池田大作著『今日のことば365』をブログする

池田大作著『今日のことば365』(ポプラ社)から、一日一言を引用し、それをきっかけにgizmoが思ったことを書いていく。

おわりのことば

2006-12-31 09:20:34 | Weblog
息が続かなかったり、踏みとどまったりしましたが、
なんとか一年分続けることが出来ました。
いやあ、一年って短いようでやっぱり長いよ(笑)。
今、ちらっと、1月あたりのものを読み返したりしたんだけれども、
「ああ、人間って一年で変わるものだなあ」という実感があります。
当時はまだ肩に力が入ってる感じがしますね。
一年前の僕を今の自分が評価するように、
一年後は、一年後の僕が今の自分を評価しているのでしょう。
そのとき、僕はどう変わっているのかな。
それを考えるとワクワクするしおもしろそうです。

一年間、池田大作という人とつきあってみて僕が思うのは、
相手のことを第一に考えることの出来る人なんだな、ってことです。
固定的なテキストでは、誤解されることもあるし、
時によっては反発されることもあります。
だけど、読者のことを想像しながら、
こんな風に思ってもらえるんじゃないか、
こんな風に使ってもらえるんじゃないか、
いろんなことを考えながら書いていることはわかる。
自分の評価を気にするのではなく、
読者の成長がなによりも大切だという姿勢。
…見習いたいですね。

やっぱり一番大切なのは、
たとえば池田大作という存在なんかではなく、
あなた自身なんですよ。
それを自分に落とし込んだ上で、
なにをするのか、なにを選ぶのか、
それはその人の自由なんです。
自分の人生をどう使うのか、
それはその本人が決めることです。

それにしても、あー終わった終わった。
次はなにしよっかな(笑)。
読者だった人、ありがとうございました。
たまにもらえるコメントが励みになりました。
ありがとうね。
では、またどこかで(^^)

十二月三十一日

2006-12-31 09:18:43 | Weblog
十二月三十一日

来年の君を 僕は見たい
 十年先の君の姿を
  僕は 信ずる
君よ 自信に満ちて
 今日もただ 君らしく
  励みゆくことだ


そう、大切なことは「僕らしく」だと思う。
そしてすべての人が「自分らしく」生きられたらいい。
僕は僕らしく、僕なりの人生を、
精一杯味わって楽しんで歩むよ。
どんなことがあっても絶対負けない自分を創るよ。
十年先も二十年先も、ずっとね。
ありがとう。

十二月三十日

2006-12-30 09:41:51 | Weblog
十二月三十日

独創性とは、人真似を許さぬところのものである。そして、未聞のあるものを生むところの力である。


生きることは芸術でさ。
自分にしか創れない舞台のシナリオを書いて、
その主人公を演じているようなもんだよね。
だからすべては自分次第。

十二月二十九日

2006-12-29 08:41:18 | Weblog
十二月二十九日

何かひとつ、語学を体得するよう努力して下さい。世界はだんだん狭くなっていきます。
将来、世界に羽ばたく人材として、豊かな知識を今のうちに身につけていただきたい。


池田SGI会長のこのアドバイスは何度も見てるんだけど、
こういうのこそ耳を傾けるべきだと思うんだよな。
池田SGI会長の姿勢から僕が学べることのひとつは、
異文化を知れ、世界を知れ、ということだと思う。

語学というのはそのためのツールだ。
言葉を学ぶことで、その言葉を使う人間の文化や価値観を知ることが出来る。
世界に存在する悲しい出来事は全て、価値観のすれ違いから起きている。
対立するふたつの価値観を対話によって止揚し、
新しい価値を生み出すことが本来の「創価」ということであり、
そこではじめて平和というものが見えてくると思うんだな。

語学をやれというアドバイスには、全てが入ってる。
自分の価値観を見直すことや、それに固執しないこと、
自分の使っている言葉そのものを見つめ直すことなどなど…。
もちろん頭脳のトレーニングにもなる。

しかし、この年末の時期に、このことばを書いているのは
池田さんの考えがあってのことなんだよな。
こういうところが彼のすごさだと僕は思うよ。
「来年はどんな年にしようか、なにをしようか」
と思っている人に対して、絶妙なタイミングで、このことば。
逆に言えば、愛するこの本の読者に対して、
本当にやってほしいことを、
この場所に書いているってことなんだと思うよ。

語学やりましょ、語学。
本当に世界はどんどん狭くなってる。
それに対応出来るか出来ないかが、
格差となっていくのではないか。
格差ってのは、つまりは人格の差だからね。

十二月二十八日

2006-12-28 10:01:50 | Weblog
十二月二十八日

趣味というものは、いわば人間生活の潤滑油である。趣味のない人には、うるおいも、人間的な幅も、心の豊かさも感じられない。ある意味では、日常の仕事のなかよりも、ずっとその人らしさが、趣味のなかにあふれているともいえる。仕事によって、その人の能力があらわれるとするならば、趣味によって、その人の独特の風味、風格がにじみ出るものである。


趣味を持とうよ、もっともっと。
面白いって思ったら、やれるとこまでは追求してみようよ。
大好きなことのない人は、人間も大好きになれないと思う。

十二月二十七日

2006-12-28 10:00:54 | Weblog
十二月二十七日

権力をもった人間の名聞名利と偏見で動かされていくかぎり、民衆の幸福は永久にありえないだろう。権力者の胸底に生命蔑視の原理があるかぎり、民衆の生命の安全すら保障されないであろう。ここに魔性の権力が暴威をふるう温床があるからだ。


権力の魔性が引き起こす誘惑を、コントロール出来る人はマレであり、
その権力が強ければ強いほど、コントロールすることが難しい。
その権力を、なんのためにどのように使うのか、
権力者は常にそれがチェックされていると思っていい。
権力を自分だけのために使えば、その国は必ず滅ぶものだ。

十二月二十六日

2006-12-28 10:00:10 | Weblog
十二月二十六日

理性は、両刃の剣であり、善にも悪にも、通ずるわけである。善の面は、さらにどこまでものばしていきたいものだ。悪の面は、是非とも、何らかの歯止めがほしいものである。その歯止めがなければ、おそろしくて、善の面も、のばすわけにはいかなくなってしまうのではなかろうか。


悪の面の歯止めがなければ、善の面を伸ばすのが恐ろしい、とな?
「悪の面の歯止め」というのはなんだろう。

善の面を伸ばしていったとき、
いつの間にかその行為が悪になってしまっていることがある。
僕が「悪の面の歯止め」だと思うものは、
つねに自分の振る舞いをチェックすることじゃないかと思う。
「善だ」「正義だ」これらの言葉がエクスキューズとなり、
なにをやってもいいという心情に陥りやすいのだよ、人間は。
だから、一日に一度くらいは、
自分のしたことを省みる時間を取ることが、
有効なんじゃないかななんて思うわけだ。
それが「悪の面の歯止め」になるのかもしれない。

十二月二十五日

2006-12-28 09:58:31 | Weblog
十二月二十五日

真面目な そして熱心な君の言葉が
 口を吐いて出てゆく
やがて人々は
 必ず謹聴するであろう


人間はいつか真剣にならなきゃならない。
そのときにはじめて真剣な人の言葉を思い出し、
その人の言っていたことがわかるものだ。
だから、今わからなくてもいいという気持ちで、
言葉をかけることは無駄じゃないんだと思う。

十二月二十四日

2006-12-24 10:21:48 | Weblog
十二月二十四日

幸せそうでも
 悲しみのある人生よりも
私は 多忙でも
 充実した 心より満足できる
  人生の総仕上げを 成し遂げたい


なるほど、池田さんはそれを選んだんだね。

多忙な人は、多忙なことを選んでいる。
暇な人は、暇なことを選んでいる。
それを自覚出来ていれば、なにをやったって自由だ。
すべては自分自身に委ねられている。
やりたくなったらやればいいし、
やめたくなったらやめればいい。
そのことが引き起こす影響を、
自分がすべて引き受ける覚悟があればいい。
それが主体性というものだろう。

十二月二十三日

2006-12-24 10:19:17 | Weblog
十二月二十三日

幸福は、けっして山のかなたにはない。自己自身の内にある。しかし、坐して安閑としている自分ではなく、あくまで、かなたにあるものをめざして、けわしい尾根に挑戦し、障害を一歩一歩、克服してすすんでいる”戦う自分”の生命の躍動の内にあるのだ。


なにかが欲しいと思う自分、
なにかになりたいと思う自分、
これらをエセ仏教は煩悩だと否定するが、
これらこそが人間の生きる意欲に繋がると思う。
なんの欲望も持たずに生きてるのなら、
それは生ける屍ではなかろうか。