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尾形憲先生

2017-02-01 08:33:24 | 日記
Papasan宛にハガキが届いた。あて名の文字、見覚えがある。裏を返すと、尾形憲先生の逝去のお知らせだった。でもこのあて名の文字は確かに尾形先生の自筆だ。中を読むとお知らせの内容は2014年10月22日に先生自身が自筆で作って遺言執行人である弁護士に届けてあったものだった。そして宛名も自筆で書いたのだという。なるほど。逝去の日時は弁護士が記入したものである。逝去のお知らせの下に細かく弁護士の経過説明が記されている。

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逝去のお知らせ
2017年1月21日、尾形憲が93歳で逝去しましたのでお知らせします。
本人の遺志により通夜や告別式などは一切行わず、遺体は焼骨を粉にして海に散布します。香典や献花の類はすべてお断りします。・・・略

P.S.(尾形より)
「この道はいつか来た道」の感が深い今日このごろです。
今のままの日本(特に沖縄)では死んでも死に切れません。ヒュードロドロドロと化けて出てともに闘います。よろしくお願いします。
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先生、亡くなったんだ。P.S.を読んで思わず噴き出してしまった。この反骨精神、このユーモア、おみごと!

尾形憲先生は法政大学の名誉教授だった。と言っても私ではなく、papasanの先生である。Papasanは各大学の通信教育を受けていた。明星大学では、司書や学芸員の資格もとった。とはいえ資格がほしかったのではないと思うが。法政では経済学を専攻したようだが、そのスクーリングで知り合いになったのが尾形先生だった。通信大学には社会人は大勢在籍している。そういった教え子たちを訪ねるのが楽しみとかで、熱海を訪ねた折にはPapasanのところによってくれた。そんな縁で我が家にも見えられ、私とすっかり意気投合してしまった。話している先生の目は子供のようにいつも輝いていたのを覚えている。

なんでも先生の授業の最前席は、社会人聴講生のためにとってあるのそうだった。学生たちが授業料を払わない聴講生たちに最前席を提供するのは不公平だといったそうだ。しかし、パスポート欲しさの君たちより本当に学びたい社会人のほうが教える側にはやりがいがあるんだ、とその後も最前席は社会人聴講生に開放していたそうだ。
私は先生の授業を受講したことはないが、先生が法政大学で開いていた「平和大学」には講師として招かれたことがある。スライド作品の「豊かさの裏側」「平和」をもってで出かけた。その場で受講生たちと知り合いになり、遅くまで語り合った。あれはいつ頃のことだったろう。

記憶が正しければ、先生は士官学校のエリートで戦前戦中はパリパリの軍国少年だったが、戦地に赴き、現実を知り、敗戦後、再び大学に戻り、法律を学び、本当のことを教えたいと法政に残り、教授となり、半生を平和運動にささげた。著書も持っていたのだが、去年の本の整理でみんな処分してしまって手元にない。で、先生の経歴を書くことは出来ない。先生の呼び掛けには、いつも自筆のあて名でお知らせは届いていた、ほとんど呼応していた。真鶴のミカンも研究室には送っていた。

先生、ご冥福を祈っちゃいけないね、ヒュードロドロと出てきて闘ってもらわないと困るから。
コメント
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