池田大作著『今日のことば365』をブログする

池田大作著『今日のことば365』(ポプラ社)から、一日一言を引用し、それをきっかけにgizmoが思ったことを書いていく。

十二月二十二日

2006-12-24 10:18:17 | Weblog
十二月二十二日

信念も、基準もなく、批判のみしている人が、賢明に見える社会である。信念、基準を持てる人は、一往、受け身になるようでも、結局は強く、幸福であることを忘れてはならない。


宗教というものが、つまりは、基準なのだと思う。
「だからあなたはなにを選んでいるの?」
ということは相手に対する当然の疑問であり、
それを前提としなければ対話は成り立たない。

批判のみしている者というのは、
結局どのポジションも選ぶことが出来ず、
ただそのときそのときで意見を変える。
だから、そういうタイプの人間の集まるコミュニティは、
普段偉そうなことを言っていても、あるとき一瞬で崩壊するのだろう。

十二月二十一日

2006-12-24 10:16:38 | Weblog
十二月二十一日

いかなる大業も地道な努力の積み重ねを無視しては、達成されまい。そして、その戦いにあって、最も大事なことは、人の心をつかむことであろう。しかも、人の心を動かし、捉えるものは、策でも技術でもない。ただ誠実と熱意なのである。


人の心をつかむことが出来るようになるためにも、
きっと地道な努力の積み重ねが必要なのだろう。
だからトレーニングをするしかない。
そのトレーニングの過程で失敗することもある。
また、自分のコンディションにもよるだろう。

誠実と熱意を示すことは策でも技術でもないということの意図はわかるが、
やみくもに熱意を示しても逆効果になる場合もある。
誠実さや熱意を表現することは技術だと思う。
その技術を磨くことも必要なことであり、
技術ゆえに伝わらなかったのなら、
それを認めることから始めなければならない。

「自分の熱意が足りなかった」などと言って、
自己表現の技術の未熟さから目を背けるから、
人間関係がおかしくなる。
自分の誠実さを疑うから、精神を病むことになる。

十二月二十日

2006-12-20 07:50:57 | Weblog
十二月二十日

”現実に無批判”に埋没せよ、ということでは全くない。その逆に、”現実”を批判しつつ、しかもそこから離れず、粘り強い改革をつづける主体性と意志を持続してほしいと、私は思う。


粘り強い意志を継続せずに、
安易にルールを作ってハイ終わりってな、
名ばかりの「改革」ではどうしようもないんです。
それは社会に対してもそうだし、自分に対してもそうだ。
自分を変えるには、ルールを作るだけではなく、
それを主体的に運用し、持続しなければならない。
意味のないお題目では、なにも変わらないんです。

たぶん一番のネックで、変えることが難しいのは、
人の心の傾向性だと思います。
その一番のネックを変えようとし続けることが、
仏道修行であり、人間革命なんですわ。

十二月十九日

2006-12-20 07:49:27 | Weblog
十二月十九日

自分の道はだれにも頼らず、自分で決めることだ。どんな苦難にもくじけない、強い自己の建設のみが、新しい自己の革命となるのである。


結局は自分なんだと思う。
自分をとりまく環境を嘆くのは、実は
努力するのが面倒で、誰かに甘えてるんだよね。
受け入れるべき環境は環境として受け入れて、
その中でなにが出来るのか、なにをしたいのか、
決めるのは自分自身。
誰に強制されるわけでも、誰のせいでもなく、
自分で決めて自分で実行する。
もし環境を変えたいと思うのなら、
その努力をするのも自分自身なんだ。
変えられないなら、それは自分の責任なんだよ。

十二月十八日

2006-12-18 19:50:32 | Weblog
十二月十八日

様々な国の文化は、それぞれ異なる条件のもとに、それぞれ特有の線をもち、発展を遂げてきている。表面に現れているものは、その一部であり、そこには、それこそ無類の背景が広がっていることを知らなくてはなるまい。物事の判断は一面的であってはならない。そのためにも、絶えず相手側の立場に立っても、物事を考えられる心の広さをもちたいものだ。


相手の立場に立ってものを考えないから、
相手に絶対出来ないことを要求し、関係を悪化させることになる。
関係を悪化させることが目的ならば、それでいいのだが、
良好な関係を築こうと思うのなら、相手に対する配慮が必要だ。
それは、きっと原理原則にさえも優先する。
価値はどこにあるのかということを見極めることが大切だと思う。

十二月十七日

2006-12-18 19:49:29 | Weblog
十二月十七日

人間の日常生活の喜びと悔恨は、信じたものが、真実であったか、どうかにかかっているといってよい。この日々の集積が、その人々の一生の幸、不幸を彩るともいえまいか。


自分の将来を信じることを希望と呼ぶ。
信じたものを真実にするのは、自分自身だと思う。
信じたものを虚構にしてしまうのも、自分自身だと思う。
信じたものに裏切られたのは、つまり、
自分が自分を裏切ったということだ。
それが主体的に生きるという覚悟だろう。

十二月十六日

2006-12-18 19:48:30 | Weblog
十二月十六日

青年が、あるひとつの目標にむかい、努力していく姿は、もっとも力強く、もっともすがすがしく、もっとも美しい。世界じゅうのどこを探しても、青年の苦闘にまさる美しきものはない----。


過去のことにこだわって、一歩も進めないようじゃ意味がない。
過去は過去として、今、自分の決めた目標に向かっていく前向きさ。
それこそが仏の姿勢と言えるんじゃないかと思うよ。

十二月十五日

2006-12-15 09:57:40 | Weblog
十二月十五日

人間である以上、誰にでも過ちはある。間違った見解に陥ることもあろう。しかし、過ちを指摘されたときに、率直に非を認め、大胆に改めるかどうかで、進歩の人か保守の人か、また善意の人か悪意の人かが決まってくる。


過ちを認めたあとの行動で、その人の真価が決まるんだろうな。
過ちを認めたとき、辞めることで責任を取った気になる人もいる。
過ちを認め、それを糧にして前進する人もいる。
また、過ちを認めた人に対して、辞めることを要求する人もいる。

責任の取り方というのは、ひとそれぞれだけれども、
僕は、生き恥をさらすことこそ仏道修行なのではないか、と思う。

十二月十四日

2006-12-14 08:44:37 | Weblog
十二月十四日

土台は常に地味であり、人目にはつかぬものだ。いかなる大木も、地中に深く張った逞しい根によって支えられている。


派手に枝葉を伸ばすことも必要なことだけれど、
地中にはそれを支えるだけの根を張らなければならない。
なにごともそうだけど、基礎練習やんなきゃな。

十二月十三日

2006-12-14 08:43:42 | Weblog
十二月十三日

青春を特徴づけるものは、躍動する若さであり、激流のごとき熱情であり、果てしなく広がりゆく夢であり、雪のごとき清純さである。まさに、青春は人生の華であり、かけがえのない珠玉といえる。


本来は老若男女みんながみんな青春のはずだ。
死が生の準備期間だとするなら、生は花の時期に他ならない。
どんな美しい花と咲くのかは、自分次第である。
自分がどんな風に自分自身を磨いたかによるのだ。