池田大作著『今日のことば365』をブログする

池田大作著『今日のことば365』(ポプラ社)から、一日一言を引用し、それをきっかけにgizmoが思ったことを書いていく。

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おわりのことば

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息が続かなかったり、踏みとどまったりしましたが、
なんとか一年分続けることが出来ました。
いやあ、一年って短いようでやっぱり長いよ(笑)。
今、ちらっと、1月あたりのものを読み返したりしたんだけれども、
「ああ、人間って一年で変わるものだなあ」という実感があります。
当時はまだ肩に力が入ってる感じがしますね。
一年前の僕を今の自分が評価するように、
一年後は、一年後の僕が今の自分を評価しているのでしょう。
そのとき、僕はどう変わっているのかな。
それを考えるとワクワクするしおもしろそうです。

一年間、池田大作という人とつきあってみて僕が思うのは、
相手のことを第一に考えることの出来る人なんだな、ってことです。
固定的なテキストでは、誤解されることもあるし、
時によっては反発されることもあります。
だけど、読者のことを想像しながら、
こんな風に思ってもらえるんじゃないか、
こんな風に使ってもらえるんじゃないか、
いろんなことを考えながら書いていることはわかる。
自分の評価を気にするのではなく、
読者の成長がなによりも大切だという姿勢。
…見習いたいですね。

やっぱり一番大切なのは、
たとえば池田大作という存在なんかではなく、
あなた自身なんですよ。
それを自分に落とし込んだ上で、
なにをするのか、なにを選ぶのか、
それはその人の自由なんです。
自分の人生をどう使うのか、
それはその本人が決めることです。

それにしても、あー終わった終わった。
次はなにしよっかな(笑)。
読者だった人、ありがとうございました。
たまにもらえるコメントが励みになりました。
ありがとうね。
では、またどこかで(^^)
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十二月三十一日

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十二月三十一日

来年の君を 僕は見たい
 十年先の君の姿を
  僕は 信ずる
君よ 自信に満ちて
 今日もただ 君らしく
  励みゆくことだ


そう、大切なことは「僕らしく」だと思う。
そしてすべての人が「自分らしく」生きられたらいい。
僕は僕らしく、僕なりの人生を、
精一杯味わって楽しんで歩むよ。
どんなことがあっても絶対負けない自分を創るよ。
十年先も二十年先も、ずっとね。
ありがとう。
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十二月三十日

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十二月三十日

独創性とは、人真似を許さぬところのものである。そして、未聞のあるものを生むところの力である。


生きることは芸術でさ。
自分にしか創れない舞台のシナリオを書いて、
その主人公を演じているようなもんだよね。
だからすべては自分次第。
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十二月二十九日

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十二月二十九日

何かひとつ、語学を体得するよう努力して下さい。世界はだんだん狭くなっていきます。
将来、世界に羽ばたく人材として、豊かな知識を今のうちに身につけていただきたい。


池田SGI会長のこのアドバイスは何度も見てるんだけど、
こういうのこそ耳を傾けるべきだと思うんだよな。
池田SGI会長の姿勢から僕が学べることのひとつは、
異文化を知れ、世界を知れ、ということだと思う。

語学というのはそのためのツールだ。
言葉を学ぶことで、その言葉を使う人間の文化や価値観を知ることが出来る。
世界に存在する悲しい出来事は全て、価値観のすれ違いから起きている。
対立するふたつの価値観を対話によって止揚し、
新しい価値を生み出すことが本来の「創価」ということであり、
そこではじめて平和というものが見えてくると思うんだな。

語学をやれというアドバイスには、全てが入ってる。
自分の価値観を見直すことや、それに固執しないこと、
自分の使っている言葉そのものを見つめ直すことなどなど…。
もちろん頭脳のトレーニングにもなる。

しかし、この年末の時期に、このことばを書いているのは
池田さんの考えがあってのことなんだよな。
こういうところが彼のすごさだと僕は思うよ。
「来年はどんな年にしようか、なにをしようか」
と思っている人に対して、絶妙なタイミングで、このことば。
逆に言えば、愛するこの本の読者に対して、
本当にやってほしいことを、
この場所に書いているってことなんだと思うよ。

語学やりましょ、語学。
本当に世界はどんどん狭くなってる。
それに対応出来るか出来ないかが、
格差となっていくのではないか。
格差ってのは、つまりは人格の差だからね。
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十二月二十八日

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十二月二十八日

趣味というものは、いわば人間生活の潤滑油である。趣味のない人には、うるおいも、人間的な幅も、心の豊かさも感じられない。ある意味では、日常の仕事のなかよりも、ずっとその人らしさが、趣味のなかにあふれているともいえる。仕事によって、その人の能力があらわれるとするならば、趣味によって、その人の独特の風味、風格がにじみ出るものである。


趣味を持とうよ、もっともっと。
面白いって思ったら、やれるとこまでは追求してみようよ。
大好きなことのない人は、人間も大好きになれないと思う。
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十二月二十七日

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十二月二十七日

権力をもった人間の名聞名利と偏見で動かされていくかぎり、民衆の幸福は永久にありえないだろう。権力者の胸底に生命蔑視の原理があるかぎり、民衆の生命の安全すら保障されないであろう。ここに魔性の権力が暴威をふるう温床があるからだ。


権力の魔性が引き起こす誘惑を、コントロール出来る人はマレであり、
その権力が強ければ強いほど、コントロールすることが難しい。
その権力を、なんのためにどのように使うのか、
権力者は常にそれがチェックされていると思っていい。
権力を自分だけのために使えば、その国は必ず滅ぶものだ。
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十二月二十六日

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十二月二十六日

理性は、両刃の剣であり、善にも悪にも、通ずるわけである。善の面は、さらにどこまでものばしていきたいものだ。悪の面は、是非とも、何らかの歯止めがほしいものである。その歯止めがなければ、おそろしくて、善の面も、のばすわけにはいかなくなってしまうのではなかろうか。


悪の面の歯止めがなければ、善の面を伸ばすのが恐ろしい、とな?
「悪の面の歯止め」というのはなんだろう。

善の面を伸ばしていったとき、
いつの間にかその行為が悪になってしまっていることがある。
僕が「悪の面の歯止め」だと思うものは、
つねに自分の振る舞いをチェックすることじゃないかと思う。
「善だ」「正義だ」これらの言葉がエクスキューズとなり、
なにをやってもいいという心情に陥りやすいのだよ、人間は。
だから、一日に一度くらいは、
自分のしたことを省みる時間を取ることが、
有効なんじゃないかななんて思うわけだ。
それが「悪の面の歯止め」になるのかもしれない。
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十二月二十五日

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十二月二十五日

真面目な そして熱心な君の言葉が
 口を吐いて出てゆく
やがて人々は
 必ず謹聴するであろう


人間はいつか真剣にならなきゃならない。
そのときにはじめて真剣な人の言葉を思い出し、
その人の言っていたことがわかるものだ。
だから、今わからなくてもいいという気持ちで、
言葉をかけることは無駄じゃないんだと思う。
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十二月二十四日

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十二月二十四日

幸せそうでも
 悲しみのある人生よりも
私は 多忙でも
 充実した 心より満足できる
  人生の総仕上げを 成し遂げたい


なるほど、池田さんはそれを選んだんだね。

多忙な人は、多忙なことを選んでいる。
暇な人は、暇なことを選んでいる。
それを自覚出来ていれば、なにをやったって自由だ。
すべては自分自身に委ねられている。
やりたくなったらやればいいし、
やめたくなったらやめればいい。
そのことが引き起こす影響を、
自分がすべて引き受ける覚悟があればいい。
それが主体性というものだろう。
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十二月二十三日

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十二月二十三日

幸福は、けっして山のかなたにはない。自己自身の内にある。しかし、坐して安閑としている自分ではなく、あくまで、かなたにあるものをめざして、けわしい尾根に挑戦し、障害を一歩一歩、克服してすすんでいる”戦う自分”の生命の躍動の内にあるのだ。


なにかが欲しいと思う自分、
なにかになりたいと思う自分、
これらをエセ仏教は煩悩だと否定するが、
これらこそが人間の生きる意欲に繋がると思う。
なんの欲望も持たずに生きてるのなら、
それは生ける屍ではなかろうか。
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