GOCCIのオトコヲミガク旅(w)

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YOU TUBEで在りし日の「忌野清志郎(栗原清志)」さんを偲ぶ

2009年05月03日 | *YOU TUBE*


YOU TUBEで在りし日の「忌野清志郎
(栗原清志)」さんを偲ぶ




「忌野清志郎」
さんがお亡くなりになったと言う悲しいニュースが入ってきました。


「忌野清志郎(RCサクセション)」さんは、それ程多くは無い「My Favorite Singer」
の一人です。私が学生時代だった彼がババリバリに活躍していた頃より、社会人になってからより良く聴く様になりました。メロディはもちろん詩も堪らなく素敵なのが多いんですよね。


カラオケはあんまり好きでは無いんですが雨上がりの夜空にトランジスタ・ラジオは歌っちゃいますね。(この不朽の名曲を知らない若いのが居るのが残念なんですが・・・・。)


上の曲以外では
「Sweet Soul Music」君が僕を知ってるスロー・バラードいい事ばかりはありゃしないエンジェル「ステップ!」「モーニング・コールをよろしく」「DDはCCライダー」etc
どれも思わず口ずさんでしまう素晴らしい曲ばかりです。


「忌野清志郎」さんとは仕事の関係で何回かお会いした事があるんですよ。丁度20年くらい前の「東芝EMI:原発問題事件」の頃だったと思います。ポルシェにお腹の大きな奥さんを乗せて颯爽と現われた時のことが未だに印象に残っています。過激なライブやマスコミに見せるのとは対称的に穏やかな物腰の人でした。


数年前に癌であるとの発表が有り、去年のはじめ頃にNHKの「SONGS」で元気な姿と歌声を見せてくれていたので、もう完全に回復していたものだと思っていたのですが・・・・・。


58歳と言う余りにも早すぎる死ですが、彼が遺した数々の名曲はいつまでも私達の心の中に刻まれる事は間違いありません。心からご冥福をお祈りいたします。







忌野清志郎さん、壮絶死…がん闘病3年

「愛しあってるかい」のフレーズで一世を風靡し、日本のキング・オブ・ロックと称えられた歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう=本名・栗原清志)さんが2日午前0時51分、がん性リンパ管症のため都内の病院で死去した。58歳だった。清志郎さんは2006年7月に喉頭(こうとう)がんであることをHPで公表。その後、08年2月に東京・日本武道館公演を行い復活したが、同年7月に左腸骨にがんが転移し、再入院。感動を与え続けた不屈のロック魂が天国へ旅立った。一度は克服したがんだった。再び、ステージに立つことを夢に見、不屈のロック魂で病魔に立ち向かった清志郎さんが、ついに、力尽きた。関係者によると、夫人の景子さん(53)と長男の竜平(たっぺい)さん(20)、長女の百世(ももよ)さん(17)ら家族が最期を看取ったという。最初にがんが見つかったのは06年7月。医師から声帯摘出手術を勧められたが、歌手生命が絶たれることから拒否、放射線治療を選んだ。玄米菜食法や漢方など民間療法も取り入れ、克服。07年12月「ジョン・レノン・スーパーライヴ」で1年半ぶりに復活を遂げた。「完全復活祭」と銘打った08年2月の単独公演では、竜平さん、百世さんがサプライズでステージにあがり、清志郎さんに花束を贈呈。2人が幼少のころ、スタジオに呼び寄せ一緒にレコーディングするほど子煩悩で、家族思いだった清志郎さんが、思わず落涙するシーンもあった。同年7月、がんが再び清志郎さんを襲う。左の腸骨に転移し、治療に専念するため、同夏に予定していた野外ライブやイベントをキャンセル。再入院の際の直筆メッセージに「このくらいのことは覚悟してたんで、ぜんぜんヘコんでないから」と気丈に綴っていた。高校のとき、「RCサクセション」を結成。どぎついメークと派手な衣装のステージが注目を集め、ヒット曲を連発。ソロに転向後は、俳優にも挑戦した。昨年11月20日の東京・青山のブルーノート東京。92年にバンドを組んだ縁で、米ソウル歌手、ブッカーT&THE MG’sの来日公演に姿を見せた。メンバーに請われ、「え~聞いてないよ」と言いながらも、「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」「ソウルメン」の2曲を披露。最後の熱唱だった。「ベイベー」「愛してます」「愛しあってるかい」。清志郎さんがステージからかすれた声で叫ぶ、あのキメぜりふはもう2度と聞けない。 (5月3日7時52分配信 サンケイスポーツ)





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