと思われる。。「アハラ」と甚だよく似ている。「アハラ田」などという田があるとすれば、粟という文字を使うことも全く無縁ではない。アクボは低湿の水田のあるくぼい土地につけた名であろう。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)508頁


嵐山町誌142 地形地物によるもの 井の上

2009-07-26 16:09:00 | 嵐山町誌

▽井の上(居屋敷) 遠山村に井の上がある。井とは井戸のことである。赤井といえば有名な平沢村の赤井の井戸を思い出す。井の上は水に関係ある地名だと思っていた。ところが遠山の井の上は、以前の水車に入る道の両側の部分で、遠山で一番水のないところだという。甚だ当の外れた話になるのである。昔、地名の始った頃には井戸があったのだが、それが涸れて村人が皆忘れてしまったのだろうという説明も出来そうだが、実はそれよりももっと筋の通った説がある。
 これによれば「ヰ」というのは、居(い)、即ち、民居、家居の「い」で、いる場所、住んでいる場所のことであるという。「イナカ」という言葉がある。この言葉を知らぬ人はない。然しどうして「イナカ」というのかと聞かれると、いささか困るであろう。都会でないから田舎(いなか)さ、といったのでは説明にならない。
 ここに三百年来の切支丹(きりしたん)が沢山隠れて住んでいた僻村(へきそん)がある。西の方に小さな湾を控えた簡単な一盆地で、人家は大てい山の裾に構えられ、道路も幹線は麓に沿って走っている。狭い盆地であるからなるべく耕作地を潰さぬように工夫しているわけである。この村の地図を見ると、その中央の田のある部分に「イナカ」と書いてあるという。成程人家が山の麓にあって、田をとりまいているのであるから、居の中、イナカである。イナカの意味がこれではじめて納得いくわけである。
 井の上の「イ」はこのイナカの「イ」であるとなれば、これはわざわざ水に関係づける必要はない。数軒の家居のかたまりがあって、その上の方だから、居の上といったのである、とすれば立派に筋が通るではないか。
 居屋敷の地名もこれに便乗して考えることは出来ないであろうか。屋敷は人の住む場所である。何故にこれに居の字をつけて、くどくしたのか。山麓の家居のある地帯に囲まれた中だから居中(イナカ)だとすれば、家居のある地帯は居屋敷とはいえないか。人の住む屋敷の地帯の意味である。昔四月一日の入学式には、受持の先生から「居場(いば)」を定められて小学生の仲入りをした。居場とは今なら「お席」であり、「机」のことである。場だけでもいいわけである。居場は居屋敷に通ずる言葉である。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)506頁~507頁


嵐山町誌141 地形地物によるもの 大谷・小谷

2009-07-25 10:25:04 | 吉田

▽大谷・小谷 大ヶ谷(鎌形)、大谷(大蔵)、大ヶ谷(将軍沢)、大谷(吉田)、大谷(越畑)、小谷(大蔵)。大きな谷(ヤツ)が大谷であり、小さいのが小谷であると考えればここに改めて問題にする必要はない。然しこの大谷、小谷は思いがけない意味があるという。成程考えて見ると小さい谷は分るが、大きい谷とは一体どの程度のものを指すのか。日本は山国である。山と山との間が谷であるなら、到るところが谷といわれてよいわけである。そこで先ず谷(タニ)の概念を定めてかからなければならない。民族学によると、谷(タニ)と小野(ヲノ)とは、地方の呼び方の相違で本質に於ては殆んど同じものであるという。「ノ」については前にのべた。即ち「ノ」というのは火山国に多い山の麓の緩傾斜で一般に裾野といっているものがこれに当っている。斯ういう地形には水が豊に流れ、日がよく照らして快活に住むことが出来た。然し人々はいつまでもこのような理想的な地形の「ノ」にばかり住むというわけにはいかなかった。その規模がせばまって、唯山の側面、麓つづきというようなところも、大野などと称して生活を営むようになったのである。それから又この山の側面麓の大野から次第に水源を尋ねてさかのぼり山懐の緩い傾斜の地を小さい野、これを小野と称して、多くの小野の地名や小野氏が発生するようになった。だから小野というのは谷のことなのである。谷といっても人間の生活に便宜とたのしみを与えるような谷のことである。そこで小野村というのと同じ意味で小谷村が出来たし、その規模のやや大きいものが大谷村と呼ばれたわけである。谷といっても唯山と山との間の低いところという意味ではないから、小谷を標準にして考えれば大谷の内容も自ら分ってくるのである。
 それで本町の大谷、小谷の中、鎌形の上、中、下の大ヶ谷、将軍沢の上大谷、下大谷、大蔵の大谷、小谷など所々ゆるい傾斜の起伏をもつ野原である。ここが嵐山カントリークラブのゴルフ場の敷地である。谷という字がついていても、実は野を意味するものであることが分れば、この辺の地名のいわれもよくわかってくるのである。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)505頁~506頁


嵐山町誌140 地形地物によるもの 竹の花

2009-07-24 10:11:00 | 吉田

▽竹の花 竹の花の地名は、志賀、吉田、広野にある。花のつく地名はその外に、岩花(川島、杉山)、うつぎ花(杉山)があって、風雅な感じをうけるが、この花は草木の花とは関係ないのである。越畑には岩鼻がある。この方がむしろ地名の起源をよく表わしている。つまり、「ハナ」は塙であって、川底の低下によって出来た谷の両側の高い平地、河成段丘のことである。塙という文字を見てもわかるように、土地の高いところという意味だが、唯高いというのではなくとくに岡の端でその下に低い土地のある、その上のところをハナワといい、又ハナともいうのだという。然しこれも定石通りではなく、緩傾斜で鼻などのないところや、川岸に沿った長い丘陵なども、ハナワといっている地方がある。いづれにしても日当りがよく、遠望がきいて、水害を避けながら、その水流を利用し水田を作ることの出来る地形である。従って居住地としては理想の場所である。そこで地方の土豪たちが好んでこの地を占拠したのであるが、住居の周囲に竹を植えて、風水害を防いだり、家の所在を隠して遠目を遮り、外敵に備えたりした。竹が植えられていたから竹の鼻であり、竹の花となったのである。吉田の竹の花は滑川、広野は粕川の沿岸である。志賀は不明であるが市の川の沿岸であろう。竹の花がわかれば、岩花も、うつぎ花も同じである。岩のある鼻であり、うつぎのある鼻というわけである。いづれも川の沿岸である。塙の条件をそなえているわけである。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)504頁~505頁


嵐山町誌139 地形地物によるもの えの木町

2009-07-23 20:59:42 | 吉田

▽えの木町 吉田村に榎の木町、杉山村にえの木田がある。十二世紀の頃天台宗の大僧正で、良覚僧正という坊さんがいた。大へんに怒りっぽい性格であった。その坊のかたはらに大きな榎の木があったので、人々は「榎木僧正(えのきのそうじょう)」といった。僧正は「こんな名はけしからん」というので、その榎を伐ってしまった。然し根が残っていたので世人は「きりくひの僧正」といった。僧正は益々腹を立てて、その切株を掘りすてたが、そのあとに大きな穴が出来て水が溜ったので、今度は「堀池(ほりいけ)僧正」といわれた。徒然草にある話である。坊の傍などにはよく榎の大木が繁っていたらしい。千手堂橋を渡って鎌形に入り、もとの県道を五十米ばかり進んで右に曲ったところに、榎の古木が並んで立っている。昔、寺の参道の両側にでもあったのではないかと思われる形に並んでいる。道の左側には地蔵様が静かに佇(たたず)んでいる。委員の報告によると、このあたりを「おかね塚」といい、又その付近に、「おしおき場」の地名もあるという。榎は、山野に自生する落葉の喬木で、幹は六十尺以上に伸び、太さも、直径三、四尺になるという。この大木のある場所は人の目印になり易いので、寺とか塚とかの付近には、この木が植えられてあったのだろう。先の旧道をそのまま南に向って三百米ばかり行くと、道の左手に又、一本の榎がある。傍の石碑は表に弥陀の坐像を刻出し、功徳主鎌形村女講中と記してある。その先は平地蔵と供養塚である。矢張りこの旧道に沿って玉川村との境まで五十米ばかりの辻ヶ谷戸にも同じように心(しん)をとめた榎の切株がありその下に地蔵様が立っている。玉川村との境にもこの木があって、その根元から、清冽(せいれつ)な清水が湧き出ていて、昔、通行人ののどをうるおした。これは今はない。榎は寺や塚や塔や人々の関心の集る場所の目印しとなっていたらしい。榎の木に小峯の榛名講のお礼をたてている。木の宮にもこの木がある。水田地帯の真中である。このような大木は、木蔭になるので耕地には邪魔ものである。昔、木のかたわらに何か祀ってあったのであろう。木の宮の名前がこれを示している。榎の木町、榎の木田は榎から出た名であろう。元金町の意味は分らない。
   『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)503頁~504頁


嵐山町誌138 地形地物によるもの 仲町

2009-07-22 07:10:25 | 古里

▽仲町・合の町 仲町(中町)は一応、上(かみ)中(なか)下(しも)と分けた地域の中にあたる部分の地名と考えておこう。然し合の町となると、あいだの区画というだけでは何かスッキリしないものがある。「合い」のついた地名には石合(志賀)、落合(鎌形、将軍沢)、畑合(志賀、吉田、杉山)、林合(古里)、堀合(杉山)等がある。鎌形の落合は、都幾川と槻川の水の落合うところから起因し、将軍沢も又同じ理由であろう。字書にも落合は川と川との落合うところと説明してある。解り易い地名である。その他は石とか畑とか林とか、堀とか、いづれも、何の間であるかということが明らかになっている。然るに合の町は何かの間の一区画ということは分るが、それが何の間であるか限定されていない。限定されていないということは、「合い」という語だけでその意味が充足されて解っているからだと考えてよかろう。つまり何々の間の意味ではないのである。では何かといえば、これは武蔵の村々に饗庭(あえば)という地名や家名が多くあり、道饗(みちあえ)祭りをした祭場が地名の起原になっているという。道饗(みちあえ)祭りは、邪神を祀り排除する神事である。合の町もこの類ではないだろうか。アヒノ田(間の田)などという地名も、里と里の境の田という意味でなく饗庭(あえば)の田の意味であろうという。合の町もアヘマツリを行った場所とすれば、それだけで充分に意味は完結しているわけであって、何々の間という必要はないわけになる。合の町をこんな風に考えることは出来ないであろうか。然し別に合の町は古川や廃川敷の平地を呼ぶ地名だという説もある。地形に基いたものである。杉山村にも合の町がある。
    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)502頁~503頁


嵐山町誌137 地形地物によるもの 竪町

2009-07-21 00:34:06 | 大蔵

▽竪町という地名は志賀村に唯一つあるだけで、今の処他村には見えない。タテはヨコと相対の概念で、横町に対する竪町だと考えれば何の変哲もない。実際に志賀村には横町と称する家号がある。然し横町というのは、他の例(菅谷、鎌形、大蔵)から推しても、本街道に対して横に当るところという場合が多い。いはば本町に対する横町である。それで竪町というのは、タテ、ヨコのタテではなく何か別の意味があるのではないかという気がするのである。そこでこれは余り確心をもっていうことは出来ないが、一応解説を試みることにする。タテという地名は各地にある。志木町なども古くは館(タテ)村と呼ばれたという。館という文字がこの地名に多くあてられているので、武士の居宅の跡ではないかという想像が浮かぶが、館という字はタチであって国訓ではタテではない。館とタテは異る。又畑や林の場所をタテと呼んでいる地方もある。これ等は武士の館とは無関係のところである。直接武士とは関係ないのである。然し有名は下館の地形などを見ると、三方に低地を控えた細長い丘陵の先端で、日射や通風にもよく、雨水はすぐ流れおちて湿気の心配はなく、米を作るに適した低地が三方に控えている。軍略に関係なくとも、住居地にはこれ程都合のよい土地は多くはない。これが一且戦争の起った場合には、三方の低地が自然の要害となって敵の進軍を阻げる。遠矢で防戦するに便宜である。濠や柵などを作るよりすぐれている。このようなことから、自然武士の居住地としても好んで利用されたのである。それで館の文字と密着したのであるが、元来、タテというのは、右のような丘陵の先端で、米を作る低地のある場所であるという。しかすれば、志賀村の竪町を見るに、今の字名、蜻蛉橋の区域内でこれは旧字、蜻蛉橋、寺前、竪町、下の森、ソヤ潟であるとあるから、大体低い田圃の地であることは間違いない。この田圃に突出したところが竪町であるとすれば、これは定石通りで、間違いなく縦横の竪町ではなく地形より生じた竪町となるのである。
    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)501頁~502頁


嵐山町誌136 地形地物によるもの 曾利町

2009-07-20 22:51:15 | 将軍沢

▽曾利町 「沿革」中寛文八年の鎌形村御検地帳を見ると、上、中、下、下々の四等級の畑の下に「切畑弐町八反七畝歩」という集計が出ている。又、遠山村の御水帳には切畑一〇九筆、計壱町五反五畝拾弐歩が記載されてある。「ソリ」というのは、この切畑のことである。いや正しく言えばソリは焼畑のことである。焼畑のことを切畑、切替畑というのである。山林原野を焼いて畑とし、地力のある三~五年間は作物を栽培し、地力が衰えると、山林や野として放置し、また焼いて畑とする。これをくりかえず形式の畑を焼畑、切畑などというのである。尤も焼畑は畝(うね)を立てず、散らしまき、切替畑は一般の畑のように畝を立てるものだという区別もあるが、焼いて作る点は同じである。極めて原始、粗放な耕作の場所である。これを「ソリ」というのは、「ソラス」という意味で、外(そ)らして休ませる。ソラして休閑に付する意味で、ソリは休んでいる土地というわけである。尤もそういうことになれば、必ずしも焼畑、切替畑でなくても、地力が薄弱であるため連作せず、年を切って耕種する地も「ソリ」に当るわけである。要するにソリ町は、もとそのような、粗放的な耕作に委ねられた土地についた地名と考えてよいわけである。将軍沢に反間という地名がある。これもソリ間である。ソリは反からタンと読み、段町などとも書く。本町にはその例はない
    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)500頁


嵐山町誌135 地形地物によるもの 町

2009-07-19 00:09:00 | 古里

▽町 菅谷村が嵐山町になった。町制施行は地域社会の発展を示すものだとして、全町挙げて祝賀の催しが行なわれた。町は都会の意味である。都会のように人が多く集合して商売が行なわれることを「まちが立つ」という。鎮守様の祭りも、今日は「八幡様のまち」だという。人が沢山集るからである。まちには、まつりの意味もあった。然しここに地名となっている町は右のような意味の「まち」ではない。町という言葉は元来田の中の区域という意味で孝徳記には「凡そ町の長さ三十歩」という条があるという*。その他の例を見てもとに角、一定の場所の区劃されたところを町、といったらしいことがわかる。だから田圃の中にも山の中にも、町があるのである。これを昔は人が沢山集ったから町という地名になって残っているのだなどと言ったら、いろいろと理屈に合わないことが出てくるのである。町の名をあげて見ると
 楚里町(平沢)、曾利町(鎌形)、竪町、仲町(志賀)、仲の町(将軍沢)、合の町、大町(杉山)、元全町(古里)、えの木町(吉田)、中町(越畑)。尚、志賀には東、西、南、北の東町裏、西町裏、南町裏、北町裏がある。
 これ等の地名の地が、人家の密集した町でないことは説明を要しない。鎌形の曾利町は鎌形耕地の一部であり、将軍沢の仲の町は、鳩山村【現・鳩山町】境の深い山の中である。町は土地の一定の区画の意味である。普通名詞である。これに何かつけなければ固有名詞にならない。だから何々町の地名は、町にかぶせた「何々」の方に地名のいわれがあるのである。
    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)499頁~500頁

*『日本書紀』孝徳天皇紀の改新立詔3の「凡田長三十歩、廣十二歩為段、十段為町。」部分を指すカ。


嵐山町誌134 地形地物によるもの 袋

2009-07-18 12:05:08 | 嵐山町誌

▽袋 島と同様に河川によって起った地名に袋がある。杉山村の川袋と大袋がこれである。市の川と粕川の合流点の上の部分で、川に挾れて袋のような形であるから、この名前が出たと考えられている。まあこれでよいわけである。池袋、沼袋など袋のつく地名は、大てい水辺で二面以上が水で囲まれている所であるという。
 ところでこの袋の語であるが、これは実は袋の形から起ったものではなく「ふくれる」という言葉と同じ語源で、海岸線が湾曲してふくらんでいるところを「フクラ」といった。この「フクラ」という言葉から出たものだといわれる。「フクラ」が山地に入ると、水流が屈曲している所が「フクラ」であった。矢張りふくらむという意味である。狭い谷を分け入ると、そこに思いがけない小さい緩傾斜の地であって、谷川が自由に流路を変えたそのあとに、僅かな平地が左右の沿岸に残っている。こんなところは戦乱などを避けて住むにはくっきょうの隠れ里である。それである者はここに居を構え、少しの田畑を耕作して暮した。「フクラ」と称して珍重したのである。そこで「フクロ」という言葉も、フクラと同じように「ふくれる」という語から出て川や沼などが湾曲して、ふくれている状態から出たのであろうが、「フクロ」の方は、山中の「フクラ」とちがって、みな平地の水辺である。だから語源は同じであっても、それが指し示す地形は別々であって、一つの地形を「フクラ」とも呼び「フクロ」とも呼んだというわけではない。二つの語が分化して、各々その内容を異にするようになってから、「フクロ」という地名が命名されるようになったのであるということである。市の川など改修前を見ると、甚しい湾曲で、その古い河川敷が、志賀、杉山、太郎丸の各地に数多く残っている。その傍に立てば川の屈曲に囲まれた袋のような地形を、今でも目の前に描くことが出来る。二つの川の合流点にはさまれた地形もふくろと考えられるが、むしろ、市の川の屈折によって出来た川の袋、それが川袋の地名となったといってもよいであろう。
    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)498頁~499頁


嵐山町誌133 地形地物によるもの 島

2009-07-17 12:02:00 | 千手堂

▽島 海や湖のない本町の丘陵地帯に島の地名の多いのは、一体どういうわけだろうという疑問が誰にもあるようである。
 南、北中島(鎌形)、中島(千手堂)、田島(志賀、根岸、吉田、杉山)、鼠島(志賀)、島(越畑)等がこれである。
 字書を見ると、島とは先ず第一に、まわりを水で囲まれた土地とある。ところがその外に周囲に際限のあるせまい場所という解が出ている。この解に従えば、山の中で水に関係はなくても、周囲を何かでかこまれていれば島という名は出て来てよい訳である。然しこれよりも尚前掲の地名によくあてはまる解釈がある。即ち、島とは川荒によって新たに生じた地をいうというのである。この方が成程と、うなづかれる点が多い。鎌形の中島は、都幾川が玉川村【現・ときがわ町】から東流して、北中島の百穴の台地につき当って北に進路をかえ、次いで天神下の崖に激突して右折し、再び東流し、「お新家の背戸」から九十度左折して八幡下に向っている。百穴からお新家の背戸にいたる川の沿岸は、川の氾濫で、一面の河原になっている。この流路は河岸工事や堤防によって、今、略々そのコースが一定しているが、一旦大洪水になると、河水は両岸の台地の下まで押しよせ、崖を崩し、畑を埋め、水田を押し流していった。私たちの記憶にのこるものだけでも、明治四十三年(1910)の大洪水以来、屢々こうして、田畑の地が河川敷となったり、これに又肥土(へどろ)が堆積して、肥沃の田畑に戻ったり、このようなことがくり返されて来た。洪水に流された田畑の崩れ目を見ると一米以上二米にも近い肥土の層が出来ている。これは正に川荒によって出来た新らしい土地である。この土地に中島という地名が起った。東と西の台地の間に出来た島という意味であろう。この中島の名はその後拡大されて、遂に東の台地までのぼり北中島、南中島という、広い地域の名称となったのである。
 越畑の島も、深谷から出たところで、土地が平で島のような形をしているという。深谷の水によって、長い年月の間に堆積した新らしい土地であろう。平であるということは水による新しい堆積であることを示している。島は川荒などによって出来た新らしい土地であるから、一般に肥沃の腐蝕土の堆積地なっている。そこで水のある限り、水田として利用される。田島という地名が多いのはこの故である。鼠島の意味は不明だが、この地域も水田地帯であることは同じである。
 然し周囲を何かで限られた地で、島と称するのもないわけではない。千手堂の中島などはその例であろう。ここは槻川に面する洪積台地の緑辺で、数条の水路によって刻まれている。
    『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)497頁~498頁