十二月二十二日
信念も、基準もなく、批判のみしている人が、賢明に見える社会である。信念、基準を持てる人は、一往、受け身になるようでも、結局は強く、幸福であることを忘れてはならない。
宗教というものが、つまりは、基準なのだと思う。
「だからあなたはなにを選んでいるの?」
ということは相手に対する当然の疑問であり、
それを前提としなければ対話は成り立たない。
批判のみしている者というのは、
結局どのポジションも選ぶことが出来ず、
ただそのときそのときで意見を変える。
だから、そういうタイプの人間の集まるコミュニティは、
普段偉そうなことを言っていても、あるとき一瞬で崩壊するのだろう。
信念も、基準もなく、批判のみしている人が、賢明に見える社会である。信念、基準を持てる人は、一往、受け身になるようでも、結局は強く、幸福であることを忘れてはならない。
宗教というものが、つまりは、基準なのだと思う。
「だからあなたはなにを選んでいるの?」
ということは相手に対する当然の疑問であり、
それを前提としなければ対話は成り立たない。
批判のみしている者というのは、
結局どのポジションも選ぶことが出来ず、
ただそのときそのときで意見を変える。
だから、そういうタイプの人間の集まるコミュニティは、
普段偉そうなことを言っていても、あるとき一瞬で崩壊するのだろう。